Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小田時知 (嫡流第4代当主)

小田 時知(おだ ときとも、1242年~1293年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人常陸小田氏第4代当主。父は小田泰知。母は三浦泰村の娘と伝わる。子に小田宗知北条道知小神野時義*1。通称および官途は左衛門尉(左衛門少尉)常陸介。幼名は金剛丸(こんごうまる)法名玄朝(げんちょう)

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には正応6(1293)年5月15日に52歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると仁治3(1242)年生まれとなる。寛元3(1245)年に小田泰知が亡くなった時、その子・時知(同系図によると幼名は金剛丸)が幼少であったため、同族の宍戸家周常陸守護職を継いだという『常陸誌料』での記述*2とも辻褄が合う。

また、「佐野本 三浦系図」によると、三浦泰村の娘の一人に「母同上(=母は泰村の長男・景村に同じく北条武蔵守泰時女)小田奥太郎左衛門泰知室、常陸介時知」とある*3

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泰村の生年については、こちら▲の記事で1204年と結論付けたが、外祖父(泰村)―外孫(時知)の年齢差は38歳となり、各親子(泰村―女子、女子―時知)間の年齢差を19歳程度とすれば問題ないと思う。泰村が泰時の娘を妻に迎えていたことは『吾妻鏡』で確認できる*4ので、次の【系図A】のようにまとめると世代・代数の上でも矛盾はない。

 

系図A】

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この【系図A】の情報が正しければ、時知以降の小田氏は女系を介して北条泰時 および 三浦泰村の血を引いていたことになる。泰村らが滅んだ宝治合戦(1247年)当時は、泰知が亡くなり、時知も幼かったため、幸運にも小田氏は三浦氏と縁戚関係にありながらも打撃を受けずに済んだようで、次の【表B】にあるように、『吾妻鏡』を見ると時知はその後の北条時頼治世期に12回登場している。

 

【表B】『吾妻鏡』における小田時知の登場箇所*5

月日 記載の表記
建長4(1252) 11.11 小田左衛門尉時知
11.2 小田左衛門尉時知
12.17 小田左衛門尉時知
建長6(1254) 8.15 小田左衛門尉時知
建長8(1256) 6.29 小田左衛門尉
7.17 小田左衛門尉時知
7.29 小田左衛門尉
正嘉元(1257) 10.1 小田左衛門尉時知
正嘉2(1258) 6.17 小田左衛門尉
弘長元(1261) 8.15 小田左衛門尉時知
弘長3(1263) 7.13 小田左衛門尉
8.9 小田左衛門尉時知

初見の建長4(1252)年11月11日条では既に「左衛門尉 」と書かれているから、この時既に元服済みで、左衛門尉任官も果たしていたことになる。前述の生年に基づけばその当時11歳と元服の適齢であり、実名の「」は寛元4(1246)年から5代執権となった北条*6(【系図A】に従えば母の従兄弟にあたる)偏諱を受けたものと判断して良かろう*7

 

吾妻鏡』以後の時知に関すると思われる史料としては次の2点が確認できる。 

【史料C】(文永10(1273)年?)9月13日付「小田時知書状」(『蓬左文庫所蔵 金沢文庫本「斉民要術」第八-九 紙背文書』)*8

太郎殿(=金沢実村?)御事承候、不變時令馳参候雖可申上候、近隣人々可驚申候歟間、先以使者申候、有其御心得、便宜之時、可有御披露候、恐惶謹言、
 九月十三日   左衛門尉時知(花押)
〔進〕平岡左衛門尉殿
(上書)「進上 平岡左衛門尉殿 少尉時知

 

【史料D】弘安5(1282)年3月25日付「関東御教書」(『鹿島大祢宜家文書』)*9

相模守(=当時の8代執権・北条時宗の発給によるもので、宛名に「常陸殿」とあるが、鹿島神宮のある常陸国におけるこの当時の「常陸介」に該当し得る人物は、やはり『尊卑分脈』でも「常陸介」の注記がある小田時知しかあり得ないだろう。すなわち【史料C】からこの時までに、当時30代後半で祖父・知重にゆかりのある「常陸介(『尊卑分脈』)に任官を果たしたことになる。

 

以後、亡くなる正応6(1293)年までの表立った活動は確認できないが、『尊卑分脈』上でわざわざ「法名玄朝(他の当主に法名の記載なし)の注記があるから、【史料D】より後に剃髪したのであろう。その契機として考えられるとすれば弘安7(1284)年4月4日の時宗逝去であるが、これについては後考を俟ちたい。正安3(1301)年には嫡男・宗知の発給文書が確認できる*10から、それまでに当主の交代があったことは確実で、没年を裏付けている。

 

脚注

*1:甲山城(土浦市(旧新治村)大志戸)より。『小神野家古文書』(新治小野小神野家 蔵)によると時知の3男で、幼名は養寿丸、通称は三郎兵衛・大膳亮。住所の高岡村小神野(おかの)の地名を苗字とし、自身の館として甲山城を築いたという。

*2:『大日本史料』5-26 P.148

*3:『大日本史料』5-22 P.135

*4:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とあり、逆算すると1206年生まれ。

*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.201「時知 小田」の項 により作成。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*8:『鎌倉遺文』第15巻11594号。本文は 坂井 法曄 (hoyo Sakai) - 研究ブログ - researchmap より引用。

*9:『鎌倉遺文』第19巻14599号。

*10:小田宗知 - Henkipedia【史料A】参照。