矢野貞倫
矢野 貞倫(やの さだとも、生年不詳(1270年代後半か)~没年不詳(1300年代初頭?))は、鎌倉時代の幕府実務官僚。三善氏の末裔で三善貞倫(みよし ー)とも。
鎌倉遺文フルテキストデータベース(東京大学史料編纂所HP内)によると、次の史料3点が矢野貞倫に比定されている。
①(正応5(1292)年?)11月30日付「鎌倉幕府政所召文」(金沢文庫所蔵『首楞厳義疏注経 十之二 包紙文書』)*2の発給者の一人に「貞倫(花押)」
② 正応6(1293=永仁元)年8月4日付「公氏書状案」(『豊前永弘文書』)*3に「矢野豊後前司殿」
③(永仁2(1294)年?)11月30日付「鎌倉幕府奉行人連署奉書」(金沢文庫蔵『首楞厳経義疏注経 裏文書』)*4の発給者の一人に「貞倫(花押)」
これら以外に "矢野貞倫" の活動が確認できる史料できる史料が残っている。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
次に掲げるのは、太田時連の日記『永仁三年記』の閏2月12日条である*5。
十二日 丁巳 晴
評定、奥州(大仏宣時)、武州(北条時村)、遠入(名越時基、法名:道西)、越入、上州、野入(宇都宮景綱、法名:蓮瑜)、隠州、能州(京極流佐々木宗綱)、勢州(二階堂盛綱、法名:行誓)、豊州(三善矢野倫景)、摂入(摂津親致、法名:道厳)、時連。引付、民部少、摂州、常州。常葉備州(常葉時範)、丹後の廷尉四番、摂州三番に遷えらる、皆由図書の助一番文副、飯尾中務政有、矢野八郎貞倫二番、元政所、津戸小二郎為行、二番合奉、富来孫十光康、四番、肥後二郎頼平、元政所召人、三番、明石民部二郎盛行、三番、岡田五郎左衛門の尉景実、四番、当所公人に召し加えらる、越前孫七政親、五番、召し加えらるべきの由これを仰せ出さる。明石彦次郎、豊前左京の進、皆吉彦四郎侍所に召し加えらると云々。
永仁3(1295)年当時「(矢野)八郎」を称していたことが分かるが、元服からさほど経っていなかったために無官であったと推測できよう。年齢的には10代後半~20代前半であったと思われるが、時期の近さからして、前述①・③の「貞倫」も同じく矢野貞倫で良いと思われるので、元服の年次は正応5(1292)年からさほど遡らない時期=1290年前後であったと推定され、②の「矢野豊後前司」は、まだ「八郎」を名乗る貞倫ではなく、史料中の「豊州」こと、貞倫の父である矢野倫景とすべきであろう*6。
そして「貞倫」の名乗りに着目すると、それまでの「倫○」型の名乗りに反してわざわざ「貞」を上(1文字目)に戴いていることからしても、元服当時の得宗・執権であった北条貞時 (在職:1284年~1301年)*7の偏諱を許されたことが分かる。実際に貞時が烏帽子親を務めたと推測される。
この頃は同族でも同様の傾向が見られる。太田氏では前述の太田時連が北条時宗、その息子・貞連が同じく貞時の1字を受けており、細川氏は町野氏の政康・宗康(政康の弟か)・貞康(政康の子か)について、歴代の執権(政村・時宗・貞時)の偏諱を受けたと推測されている*8。このように、得宗専制が強まる中で三善氏一門も一字付与の対象者となったことが窺える。
尚、上記史料では、元・政所奉行人で二番引付奉行人となった旨が注記されており、これが鎌倉幕府における貞倫の役職であった*9。
倫景の終見から11年後の延慶元(1308)年6月、二階堂時綱(三河守)とともに「矢野加賀守倫綱」が東使として上洛したことが確認できる*10。細川氏は、東使に任命されるのは評定衆クラスの者で、実際に倫綱・時綱はともに評定衆であったと推測されており、この倫綱を時期的にみて倫景の息子と判断されている*11。
翌年末には倫綱が寺社奉行であったことが確認される*12が、これもかつての倫景の地位*13を継承したものと言えよう。
国守(加賀守)任官年齢(=他の御家人の例を踏まえると30代が多い)も考慮すれば、倫綱は貞倫とほぼ同世代となり、細川氏が推定の如く兄弟であった可能性が高い(冒頭系図参照)が、得宗・貞時の偏諱を受けた貞倫ではなく倫綱が倫景の地位を継承していることからすると、貞倫が家督を継がずに早世した可能性が考えられよう。よって貞倫は1300年代前半頃には亡くなったのではないかと推測される。
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.412掲載 細川氏作成による「康信流三善系図」より一部抜粋。
*2:『鎌倉遺文』第23巻18055号。
*3:『鎌倉遺文』第24巻18296号。
*4:『鎌倉遺文』第24巻18578号。
*6:注1細川氏著書 P.277に紹介の通り、鎌倉幕府追加法650条に「一 直被聞食被棄置輩訴訟事 永仁二 十二 二評 奉行 豊後権守倫景 明石民部大夫行宗」とあるによる。またこの追加法により、史料中の「明石民部二郎盛行」は「行」字の共通や通称名からして明石行宗の息子、「明石彦次郎」はその近親者と推測される。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:注1前掲細川氏著書 P.412系図・P.415 註(5)。佐藤進一「鎌倉幕府職員表復元の試み」(同『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(再版)〈岩波書店、1993年〉付録)正応4年条・永仁3年条。
*10:注1前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.185「矢野倫綱」の項。典拠は『興福寺略年代記』延慶元年条。尚、ほぼ同内容を記す『歴代皇記』徳治3年6月24日条、『武家年代記』延慶元年7月12日条では「天野加賀守倫綱」とするが単なる誤記(または誤読)であろう。
*11:注1前掲細川氏著書 P.412系図・P.415 註(6)。
*12:注1前掲細川氏著書 巻末基礎表 No.185「矢野倫綱」の項。典拠は延慶2年12月21日付「矢野倫綱奉書」(『九条家文書』)。