Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

高島泰信

佐々木 泰信(ささき やすのぶ、1230年頃?~没年不詳(1263年~1292年の間か))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。通称および官途は 孫四郎、左衛門尉。佐々木信綱の次男で高島氏の家祖・佐々木(高島)高信の嫡男で、高島泰信(たかしま ―、旧字体高嶋泰信)とも呼ばれる。子に佐々木(高島)泰氏佐々木行綱

 

吾妻鏡』を見ると、寛元3(1245)年8月15日条佐々木孫三〔四〕郎泰信」を初見とし、翌4(1246)年8月15日条にも「佐々木孫四郎泰信」とあって、この時までに元服を済ませていたことが窺える。

次いで建長4(1252)年4月3日条に「佐々木四郎左衛門尉泰信」とあり、左衛門尉の官職を得たことも確認できる。同8(1256)年8月15日条佐々木近江弥〔孫〕四郎左衛門尉」とあるように、佐々木信綱(四郎、近江守)の孫で仮名が四郎、官途が左衛門尉であったが故にそのようにも呼ばれていたことが窺え*1『尊卑分脈』佐々木氏系図における高信の長男・泰信(左門尉)に比定されよう。以後、弘長3(1263)年8月15日条佐々木孫四郎左衛門尉泰信」に至るまで計13回登場する*2

 

父・高信については生没年不詳のようだが、その兄弟については、太郎重綱が1207年*3三郎泰綱が1213年、四郎氏信が1220年の生まれと判明しており、"信綱二男、高島次郎左衛門" 高信*4の生年は1208~1212年の間に推定できよう。

『吾妻鏡』元仁元(1224)年正月1日条には「佐々木右衛門次郎信高〔ママ、高信〕 同三郎泰綱」とあり、高信・泰綱兄弟が10代前半の適齢を迎えて元服済みであったことが分かる。

 

間を取って1210年頃の生まれとすると、現実的な親子の年齢差を考慮して、長男・泰信の生年は早くとも1230年頃と推定できる。この場合、初出の1245年には元服して間もない位の16歳(数え年、以下同様)、左衛門尉任官後の1252年には23歳となり、十分妥当な年齢と言えよう。

*参考までに佐々木氏一族の近親者の例を見ておこう。

まず、佐々木氏六角流の例だと、従弟にあたるは5代執権・北条時の邸宅にて9歳で元服し、『吾妻鏡』での呼称の変化から16歳で左衛門尉に任官していたことが窺える。頼綱の父・泰綱も『吾妻鏡』で確認してみると、11歳の段階で確実に元服を済ませており、17歳までは無官で「佐々木三郎」とのみ呼ばれていたものが、25歳までには左衛門尉に任官済みであったことが分かる。

京極流の祖・氏信は16歳にして「近江四郎左衛門尉氏信」の呼称で『吾妻鏡』に初めて現れ、左衛門尉任官済みであったことが分かる(のちに対馬守に任官)。同じく『吾妻鏡』にて、その長男・頼氏は16歳の時に「対馬太郎頼氏」として初出し、その3年後には「佐々木対馬太郎左衛門尉頼氏」と表記が変化している*5

そして高島氏の祖である父・高信は『吾妻鏡』前述の初見記事(「佐々木右衛門次郎信高」、当時15歳位)からしばらく現れないが、嘉禎元(1235)年7月27日条で「近江入道虚仮(=信綱)子息次郎左衛門尉高信」と再登場し*6、当時20代半ば位で左衛門尉に任官済みであったことが分かる。

 

ここで「」の名に着目すると、「信」が祖父・信綱、父・高信より継承してきた通字であるのに対し、「」の字は、鎌倉幕府第3代執権・北条が亡くなる仁治3(1242)年*7までに元服しその偏諱を賜ったものと考えて良いだろう。叔父・がその前例であったが、泰信も同様に泰時と烏帽子親子関係にあったと判断される。

 

以後の高島氏は、嫡流が「四郎」を代々の通称とし、嫡男の高島泰氏をはじめ、一族には高信の「高」や泰信の「」を含む者が多く見られる*8

 

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尚、正応5(1292)年10月24日には「あまめうこ」=尼・妙語(後述参照)による平仮名や変体仮名が用いられた譲状が出されている*9が、「……(※読み下し)四郎右衛門行綱ニ譲り賜うべしといえども、ちゝ四郎さゑもん入(=父四郎左衛門入道)の習い置く所をも背き、ことごとく不孝のものなるによりて長く勘当し」たので、「をい之(甥の)()(出羽)の三ろうさゑもん(三郎左衛門)より()(頼信)」に所領を譲り渡す旨が記されている。後世の永和3(1377)年12月21日付「足利義満袖判裁許状」でも「佐々木出羽守氏秀……曾祖母妙語」について「…而実子行綱依為不孝之質、譲与(譲り与える)佐々木出羽三郎左衛門尉頼信…」と言及されている*10から、すなわち妙語の実子が四郎右衛門行綱なのであり、『尊卑分脈』での泰信の子・右衛門尉行綱(佐々木行綱)に比定される。「四郎左衛門入道」は泰信ということになり、妙語はその妻および行綱の母ということになる。

妙語がこの当時出家して尼になっていること、実子の行綱や、泰信の甥(頼綱の子)頼信に所領を譲る話をしていることからして、正応5年当時、泰信は既に亡くなっていたと考えられる。その呼称から、生前左衛門尉から国守等に昇ることなく出家していたことも窺える。

 

(参考ページ)

 高島氏 - Wikipedia

 武家家伝_高島氏

 佐々木泰信譲状

 

脚注