Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】『系図纂要』長崎氏系図について

 

 

はじめに

次の史料は『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状である*1。 

 

【史料a】丹波長周注進状

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この史料には、3月8日に鎌倉を襲った大火の被災者として、北条・安達・宇都宮・摂津・長井・二階堂といった名立たる御家人に並んで、長崎左衛門入道円喜(長崎盛宗)、諏訪左衛門入道直性(諏訪宗経)、尾藤左衛門入道演心(尾藤時綱)といった得宗被官が名を連ねている。彼らのほとんどは鎌倉政権中枢の要人ばかりで、「得宗公文所…最上級職員を世襲…できる家系として、長崎・諏訪・尾藤の三家が執事三家として高い家格と位置付けられ、寄合衆を世襲*2していたのであるが、諏訪・尾藤両氏は「執事を世襲する長崎…に準ずる」*3家柄であり、長崎氏が「得宗被官の筆頭」*4として「鎌倉幕府終末期には、執権を凌駕する専権を恣いままにするほどの」*5権力を有していた。 

 

中でも長崎円喜は、「高時カ内管領(『保暦間記』)得宗家執事 として、安達時顕と双璧を成す事実上の最高権力者として君臨していた*6が、彼以外にも一族の者の活動が確認できる史料は沢山残されている。例えば次の史料は、【史料a】に同じく火災に関する内容であるが、その被災者として、長崎円喜を筆頭とする一族の実在を容易に確かめられるものと言えよう。

 

【史料b】(1331年?)正月10日付 沙弥崇顕(金沢貞顕)書状*7 

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人名を記す時には、諱(実名)は記さず、通称名で書かれるのは、書状等の史料での通例である。それが誰なのかという人物の比定は他の史料で裏付けるしかないが、一族内での家族関係を把握(または整理)するのに系図は欠かせない。

長崎氏の場合、江戸幕末期に成立の『系図纂要』所収のものが「現存するほとんど唯一の長崎氏系図*8とされる。しかし、先行研究では『吾妻鏡』等他の一級史料との照らし合わせにより、誤りが指摘されてきた*9

 

元より系図類では、その成立年代が古ければ古いほど信憑性が高いとされる。後世の系図になると、改竄・加筆・誤伝がなされている可能性があり得るからである。しかし『系図纂要』の場合、必ずしも全てがそうではなく、むしろ江戸時代当時の歴史研究の成果・新見解として捉えられる情報も少なくはない*10

そうした観点から改めて長崎氏の系図を見返すと、ただ出鱈目を記したものではないことが窺える。成立以前の系図が残されていないことからも、恐らく『系図纂要』の長崎氏系図は他の史料によって独自に構築されたのではないかと思われる。すなわち、これも編纂当時の研究成果として解釈できるだろう。

 

本項ではあえて同系図における各人物の注記にただ向き合い、他の史料との照合作業によって、その成立過程の推測、真偽(正誤)の判断を行ってみたいと思う。青山幹哉も「系図がある意図をもって編纂された歴史叙述の資料であることを充分に認識」の上で、「作成の意図を把握し、事実と虚構の歴史叙述を峻別」することの重要性を説かれている*11。『系図纂要』長崎氏系図編纂にあたっての研究方法に、より正確な系図の復元に向けたヒントが隠されているのではないかと思う。 

 

 

系図纂要』長崎氏系図の紹介

本項で扱う系図とは、次の通りである。最初に紹介しておく。 

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▲【図c】『系図纂要』所収・長崎氏系図 *12

 

系図集としては成立年代が古く、かつ比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』では、盛綱を資盛の子とするが、「長崎流」 との記載がある。『正宗寺本 諸家系図東京大学史料編纂所所蔵謄写本)では「助盛〔ママ:資盛〕新三位中将 同小〔ママ〕将―――資綱 長崎先祖」と載せており*13、若干の実名の違いはあるものの、「父の1字+綱」の構成で名乗った資盛の息子が長崎流の先祖であったとする点では相違ない。 

