二階堂頼綱
二階堂 頼綱(にかいどう よりつな、1239年~1283年)は、鎌倉時代中期の御家人。鎌倉幕府政所執事。
『尊卑分脈』によれば、父は二階堂行綱。その次男・頼綱の項に「弘安六十廿四卒四十五」(弘安6(1283)年10月24日、数え45歳で死去)とあり*1、逆算すると延応元(1239)年生まれとなる。
「頼綱」という名は、「綱」が父・行綱から継承したものであるから、「頼」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。紺戸淳氏の論考に従えば、10~15歳での元服とした場合、元服の年次はおよそ1248~1253年頃と推定でき、当時の執権・北条時頼 (在職:1246~1256年)*2を烏帽子親として「頼」の1字を許されたと考えて良いだろう*3。
『吾妻鏡』での初見は、文応元(1260)年正月1日条「伊勢次郎左衛門尉行経 同三郎左衛門尉頼綱」であり、当時22歳(数え年)で左衛門尉に任官済みであるのに問題はない。以降、弘長3(1263)年1月7日条まで9回登場する*4 。
尚、通称名は「伊勢前司行綱(前伊勢守行綱)」の「三郎(三男)」を表しており、前述の『尊卑分脈』では父・行綱の項に「伊世守〔ママ〕」、兄・行経に「二郎左衛門」と注記されているので、問題なく一致する。
紺戸氏は、(一部の)一般御家人にとって、北条氏得宗家との烏帽子親子関係(=得宗からの1字)は、嫡流の地位と、氏族相伝の職帯有の資格の象徴であったと説かれており、その一例として二階堂氏でも得宗の1字を受けるようになった家系が、行泰系→行綱系→行忠系と移っていくに従って、政所執事を務める系統が移ったことを指摘されている*5。
しかし、頼綱の元服の頃では、行泰(~1265年没)・行頼(~1263年没)父子はまだ存命であり、当時の段階では、行綱・頼綱父子が政所執事を継ぐ予定は無かったはずである。ところが頼綱は実際に得宗・時頼の1字を与えられているのであるから、得宗との烏帽子親子関係と政所執事の継承権との間に、必ずしも絶対的な関係があったわけでは無いと判断される。
継承権が行綱系に移ったのは、行頼が父に先立って逝去し、再承した行泰、その跡を継いだ次男(行頼の弟)行実が相次いで亡くなったためである。但し、頼綱が時頼の烏帽子子であったということは、行綱系が得宗に接近していたことを暗示するものであり、そうした関係性が、多くの系統に分かれていた中で政所執事を継ぐ家柄に選ばれた一因で無かったとは言えまい。政所執事就任の最低条件として、比較的得宗に近い関係にあった家系ないしは人物が選ばれていたと言えよう。
氏名 | 在職期間 |
二階堂行光 | ????~承久元(1219)年 |
伊賀光宗 | 承久元(1219)年~貞応3(1224)年 |
二階堂行盛 | 貞応3(1224)年~建長5(1253)年没 |
二階堂行泰 | 建長5(1253)年~弘長2(1262)年 |
二階堂行頼 | 弘長2(1262)年~弘長3(1263)年 |
二階堂行泰(再承) | 弘長3(1263)年~文永2(1265)年 |
二階堂行実 | 文永2(1265)年~文永6(1269)年没 |
二階堂行綱 | 文永6(1269)年~弘安4(1281)年没 |
二階堂頼綱 | 弘安4(1281)年~弘安6(1283)年没 |
二階堂行忠 | 弘安6(1283)年~正応3(1290)年 |
二階堂行貞 | 正応3(1290)年~永仁元(1293)年 |
二階堂行藤 | 永仁元(1293)年~正安4(1302)年没 |
二階堂行貞(再承) | 乾元元(1302)年~嘉暦4(1329)年没 |
二階堂貞衡 | 嘉暦4(1329)年~元徳4(1332)年没 |
二階堂貞藤 | 元徳4(1332)年~正慶2(1333)年 |
(http://www13.plala.or.jp/hideyuki25/kamakurasituji.htmlを基に作成)
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