平宗綱
平 宗綱(たいら の むねつな、1260年頃?~没年不詳(1310年頃?))は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人、執事(内管領)。父は平頼綱。
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『とはずがたり』において、作者・後深草院二条が「平左衛門入道と申す者が嫡子、平二郎左衛門が、将軍の侍所の所司とて参りし有様などは、物にくらべば関白などの御振舞と見えき」と記す箇所があり*1、当時「平左衛門入道」と呼ばれた平頼綱の嫡子について、この時(正応2(1289)年8月15日*2)の放生会についての様子を述べている。この「平二郎左衛門」はその後、7代将軍・惟康親王の京都送還の際に相模守=北条貞時の使者も務めている*3が、『系図纂要』長崎氏系図との照合により宗綱に比定される。
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他方、弘安2(1279)年のいわゆる「熱原法難」の様子を伝える、日興(日蓮の弟子)著『弟子分帳』(『弟子分本尊目録』所収)には「平左衛門入道」の「子息飯沼判官十三歳」の記載があり、『武家年代記』正応年間の久明親王の注記中に「廷尉助宗 号飯沼判官」、「資宗」とあって実名が分かる。すなわち、頼綱には「嫡子、平二郎左衛門」以外にもう一人の息子として飯沼資宗(助宗)がいたことが分かり、次の史料によって裏付けられよう。
【史料A】『保暦間記』より*4
……平左衛門入道頼綱法師法名果円〔ママ、杲円〕……(中略)……平左衛門入道果円〔同前〕驕の余に子息廷尉に成たりしが、安房守に成て飯沼殿とぞ申ける。果円父子天下の事は安房守を将軍にせんと議しけり。彼入道嫡子左衛門宗綱は忠ある仁にて、父が悪行を歎てこの事を貞時に忍やかに申たり。この上はとて左衛門入道杲円父子を誅せられをはんぬ。宗綱は一旦佐渡の国へ流罪せられけれども、召帰されて後には管領に成にけり。然どもまた後に上総の国へ流罪せらる。……
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資宗は『とはずがたり』では8代将軍・久明親王の鎌倉下向の際の供奉人「飯沼の新左衛門」として登場する*5。前述の『弟子分帳』に従って逆算すると1267年生まれ。すなわち、嫡子であった兄・平宗綱の生年はこれ以前であったと考えられる。前述の通り、正応2年の段階では左衛門尉に任官済みであったことが分かるから、20~30代と推測される。1260年頃の生まれではないか。
そして、梶川貴子氏は、宗綱・資宗兄弟の名が8代執権・北条時宗の偏諱を受けたものではないかと述べられている*6。他にも安達氏(盛宗・宗景)や千葉氏(宗胤・胤宗)などに見られるように、この頃は嫡子・庶子(或いは準嫡子)の違いで得宗からの偏諱の付ける位置を逆転させることも珍しくなかった。父・頼綱についても5代執権・北条時頼(時宗の父)の執権在職期間(1246~1256年)内の元服と推定されており、同様に兄弟の元服は時宗の執権在職期間(1268~1284年)内に行われたと考えて良いだろう。 宗綱についても前述のように生年を推定すれば辻褄が合う。
その他、詳しい活動経歴・生涯については
などをご参照いただければと思う。
脚注
*1:巻4 9 十五日の朝小町殿もとより今日は京の放生会の日にて侍り・・・ [やたがらすナビ] 参照。
*2:とはずがたり (3) 貧相な貴族 vs 居丈高な武士 : 鶴見寺尾図逍遥 より。
*3:巻4 10 さるほどにいくほどの日数も隔たらぬに鎌倉に事出で来べしとささやく・・・ [やたがらすナビ] または とはずがたり (5) 惟康親王の追放 : 鶴見寺尾図逍遥 参照。
*4:年代記永仁元年 より引用。『編年史料』永仁元年四月 P.33 も参照のこと。
*5:とはずがたり (10) 久明親王の東下 : 鶴見寺尾図逍遥 参照。
*6:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.116・117。