Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

河津貞重

河津 貞重(かわづ さだしげ)は、鎌倉時代後期の武将、御家人系図によっては河津重貞とも。

父は河津祐重。妻・大野忠貞(紀三郎)の娘との間に嫡男・河津重房がいる。

 

【史料1】『河津伝記』(『宗像郡誌』下編 所収)*1より

……其(=河津右衛門尉祐重)孫次郎貞重、伏見帝ノ永仁元年三月、九州ノ探題平兼時ニ属テ、長州ヨリ始、筑前ニ来リ、粕屋郡迫門河内七百町賜リ、高鳥井ノ塁ヲ新築シ、探題附庸ノ城トシテ、是ヲ守衛シ、同小仲〔ママ〕庄ニ居住シ、館舎ヲ営構スル所ニ、霊石二面アリ。徃昔ヨリ二輪石ト称シ、邑民頗恐敬セリ。貞重其謂ヲ聞、先祖曾我両社八幡ノ一百年回、今永仁元年ニ当事、嘉瑞成ベシトテ、両社八幡宮ヲ迫門郷二勧請シ、彼霊石ヲ神体ニ崇、顕孝寺ヲ造営ス。千僧ヲ供養シ、祭祀甚厳重ナリシト云伝フ。高鳥井ノ城ハ、今川了俊迄附城トス。大内義弘代ヨリ大内ノ領トナリ、天文ノ比迄、彼幕下麻生河津等、彼城ヲ守ル。則文書数通顕明也。貞重嗣子河津次郎重房ニ到、……

この史料には、河津貞重の活動として、永仁元年3月、九州(鎮西)探題・北条兼時*2に属して筑前に移り、粕屋郡迫門郷の地を賜ったこと、同探題直属の城として高鳥居城を新築したこと、祖先ゆかりの曽我八幡宮を迫門郷に勧請する形で顕孝寺を造営し千僧供養を厳重に執り行ったこと が記されている。【史料1】には宝永3(1706)年の序文があり、後世・江戸時代に編纂されたものとみられるが、今のところ内容を否定し得る史料はなく、独自の情報として一定の価値を持つと思う。

 

あわせて次の史料も見ておきたい。『宗像郡誌』下編に所収の、別本『河津伝記』の巻末にある「藤原姓伊東河津之家系」からの抜粋である。

【史料2】「藤原姓伊東河津之家系」(『宗像郡誌』下編 所収)*3より

貞重

河津弥次郎 筑後 永仁元、*4長州僊於筑前、住于粕屋郡小中庄、守高鳥居城。永仁元年三月九州探題平兼時ニ属シテ、従長州来。筑前粕屋郡迫門河内七百丁〔ママ、町〕賜リ、高鳥井ノ塁ヲ新築シ、探題附庸ノ城トシテ、是ヲ守リ、小中庄ニ居住シ、館舎ヲ営構スル所ニ、霊石二面有。是往古ヨリ二輪石ト称シ、邑民頗恐敬セリ。貞重其謂所ヲ聞テ、我祖曾我両社八幡ノ百年会、今永仁元年ニ至ル事、則家門永久之佳瑞ナルベシトテ、両社八幡宮、迫門郷二勧請シ、彼霊石ヲ神体ト祝奉リ、顕孝寺ニ於テ千僧ヲ供養ス。

若干の違いはあるものの、書かれている内容は【史料1】と同じで、この系図からは嫡男・重房の母(=貞重の妻)が「大野紀三郎忠貞女」であることも分かる。

但し最終官途として「筑後」の記載があることに注目である。【史料1】での前略部分に父・祐重についての記述もあるが、その通称名は右衛門尉任官後のものとなっている。更には祐重の先祖を左衛門尉任官後の「河津八郎左衛門祐景」(伊東祐清の子・狩野四郎祐光の子という)とも記している。一方子孫では、子・重房が「河津次郎 駿河守」と注記されるが【史料1】では前者で書かれ、その孫(=貞重の曾孫)河津祐季についてこの系図では通称を「次郎三郎」と記すのみだが、『河津伝記』では任官後の「掃部允」「掃部介」となっている。

すると、【史料1】の部分も含んだ『河津伝記』では、その当時の通称名で書かれている可能性が高いのではないか。すなわち、最終的に筑後守となる貞重についても、永仁元年当時「孫次郎」または「弥次郎*5を名乗っていたのではないかと思われる。左衛門尉などの官職を持たない無官の通称名と判断されるが、元服からさほど経っていないためであろう

 

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河津氏は元々、伊東祐親が当初名乗り、曾我兄弟曾我祐成曾我時致の父でもある長男の河津祐泰がその名字を継承していたが、祐泰は祐親を狙った同族・工藤祐経の矢に当たって死亡し、のちに祐泰の弟・伊東祐清の子である祐光が本姓に復してその名跡を継いだのだという。

 祐清―祐光―祐景―□―□―□―祐重―貞重―重房……

祐光の子・祐景より4代目が祐重であるといい、「祐○」を代々の名乗りとしたことが推測されるが、祐重の子・はその慣例に従わなかったことになる。「重」の字を継いでわざわざ上(1文字目)に掲げる「」の字は、永仁元年当時の得宗・執権であった北条偏諱そのものであり、貞時が直接烏帽子親となって1字を与えたものと考えて良いだろう。同じく『宗像郡誌』下編に所収「河津家系図」の貞重の注記には「河津弥次郎 北条相模守貞時加冠、賜筑前国粕屋郡小中庄、永仁元年*6長州移小中庄」と明記されている*7

*このような観点から、実名については系図によって「重貞」とするものもあるが、「貞重」の方が適しているように思う。

 

河津氏はのちに守護大名戦国大名である大内氏の麾下に入ることになるが、「藤原姓伊東河津之家系」において祐季の子である家・氏兄弟が大内義、弘家系嫡流の「業―光―業」に「政―義―義」の偏諱を受けた形跡がみられ、隆業の3人の弟(載・光・重)も大内義の烏帽子子であろう。中身が若干異なるが、「河津家系図では前述の貞重のほか、祐季の弟・に「卿加冠」、に「蒙大内義加冠」、に「蒙大内義之加冠」と明記されており、これを裏付けている。

 

参考資料・リンク

「筑前高島居城跡 福岡県糟屋郡須恵町所在山城の調査」(『須恵町文化財調査報告書』第8集、2003年)P.13・17

宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

河津氏 - Wikipedia

町史のひとこま =河津筑後守貞重=(『広報すえ』昭和55(1980)年9月号)

高鳥居城(福岡県糟屋郡)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー

筑前・高鳥居城(城郭放浪記)

 亀山城−ふるさと紀行

 

 

脚注

*1:宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション(河津伝記)。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)によれば、兼時の鎮西下向は3月7日のこととされる。

*3:宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション(河津家系)。

*4:「~より」と読み、場所を示す名詞の前に付いて起点を示す(→ 自(ジ)とは - コトバンク)。

*5:「孫」と「弥」は特に崩し字では形が似通っており、他の史料で同様の例があるように、いずれかの誤記または誤写であると推測される(例:「長崎四郎泰光」と「長崎四郎泰光」)。

*6:注4に同じ。

*7:宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション(P.62)参照。