そして、このことは上の【図c】においても同じで、平盛綱を「長崎流」の家祖とする点では一致している。よって、本項では盛綱以降の系図について見ていこうと思う。

 

 

長崎光盛流の「内管領」記載について

まずは、主に元号が関わる部分を中心に、年表にまとめたものが次の【表d】である。

 

【表d】『系図纂要』に基づく長崎流の年表 

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(*左側部分元号表は http://blog.livedoor.jp/tombosou/archives/52085262.html より拝借。)


【図c】によれば、長崎氏嫡流(光盛―光綱―高綱) は代々「内管領」(得宗家執事) を務めたことになっている。光盛光綱父子には「自A至B」(AよりBに至る=A~Bの期間)という形で、その職に在った具体的な期間が記載され、高綱についても北条貞時・高時治世期に内管領であったことが注記される。高綱(円喜)の場合【図c】に在職期間は書かれていないが、文保2(1318)年には「老耄(ろうもう:老い耄(ぼ)れること、またその人の意)」のためとして息子の高資(たかすけ)内管領の職を譲ったとする『保暦間記』の記述に従えば、光盛から高資まで4代の内管領在職期間は上の【表d】のように区分できる。これ自体に矛盾は無い。

 

しかしながら、他の史料と比較すると、特に光綱の代で矛盾が生じている。【図c】には頼綱―宗綱父子にも「内管領」との記載があるが、【表d】のように表にしてみるとまるで入る余地が無い。現在では既に定説となっているが、貞時の代の内管領平頼綱であったことは『保暦間記』にはっきり記載されているし、頼綱滅亡(平禅門の乱)の後に一旦は連座して流罪となった平宗綱についても、後に復帰を許されて、正安3(1301)年3月~嘉元元(1303)年の間、内管領であったと推定されている*14

しかも、【表d】にある通り『保暦間記』には頼綱の法名を「杲円(こうえん)」と載せているが、【図c】では長崎光盛の法名としてしまっている。長崎流での内管領は光綱に移っており、この光綱の法名を「杲円」と載せるならまだ分かるが、【図c】がまるで『保暦間記』を参照していないのではないかと思えるほど、整合性が取れていないのである

また、光綱自身も永仁5(1297)年8月6日に亡くなったことが判明している。細川重男により『鶴岡社務記録』での記載が紹介され*15、先立って森幸夫も恐らくはこの史料の存在を知っていて『系図纂要』との矛盾を指摘されている*16が、それまでは没年未詳とされていた*17ので、『系図纂要』編纂の段階でもこの史料の存在に気付かれていなかったのであろう。

しかし、事実として永仁5年以降の史料に光綱が登場するはずはない。それでも、正安~延慶にかけての期間も光綱内管領であったとされたのは何故であろうか。

 

前述したが、書状等の史料では諱(実名)は記さず、通称名で書かれるのが通例であった(勿論【史料a】のように丁寧に書かれているものも無くはない)。長崎氏の場合も「長崎左衛門尉」などの通称名でしか書かれていない史料がほとんどである。光綱が「長崎左衛門尉」を通称としていたことは史料で確認できるが、その嫡男・円喜も【史料a】にて「長崎左衛門入道」と呼ばれているから、出家前の通称が同じく「長崎左衛門尉」であったことは確かである。従って、光綱から円喜へ内管領が引き継がれたタイミングを確かめられる史料が無い状態では、各史料での「長崎左衛門尉」が光綱なのか円喜なのかを推定する必要があった

光綱の「自建治至延慶 内管領」が具体的に延慶?年までの在職なのかは明記されていないが、応長元(1311)年には得宗・貞時が亡くなって高時へと世代交代しており、続く高綱(円喜)の項に「貞時高時世内管領」とあるので、延慶年間(1308~1310)内に内管領および家督の継承が行われたとするのが『系図纂要』編纂者の見解であろう。当該期の長崎氏惣領に関する史料をまとめると次の通りである。

