Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

佐々木泰綱

佐々木 泰綱(ささき やすつな、1213年~1276年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。仮名は三郎。官途および通称は左衛門尉(近江三郎左衛門尉)、近江大夫判官、壱岐壱岐前司・壱岐入道)法名生西。のちに六角氏となる近江宇多源氏佐々木氏嫡流の当主で、京都六角堂に邸宅を構えたことにちなんで六角泰(ろっかく ー)とも呼ばれる*1

佐々木信綱の3男。子に経泰頼綱西条長綱(1246-1300)鳥山輔綱、僧・綱賀、僧・良輝権少僧都、女子海東雅忠室)がいる。

 

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)では母を川崎五郎為重の娘とする*2が、これは転記の際に誤って兄・綱の母が書かれたもので、「」の字も(外祖父である)川崎為からの偏諱ではないかとする見解がある*3。為重(中山五郎為重)は岳父である比企能員の変で討ち死にしたといい*4、その本領であった武蔵国川崎荘を継承した信綱は北条義時の娘と再婚。その間に生まれた3男泰綱・4男氏信を厚遇し、嫡子の地位はやがて重綱から泰綱に移ったとされる*5

 

その地位の源泉として、北条氏得宗家との烏帽子親子関係が関係しているのではないかと思う。 

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こちら▲の記事で紹介した通り、佐々木泰綱に連れられた嫡男は、当時の執権・北条時の邸宅で9歳にして元服し「綱」を名乗ったが、明らかに一字拝領が行われた形跡がある。

これを踏まえてその父であるの名に着目すると、同様に「」の字は3代執権・北条が烏帽子親であったことを想起させる。

紺戸淳は『分脈』に建治2(1276)年に64才(数え年)で亡くなった旨の記載があり*6、逆算すると建保元(1213)年生まれとなるので、元服の年次はおおよそ1222~1227年と推定可能で、元仁元(1224)年6月から執権に就いた*7からの偏諱であるとしている*8

吾妻鏡』では元仁元年正月1日条佐々木右衛門次郎信高〔=高信か〕 同三郎泰綱」が初見とされる同年12月19日条にも「佐々木三郎泰綱」とあり)*9が、前年にあたる貞応2(1223)年10月13日条佐々木右衛門三郎*10が実際の初出であろう。前述の生年に従うと、後者(1223年)当時11歳と元服直後の年齢として相応である。よって、実際には宇都宮泰綱畠山泰国三浦泰村らと同様、執権となる前の泰時から1字を拝領したことが窺える。

*元仁元年記事での「同」は「佐々木右衛門」を指すと考えて良いと思うので、正確に書くならば「佐々木右衛門次郎信高 佐々木右衛門三郎泰綱」ということになろう。各々「佐々木右衛門」なる人物の「次郎(=次男)」、「三郎(=3男)」を表していると考えられる。『分脈』で見る限り、当該期の "佐々木泰綱" に当てはまるのは本項の六角泰綱しかいないので、同系図に従えば父・信綱が「佐々木右衛門」ということになる。そこで再度『吾妻鏡』(『吾妻鏡人名索引』)を見返すと、承久3(1221)年の記事4箇所で「佐々木四郎右衛門尉信綱」等と呼ばれていたことが確認できる*11ので、『分脈』等系図類によって次郎信高=高信の誤記、三郎=泰綱と判断できる。

 

その後の表記の変化も確認しておこう。寛喜元(1229)年10月22日条まで「佐々木三郎」で通されたものが、嘉禎3(1237)年6月23日条近江大夫判官泰綱(同日条に弟・氏信も「近江四郎左衛門尉氏信」とあるように「近江」は父・信綱の官職=近江守に因む)までに左衛門尉に任官して叙爵したことが分かる。そして仁治元(1240)年8月16日条(「近江大夫判官泰綱」)から翌2(1241)年正月14日条(「壱岐前司」)*12までの間、28歳で壱岐守に任官して間もなく辞したことが分かる。

*但し『分脈』での注記によると、嘉禎3年12月25日(当時25歳)に検非違使との兼任という形で壱岐守となり、翌暦仁元(1238)年8月28日に辞したとあり*13、一応検討の余地を残している。ただ、父・信綱に比べかなり低年齢化していることになり、後に息子・頼綱が20代後半~30代前半で備中守となったことも踏まえると、筆者は『吾妻鏡』の方が正確ではないかと判断する。

 

以後、弘長3(1263)年8月9日条まで「佐々木壱岐前司(泰綱)」と表記されるが、終見の文永3(1266)年7月4日条では「佐々木壱岐入道生西」となっており、その間に出家したことが窺える。『分脈』によると、弘長3年11月22日に出家して「生西」と号した旨の記載があり*14、同日の時頼逝去*15を悼んで剃髪したようである。

 

(参考ページ)

 佐々木泰綱 - Wikipedia

 佐々木泰綱(ささき やすつな)とは - コトバンク

 壱岐大夫判官泰綱: 佐々木哲学校佐々木哲のブログ記事)

 

脚注

*1:六角氏(ろっかくうじ)とは - コトバンク、および 六角泰綱(ろっかく やすつな)とは - コトバンク を参照のこと。

*2:『編年史料』後宇多天皇紀・建治2年3~5月 P.42

*3:澁谷氏 ~秩父党~ #渋谷重国 より。為重の父は重国の兄・中山重実。

*4:『吾妻鏡』建仁3(1203)年9月2日条

*5:近江守信綱: 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ)より。

*6:注2同箇所。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*8:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図・P.17。

*9:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.317~318「泰綱 佐々木」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。尚、本文に述べている泰綱の登場箇所についてもこれに拠ったものとする。

*10:吾妻鏡人名索引』P.488の通称・異称索引では誰のことか不明として扱われている。

*11:吾妻鏡人名索引』P.259「信綱 佐々木」の項 より。尚、嘉禄元(1225)年12月20日条からは「佐々木四郎左衛門尉(信綱)」等に表記が変化しているが、少なくとも1223~24年当時は「右衛門」で表記が揃っているので、信綱の息子として信高(高信)・泰綱兄弟が登場するようになったと考えて良いだろう。

*12:同月23日条に「佐々木壱岐前司」、同4(1244)年正月1日条には「佐々木壱岐前司泰綱」とある。

*13:注2同箇所。

*14:注2同箇所。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。