Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

伊東貞祐

伊東 貞祐(いとう さだすけ、1290年頃?~1345年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人伊東祐宗の嫡男。


 

【史料A】「南家 伊東氏藤原姓大系図*1より

六郎左衛門尉 従五位下 安芸守

(五)始祐真 母後藤八郎左衛門基邦女

貞祐

 剃髪号証観入道

(※旧字は適宜新字体に改めた。)

『伊東文書』には、康永4(1345)年7月17日、「伊東安芸入道證観新字体:証観)」の訴えを受け、讃岐国南条山西方地頭職を宇佐美春香丸(宇佐美新左衛門尉祐範の子*2から証観に交代させ、春香丸には新たに替地を与えるという裁定を足利直義が行った旨の書状が残っている*3。上の【史料A】により「證観 (証観)」=出家後の伊東貞祐に比定される。ちなみに一部系図での「観」*4は単なる漢字の偏の誤記であろう。

この当時、父・祐宗(伊東大和入道慈証)は80歳(数え年)で存命であり、親子の年齢差を考えれば、貞祐(証観)は60歳以下(=すなわち1286年以後の生まれ)であったと推定可能である。

 

貞祐の子・祐持(すけもち)については、建武元(1334)年の段階で「左衛門尉」任官が確認できること*5祐持が亡くなった貞和4(1348)年の段階でその嫡子・虎夜叉丸(のちの祐重→氏祐)がまだ若年であったこと、そして最後の得宗北条高時偏諱「高」を受けた形跡が確認できないこと、以上3点から正中3(1326=嘉暦元)年3月に高時が出家して間もない頃の元服だったのではないかと推測した(下記記事参照)

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よって、祐持の生年は1310年代半ば頃であったと推測され、その父である貞祐は1290年代の生まれとすべきであろう。前述の内容とも矛盾はない。

 

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そして、極め付きは「貞祐」の名乗りである。父・の名が8代執権・北条時からの一字拝領によるものであることは上記記事で述べた通りであるが、もまた、9代執権・北条偏諱を受けた形跡がある。1290年頃の生まれとすれば、元服適齢の10代前半当時の執権・得宗貞時(執権在職:1284年~1301年、1311年逝去)*6となり、「」の字を賜ったと考えて差し支えない。

ちなみに、【史料A】や『日向記』*7等では初名が「祐(すけざね、新字体:祐真)」であったと記すが、字の類似からするとこれも「祐」の誤記で、例えば結城朝光*8と同様に、後から改名して「」の偏諱を上(1文字目)にした可能性も考えられよう。いずれにせよ、 時―祐は烏帽子親子関係にあったと判断される。

その裏付けとして、母親に着目してみたい。【史料A】には「後藤八郎左衛門基邦」なる者の娘と書かれているが、後藤氏の系図上で基邦(もとくに)なる人物は確認できない。但し、同じく「大系図」によれば父・祐宗の母(=貞祐の祖母)が後藤基綱の娘*9、嫡男・祐持の母(=貞祐の妻)が後藤佐渡彦太郎宗基(=後藤基宗のことか?)の娘であったといい、基邦も基綱・宗基の近親者であったと推測される。世代などを考慮して推定すると、次の系図のようになる。 

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こちら▲の記事で触れているように、後藤基頼については『吾妻鏡』で「太郎左衛門」と呼称した箇所が確認でき、『尊卑分脈』に基頼の弟として掲載の後藤基広についても「後藤次郎基広」と書かれている。

 

前述の通り、康永4(1345)年7月までの生存は確認できるが、貞和4(1348)年の「祐持→祐𠘕→虎夜叉丸(祐重)」という目まぐるしい当主の交代に際し、まだ存命であった父・祐宗がそれを取り仕切っていることからすると、この間に貞祐が先に亡くなったと考えられよう。『日向纂記』の文中には「証観公康永セラレ」と記されており*10、康永4年10月21日の「貞和」への改元*11までに亡くなったのであろう。前述の生年に基づけば、享年は50代半ば程度であったことになる。

 

脚注

*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.74。

*2:元服後の実名は不詳。「大系図」では確認できないが、父・祐範が「祐」字を持つことから、宇佐美貞祐と同族の者であろう。伊東氏とは同じ藤原南家工藤氏の支流で遠戚にあたる。

*3:『大日本史料』6-9 P.145~146

*4:『大日本史料』6-3 P.210

*5:北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕参照。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:『大日本史料』6-12 P.517

*8:源頼朝の加冠により元服したことは『吾妻鏡』治承4(1180)年10月2日条に記されており「朝」の偏諱を受けたが、初めは頼朝と同じく2文字目に置いて「宗朝」と名乗っていた。水野智之は、宗朝(朝光)が後に「朝」の字を上(1文字目)にしたことは、より敬意を表するものと解釈されている(→ 同氏著書『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉{吉川弘文館、2014年} P.38~39)。

*9:尊卑分脈』にも基綱の女子の一人に「藤原祐光妻」の記載が見られる。

*10:『大日本史料』6-12 P.523

*11:康永 - Wikipedia および 貞和 - Wikipedia より。