 

【表e】『系図纂要』での 長崎光綱 内管領在職期 における関連史料

史料での表記 典拠史料 細川説
正応4(1291) 8 長崎左衛門尉光綱 「新編追加」(「追加法」632) 光綱
永仁元(1293) 7 光綱 得宗公文所奉書」*18 光綱
永仁2(1294) 2 長崎新左衛門 『親玄僧正日記』 高綱
4 長崎左衛門父子 『親玄僧正日記』 光綱高綱
永仁3(1295) 1 長崎金吾 『永仁三年記』 光綱
2 長崎左衛門 『永仁三年記』 光綱
光綱 得宗公文所奉書」*19 光綱
7 長崎金吾 『永仁三年記』 光綱

永仁2(1294)

正安4(1302)

 

長崎殿()

長崎殿()

徳治3年正月26日付「山下政所文書目録」(『秩父神社文書』)

光綱

高綱

徳治2(1307) 5 一番 長崎左衛門尉 泉谷 円覚寺文書』42
十番 長崎左衛門尉 高綱?
6 長崎左衛門尉 「幕府問注所執事連署奉書案」(『金沢文庫文書』)*20 高綱
徳治3(1308) 8 長崎左衛門尉 「平政連諫草」(『尊経閣文庫所蔵文書』)*21 高綱
延慶2(1309)? 4 長入道 金沢貞顕書状」*22

高綱

(円喜)

 

詳細*23

一 公方ヨリ相模入道殿へノ成下御下知一通正安四七十二

一 自御内長崎殿へノ御牧〔ママ〕御書下一通正安四十一六 高綱

一 自長崎殿留所〔ママ、留守所〕へノ書下正安四十七日 … 高綱

一 自御内長崎殿へノ勘料書下一通徳治二七五日 … 高綱

一 自長崎殿留守所へノ書下一通徳治二十二月七日 … 高綱

一 自留守所宮本へノ書下一通徳治二年十二月廿二日

一 自長崎殿留守所へノ書下一通永仁二十二十八日 光綱

 

このうち『系図纂要』がどの史料を参照したかは分からないが、この頃の「長崎左衛門尉」(金吾は「衛門府」の唐名で、この場合「左衛門尉」の別表記である)は全て光綱に比定されたものとみられる。

細川氏が光綱死去の史料を挙げながら、以降の「長崎左衛門尉」を高綱(円喜)に比定され(上【表e】参照)*24、更に『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条に「長崎左衛門尉盛宗」とあるのが確認された*25ことでこれを円喜の俗名と結論づけられた*26のは2000年代に入ってからである。

 

もう1つ、光盛が文暦~文永の間に内管領であったとする記載について。

文暦元(1234)年は奇しくも平盛綱が第3代執権・北条泰時の「家令」(のちの得宗家執事=内管領になった年である*27。盛綱の項には、北条時政が執権(初代)であった時の執事になったと記載しており、何かしらの混乱が生じたものとみられる。続く光綱が建治年間からの内管領在任と記すので、文永年間いっぱい(~1274年)まで務めたと考えるのが自然と思われるが、1274~75年に光盛から光綱へ内管領の地位が移ったということは確認できない。

但し、建治2(1276)年3月9日付「周防国司下文案」(『上司文書』) には同年に「故平左衛門入道・故長崎殿」という2人の人物が周防国西方寺に祭られていたことが記されており、細川氏は当時健在であった平頼綱・長崎光綱より前の人間であったとして、平盛時・長崎光盛に比定されている*28から、この頃光盛から光綱への長崎氏家督の交代があったことは推測可能である。もしかすると【図c】の作成者はこの史料の存在を知っていて、同時に内管領の職も継承されたという風に解釈されたのではなかろうか

