武石高広
武石 高広(たけいし たかひろ、1297年~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。
実際の史料上では確認できないが、「千葉大系図」によると、通称は四郎、暦応2(1339)年5月22日の和泉国石津の戦いで高師直の軍勢に敗れ、大将の北畠顕家と共に43歳で討ち死にを遂げたという*1。逆算すると1297年生まれ。
実名「高広」は、先代当主までの通字「胤」(系図参照)を使用していない名乗りであるが、1文字目に戴く「高」の字は、最後の得宗・北条高時の偏諱を受けたものと考えられる*3。紺戸淳氏の論考に従って、前述の生年に基づく元服の年次を推定するとおおよそ1306~1311年となる*4が、1309年次期得宗として「高時」を名乗り、1311年には父・北条貞時の死に伴って得宗家家督を継承している*5から、前述の推定は正しいだろう(16歳以上での元服であれば高時得宗期になされたことが確実となる)。
(参考ページ)
脚注
*1:『千葉大系図』中巻。『大日本史料』6-4 P.822。武石氏 ー 武石高広。
*2:武石氏略系図 −参考資料− より。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。元服の年齢を10~15歳とした場合。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より