二階堂忠貞
二階堂 忠貞(にかいどう たださだ、1280年~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての御家人。通称は左衛門尉、摂津判官、伊勢守(伊勢前司/伊勢入道)。法名は行意(ぎょうい)。
『尊卑分脈』二階堂氏系図(以下『分脈』と略記)によると、父は二階堂盛忠(行忠の子、行宗の弟)。弟に二階堂貞景(四郎左衛門)、二階堂時冬(五郎左衛門、初名盛時)、子に二階堂忠宗、女子(時冬妻)、二階堂時基がいたという。
『分脈』の忠貞の項には次のように書かれている。
【史料1】
使 従五下 伊世守 左衛門尉
忠貞
正中三三ゝ出行意
元弘三五八於江州馬場自害
得宗(14代執権)・北条高時の出家*1に追随したものであろう、正中3(1326)年3月に出家して「行意」と号したこと、元弘3(1333)年5月8日〔9日の誤記〕に近江国馬場〔正しくは番場、後述参照〕で自害したことを伝えている。
その他、細川重男氏による研究成果*2も踏まえながら、史料上における忠貞の登場箇所を以下に列挙する。尚、典拠は後述するが生年=弘安3(1280)年として一部には当時の年齢(数え年)も載せる。
●【史料2】『実躬卿記』嘉元2(1304)年4月15日条:京都賀茂祭に検非違使として参加したメンバーの中に「忠貞 関東、号摂津判官」。次いで「貞藤 同、号出羽判官 祐行 同、号宇佐美判官*3」の名も見られる。
*これが史料上における初見であろう。生年に基づくとこの当時25歳。「摂津判官」を称していたというが、「摂津」は父・盛忠が摂津守であった*4ことに因んでおり、忠貞自身はこの当時左衛門尉であったため、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)」*5を名乗っていたことが分かる。
●【史料3】(元応元(1319)年?)3月8日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』):文中に「……二階堂伊勢前司去年約束申されて候漆一多留、被進候、令取進候、……」*6。
*この当時40歳。伊勢前司は「前伊勢守」の意であり、既に伊勢守を退任していたことが窺えるが、国守に任官して辞した年齢としては十分に相応である。
●【史料4】『花園天皇宸記』*7:正中2(1325)年2月、忠貞が東使(関東御使)として上洛。
2月9日条「東使伊勢前司忠定〔ママ〕云々」
同19日条「東使 伊勢前司忠貞」
*これにより【史料3】の「二階堂伊勢前司」=忠貞とみなすことが可能である。また、「忠定」という誤記から、かえって読みが「たださだ」であったことが裏付けられる。
●【史料5】「鎌倉幕府評定衆等交名」(根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙):*8:
●【史料6】(嘉暦4年8月4日?) 「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』):「……去々年行意下向之……」*9
『金沢文庫文書』には他にも、同じく嘉暦4/元徳元(1329)年のものとされる9月21日付*10、12月5日付*11、および日付なしの書状2通*12の貞顕の書状文中に「行意」が登場、同年のものとされる貞顕の書状(金沢文庫所蔵『花供導師作法裏文書』)の文中には「…忠貞伊勢入道…」*13と書かれている。
翌元徳2(1330)年のものとされる6月11日付貞顕書状には「行意奉行にてし候から」*14とあり、幕府内で何かしらの「奉行」という役職に就いていたのであろう。他にも「行意」が登場する貞顕の書状として、この年とされるものが2通確認されている*15。
●【史料7】元弘3(1333)年5月9日:近江国番場宿蓮華寺において自害。前掲【史料1】の他、次の史料2点でも自害した者の中に忠貞(行意)が含まれている。
◆【7-a】『近江番場宿蓮華寺過去帳』:「二階堂伊勢入道行照〔ママ〕五十四歳」*16
◆【7-b】『太平記』巻9「越後守仲時已下自害事」:「二階堂伊予〔ママ〕入道」
『太平記』は元々軍記物語であり、多くの種類の異本が伝わるが、この部分について金勝院本では「伊勢守」、今出川・北条・西源院・南都の各本では「伊勢入道」とするらしく*17、恐らく「伊予」は誤写・誤伝であろう。また、『過去帳』においては「行照」と法名が異なっているが、次の史料によりこれらは行意(忠貞)と同人とみなせる。
【史料8】元弘3年5月14日付「五宮守良親王令旨」(『近江多賀神社文書』)*18より
……遂果去九日奉成先帝*1 両院*2 臨幸於城中、忽滅六波羅北方越後守仲時・東使伊勢入道行意・隠岐前司清高等数百騎軍勢、東夷爰滅亡、西都忽安寧、……
*1 先帝:光厳天皇。
遡る形で同月9日に、六波羅探題北方の北条仲時、東使であった行意と佐々木清高など数百騎の軍勢が「忽(たちまち)滅」んだとあり、前述の『過去帳』・『太平記』の内容を裏付けている。
よって、忠貞(行意)は東使として上洛中に六波羅探題の襲撃に巻き込まれ、仲時らと運命を共にしたのであった。『過去帳』を信ずれば享年54で、逆算すると1280年生まれとなる。
これに基づき、紺戸淳氏の手法*19に倣うと、元服の年次は1289~1294年と推定可能であるが、「忠貞」の名乗りに着目すると、父・盛忠の「忠」に対し「貞」はその当時の執権・北条貞時(在職:1284~1301年)*20の偏諱と考えられる。初見である【史料2】当時も貞時(法名:崇演)は存命であり、貞藤と共にその1字を許されていたことが窺えよう。
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.9「北条高時」の項。
*2:前注細川氏著書 同基礎表 No.162「二階堂(信濃)忠貞」の項。
*4:注1前掲細川氏著書 同基礎表 No.161「二階堂(信濃)盛忠」の項 より。
*5:判官 - Wikipedia より。
*6:『鎌倉遺文』第35巻27134号。
*7:史料大成. 続編 第34 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*8:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。
*9:『鎌倉遺文』第39巻30331号・30687号。
*10:『鎌倉遺文』第39巻30733号。
*11:『鎌倉遺文』第39巻30733号。
*12:『鎌倉遺文』第39巻30498号・30782号。
*13:『鎌倉遺文』第39巻30505号。
*14:『鎌倉遺文』第40巻31063号。
*15:『鎌倉遺文』第40巻31064号・31065号。
*16:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.27。
*17:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.15。
*18:『鎌倉遺文』第41巻32160号。
*19:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)。元服の年齢を数え10~15歳とした場合。
*20:注1前掲細川氏著書 同基礎表 No.8「北条貞時」の項 より。