光盛が内管領であった期間は、(盛綱を時政の代の人物と誤解しているが故に)盛綱の「家令」就任を光盛の誤りと修正してしまい、書状に「故長崎殿」と出てくるまでの在職と推定されたものでないかと考えられるのである。

 

以上の考察により、系図纂要』では長崎光盛の系統を代々内管領を務める家柄とし、当時の段階で確認できる限りの史料でもって、各当主の在職時期を推定し書かれたものと推測される。その一方で、平頼綱・宗綱父子も内管領であったことを一応は他の史料で確認したようであるが、その時期を確かめる作業は特に行われなかったようである。頼綱とその息子たちの注記は少なく、恐らくは 『保暦間記』に拠ったものと思われるが、彼ら(平氏)については書状など他の史料との照らし合わせをしなかったのであろう。

 

 

長崎氏一族の注記について 

前節での考察を踏まえた上で、他の部分についても他の史料との照合作業を行っていきたいと思う。結果は以下の通りである。

 

【表1】 

系図纂要』での注記 他史料との照合
資盛 内大臣重盛公二男 尊卑分脈』。兄は平維盛
母少輔掌侍藤原親方女    〃   。
右中将蔵人頭従三    〃   。
嘉応年中坐殿下不礼之事配流於伊勢国鈴鹿郡久我庄 嘉応2(1170)年の殿下乗合事件。『勢州四家記』*29、『関安芸守系統』(瑞光寺蔵)によると6年間(~安元2年)の滞在であり*30、養和(1181-82)には疑問(?)
養和中帰京 玉葉』同年8月9日条。『平家物語』巻8、同月16日とす。
寿永二年八ノ六解官赴西海 玉葉』同年8月17日条。『平家物語』巻8「名虎」、「太宰府落」。
元暦二年三ノ廿一入水 壇ノ浦の戦い。『吾妻鏡』同年3月24日条、および『平家物語』巻11「能登殿最期」、3月24日とす。

 

【表2】 

系図纂要』での注記 他史料との照合
盛綱 三郎左衛門尉 吾妻鏡』に「平三郎左衛門尉盛綱」。
正治元年正ノ廿六時政執権之時居鎌倉為執事 誤伝か:【表d】参照。
頼綱 平左衛門尉 吾妻鏡』『保暦間記』など。
内管領 貞時世被誅 『保暦間記』:【表d】参照。
宗綱 平左衛門尉 『保暦間記』のほか、正応4年「追加法」632、および、元亨3年9月23日付「関東下知状」(『常陸国奥郡散在文書』)*31に「平左衛門尉宗綱」とあり。
内管領 坐驕奢配流上総 『保暦間記』:【表d】参照。 ※「坐驕奢」は確認できず。
頼盛 飯沼判官 安木守〔ママ〕 「頼盛」は確認できないが、『保暦間記』での飯沼資宗に一致*32。安芸守の誤記と思われるが、正しくは安房守である(『保暦間記』ほか)。
与父㪽〔=所〕殺

 

【表3】

系図纂要』での注記 他史料との照合
光盛 長崎二郎左衛門 『豆州志稿』に拠るか?『吾妻鏡』弘長3年11月20日条に「長崎次郎左衛門尉」。
入道杲円 誤伝。正しくは平頼綱法名(『保暦間記』ほか)。
自文暦至文永内管領 誤伝か:【表d】および前述参照。
光綱 太郎左衛門尉 『豆州志稿』に拠るか?
自建治至延慶内管領 誤伝か:【表d】および前述参照。
高綱 三郎左衛門尉 「高綱」という実名および「三郎」は確認できず。
入道円喜 貞時高時世内管領 『保暦間記』に光綱子円喜、高時の内管領:【表d】参照。
高頼 兵衛尉 鎌倉年代記』裏書・元徳3年8月6日条、および『保暦間記』元徳2年条に「長崎三郎左衛門尉高頼」、『武家年代記』同3年8月5日条にも「長崎三左高頼」〔ママ〕とあって実在は確かめられるが、兵衛尉であったことは確認できない。
高貞 四郎左衛門尉 鎌倉年代記』裏書・元弘元年条、「南部時長目安状」(『遠野南部文書』)*33、『楠木合戦注文』に「長崎四郎左衛門尉高貞」とある*34他、『保暦間記』に「長崎四郎左衛門尉 円喜子高資弟」、『鎌倉殿中問答記録』*35に「長崎新左衛門尉、執事高資、同舎弟四郎左衛門」とある。
高資 新左衛門尉 門葉記』「冥道供 関東冥道供現行記」正中3年3月6日条*36、『鎌倉殿中問答記録』に「長崎新左衛門尉高資」*37、『太平記』巻2「長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事」にも「執事長崎入道が子息新左衛門尉高資」とあり。 
高重 二郎 太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「長崎二郎高重」。その他、同巻10「長崎高重最期合戦事」にも「長崎次郎高重」、『増補豆州志稿』巻12に「長崎高重次郎墓」の説明あり。
正慶二年自殺東慶寺〔ママ〕 太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。
高直 新左衛門尉

確認できず。『増補豆州志稿』巻12同上箇所 および 巻13「長崎光綱」の項、『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」に登場する高重の弟・新右衛門と同人とす(後述参照)。

 

 【表4】 

系図纂要』での注記 他史料との照合
高泰 勘ヶ由左衛門尉 確認できず。『太平記』巻10「千寿王殿被落大蔵谷事」の「長崎勘解由左衛門入道」と同人?  
泰光 四郎左衛門尉 太平記』巻1「資朝俊基関東下向事付御告文事」に「長崎四郎左衛門泰光」とあり。但し、『御的日記』(内閣文庫所蔵)徳治元(1306)年正月条に「長崎孫四郎泰光」*38建武2(1335)年9月2日付『御鎮座伝記紙背文書』文中に「三重郡芝田郷長崎弥四郎左衛門尉泰光跡」〔ママ〕*39とあって、『鎌倉年代記』裏書や『太平記』にも見られる「長崎孫四郎左衛門尉」が正確であろう。
高光 一ニ高元 俗名は確認できないが、数点史料に見られる「長崎三郎左衛門入道思元」*40に比定される。『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」では5月22日自害とする。
三郎左衛門尉 入道昌元〔ママ〕
元弘三年五ノ廿一討死
為基 勘ヶ由左衛門尉〔ママ〕 太平記』巻10「鎌倉兵火事付長崎父子武勇事」に「長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基」とあり。
師家 九郎左衛門尉 確認できず。『太平記』巻7「千剣破城軍事」に登場の「長崎九郎左衛門尉師宗」と同人か?
盛親 (省 略) 確認できず(独自情報?)。

 

これらの表から分かることは、ほぼ全ての記載が何かしらの史料を根拠として書かれたとみられることである。大方『保暦間記』や『太平記』に拠ったものが多いようである。従って【図c】は当時の段階で確認できる限りの史料でもって、独自に作り上げられたものと推測される。(ここ近年の研究結果として判明したことだが)「盛綱―頼綱」を父子と誤ってしまうくらいなのだから、親子・兄弟といった世代に関しては年代的に判断されたものなのではないかと思われる。 

 

(備考)盛綱までの系譜について

平資盛(1158または1161生?~) と 北条義時(1163生~) がほぼ同世代であることから、平盛綱北条泰時(1183生~)という息子同士をほぼ同世代として考えるべきであろう。よって、盛国―国房という2代を入れて盛綱を資盛の曾孫とするのは年代が合わない。

関氏に関しては、関実忠は『吾妻鏡』に「関左近大夫将監実忠」として登場し実在が確認でき、その系譜は『勢州四家記』では「資盛―盛国―実忠」、『関安芸守系統』(瑞光寺蔵)や「加太氏系図」では「資盛―盛国―国房―実忠」とする*41が、実忠は盛綱と同時期に活動が確認できるので、やはりこちらも年代的に矛盾するように思われる。治承5(1181)年には「平氏一族関出羽守信兼」なる人物が確認でき*42、その甥(弟・信忠の子)盛忠が「関太郎大夫」を称したと伝える系図もある*43ようで、「忠」の通字継承からしてもまだこちらの方が信憑性が高いように思う。 信兼は『尊卑分脈』で「出羽和泉河内守」と注記される山木兼隆(?~1180)の父・信兼に比定されるが、その姪孫(てっそん、甥の子)が実忠というのは年代的にもおかしくないだろう。

【図c】作成にあたってはこれらの情報を混同(或いは混合)してしまったのかもしれない *44。しかし、既存の史料を根拠としていたことは認められると思う。作成の際に年代的な問題が考慮されずに各史料の情報をそのまま反映してしまっただけで、決して出鱈目を書いたものではなかった。

 

 

『増訂 豆州志稿』との比較

もう1つ長崎氏に関する史料としては、細川重男氏が用いられている伊豆の地方誌『増訂豆州志稿』がある。この史料は、秋山富南が門弟らを引き連れ、伊豆の全土を調査して回りながら12年かけて編纂し、寛政12(1800)年に完成させた地歴書(=『豆州志稿』)を、明治時代に入って萩原正平・正夫父子によって増訂がなされて明治28(1895)年に刊行されたものである*45。この中に少しではあるが、長崎氏に関する記載が見られる。

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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00291「15」の10・11ページ目より)

 

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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00291「16」の46・47ページ目より)
 

この『増訂豆州志稿』と『系図纂要』との関係性について、細川氏は次のように言及している。

…『増訂豆州志稿』は高綱の法名「円喜」を父光綱の法名とし、しかも註を付して「武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス」とわざわざ記しているから、『増訂豆州志稿』の記事には田方郡長崎村の伝承が含まれていると推測され、『系図纂要』と『増訂豆州志稿』の間の史料的親近性はきわめて薄弱で、むしろ別系統の史料と考えられる…

(細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』P.135 より引用)

確かに、編纂にあたって伊豆全土を調査して回ったというからには長崎村の伝承が含まれることは間違いないだろう。しかし、[増]のマークが付された文章は萩原親子によって増訂された部分とみられるが、『東鑑』(=『吾妻鏡』)や『太平記』、そして具体的ではないが「武家系図等」といった他の史料を参照していることが明記されているのである。この「武家系図等」とは何であろうか?

 

系図纂要』の成立は安政3(1856)年~万延元(1860)年の間であったとされ*46、秋山富南が『豆州志稿』を完成させたよりも後のことである。[増]のマークが付されていない「長崎光盛 二郎左衛門尉」「長崎光綱 太郎左衛門尉」の部分は初期の段階から書かれていたと考えて良いと思われるが、わずか60年ほど後に完成し同内容を記す【図c】(『系図纂要』) がこれを参照していないとは考えにくい

一方、「武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス」の部分は [増] マークが付された文章の中に出てくるので、萩原親子によって加えられた可能性も否定できない。もし萩原氏による記述だとすれば、参照し得る「武家系図」は「現存するほとんど唯一の長崎氏系図」とされる【図c】しかあり得ないのではないか。「高綱」という人名は【図c】でしか確認できず*47、同系図が他の史料によって独自に構築された可能性があることはこれまでに述べてきた通りである。「等(など)」に該当するのは【表d】に紹介した『保暦間記』の記述であろう。光綱項の「髠して円喜入道と称す」の記載は当初の『豆州志稿』の段階からあったが、『保暦間記』と『系図纂要』を見て疑問に思った萩原氏がこの注記を加えたのではないかと思われる

 

また、その後の文章にも着目してみると「北条氏内管領タリ元弘三年五月北条氏滅亡ノ日其孫高重高直ト與〔=与〕ニ鎌倉ニテ自裁太平記」とあり、『太平記』に拠って長崎円喜の最期を記したものであることは明らかである。該当部分をのぞいてみよう。

【史料f】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より

去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。…(略)…長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。……

historyofjapan-henki.hateblo.jp

上記【史料f】に出てくる長崎氏は3名、前節「長崎高重最期合戦事」にて「長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重」と名乗りを挙げた高重、その実弟である新右衛門15才、そして祖父である円喜である。これを先の文章と照らし合わせると、新右衛門=高直としていることになる。『系図纂要』(【図c】)では高資の子で高重の従兄弟としており「新左衛門尉」との注記が付されているが、「高直」の名が確認できるのは管見の限りこの系図のみである。従って、「元弘三年…」以降の文章は、

武家系図」=【図c】での高直を『太平記』での新右衛門に比定して、増訂の際に加えられた情報

『豆州志稿』の段階からあったもの(で、『系図纂要』がこれを参照した)

のいずれかと考えられる。恐らくは増訂時に加えられた文章ではないかと思う。

 

以上の考察により、

秋山富南『豆州志稿』

系図纂要:盛綱―光盛―光綱―高綱 入道円喜

⇒『増訂豆州志稿』武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス…以降の文章

といった順番で成立していったと考えられる。細川氏の説とは反対に、『系図纂要』と『豆州志稿』および『増訂豆州志稿』の間の史料的親近性は認められるのではないだろうか。

 

よって『系図纂要』長崎氏系図の構築にあたっては、『豆州志稿』も参照されていたと判断できる。「光盛 二郎左衛門尉」「光綱 太郎左衛門尉」の記載は長崎村の伝承に基づく『豆州志稿』の記載に拠ったものと考えられよう

 

 

まとめ・総括

以上の考察により、系図纂要』長崎氏系図(【図c】)は、『玉葉』・『平家物語』・『吾妻鏡』・『保暦間記』・『太平記』・『尊卑分脈』・『豆州志稿』など他の史料をよく収集の上で参照しながら、江戸時代当時の研究成果として独自に作成させたものと言えるだろう。

近年になって誤りを指摘する論文が幾つも出されたことで、遂には「信憑性が低い*48とまで言われてしまっているが、それは新たな史料の発見による状況の変化のためである。それらの論文は等しく「現存するほとんど唯一の長崎氏系図」である【図c】をベースとしているのであり、間違いなく現代の長崎氏研究に大きく貢献している。

たとえ、後々誤りであることが判明したとしても、 直ちに「信憑性が低い」と言って切り捨てるべきではない。これまでの考察により【図c】がただ出鱈目を記載したものではないことは確認できるだろう。むしろ江戸幕末期の段階で、それまでに無かった「唯一の長崎氏系図」を完成させたことこそ評価すべきなのではないか。それだけでもこの系図は十分に価値のあるものだと言える。

 

本項では長崎氏を取り扱ったが、同様の検証作業を他氏、他系図で試みるのも面白いだろう。先行研究(論文・著作)やデータベースが充実してきた今だからこそ、これまでの成果をベースとした新たな系図集の作成の必要性に迫られているのかもしれない。

 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より。名越宗教 - Henkipedia 〔史料H〕に同じ。

*2:漆原徹「紹介と批評 細川重男 著『鎌倉政権得宗専制論』」(所収:慶応義塾大学法学研究会紀要『法学研究』第75巻第4号、2002年)P.115~116。

*3:前注漆原氏論評、P.115。

*4:同前注。

*5:同前注。

*6:注1前掲細川氏著書、第二部第三章「北条高時政権の研究」参照。

*7:『鎌倉遺文』(41巻、32185号)、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。文章および人物比定は、注1前掲細川氏著書 P.211 注(3) より。「南条新左衛門尉」は『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条に的始の一番筆頭の射手として確認できる「南条新左衛門尉高直」(『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』、埼玉県、1985年、P.642)と同人とする梶川貴子の説(梶川「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号 所収、2012年》P.390)に従った。

*8:注1前掲細川氏著書、P.124。

*9:注1前掲細川氏著書、第一部第四章「得宗家執事長崎氏」第一節において、限りなく史実に近い正確な系図の復元が行われている(同書P.424~425に「長崎系図②」として掲載)。先だって森幸夫も「平・長崎氏の系譜」(所収:安田元久編『吾妻鏡人名総覧 : 注釈と考証』、吉川弘文館、1998年)にて同じテーマを扱っている。

*10:当ブログにおいて『系図纂要』独自の情報を(一部でも)採用した例としては、京極頼氏名越宗教名越貞持 - Henkipediaでの名越時有・有公兄弟などが挙げられる。

*11:青山幹哉「史料料学としての系図学入門」(所収:『アルケイア -記録・情報・歴史-』第7号、南山大学史料室、2013年)。

*12:注1前掲細川氏著書、P.422~423 より。

*13:注1前掲細川氏著書、P.178 注(16)。

*14:注1前掲細川氏著書 P.110・274、梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.116。

*15:注1前掲細川氏著書、P.167 および P.183 注(67)。

*16:注9前掲森氏論文、P.585。

*17:長崎光綱(ながさき みつつな)とは - コトバンク(『講談社 日本人名大辞典』・『朝日日本歴史人物事典』)など。

*18:『鎌倉遺文』第24巻18268号。

*19:『鎌倉遺文』第24巻18759号。

*20:『鎌倉遺文』第30巻22986号。

*21:『鎌倉遺文』第30巻23363号。

*22:注1前掲細川氏著書、P.360 [史料]②。

*23:注1前掲細川氏著書 P.167~168 および P.183注(69) より。

*24:注1前掲細川氏著書、P.167~168。

*25:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収:井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』第Ⅱ部)P.200。

*26:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73、同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。

*27:注1前掲細川氏著書、P.106~107・P.124・P.125表9。典拠は『吾妻鏡』同年8月21日条。

*28:注1前掲細川氏著書、P.136~137。

*29:群書類従』巻381・合戦部13 所収。

*30:桃林寺参照。

*31:注1前掲細川氏著書、P.120注(27)で紹介あり。

*32:注1前掲細川氏著書、P.177注(9)。

*33:『鎌倉遺文』42巻32810号。こちらにも掲載あり。

*34:名越宗教 - Henkipedia【表E】参照。

*35:『史籍集覧』27 所収。

*36:注1前掲細川氏著書 P.87・P.197・P.311。

*37:鎌倉殿中問答記録略註参照。

*38:注7前掲梶川氏論文、P.389。

*39:注1前掲細川氏著書 P.173表19 または 別符氏の出雲の寺創建と安枝名の御厨 参照。

*40:北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001年)所収「北条氏被官一覧」に拠る。注33前掲同文書はこの一例。

*41:武家家伝_関 氏 より。

*42:吾妻鏡』同年正月21日条。

*43:武家家伝_関 氏 より(典拠は『古代氏族系譜集成』所収の系図)。

*44:長崎氏を関氏の分家とするのは『関家筋目』等が根拠になっているようである。太田亮 著『姓氏家系大辞典 第2巻』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)「関 セキ」の項 参照。

*45:(第6号) 郷土史の原典 『豆州志稿』(昭和62年12月1日号)|三島市。注1前掲細川氏著書、P.177 注(10)。

*46:系図纂要 - Wikipedia より。

*47:注1前掲細川氏著書 P.183 注(61) では、長崎円喜北条高時元服して僅か3ヶ月後には出家していることが確認できるため、高時の偏諱を授かって「高綱」を称した可能性は低いとし、注26前掲論文において「盛宗」が正しいと結論付けられているが、筆者は「盛宗」の後、出家までの僅かな期間「高綱」を名乗っていたと考える。これについては 長崎高重 - Henkipedia を参照。

*48:注9前掲森氏論文、注16同箇所。