平頼綱
平 頼綱(たいら の よりつな、1235年頃?~1293年)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。鎌倉幕府第8代執権北条時宗・9代執権北条貞時の執事(内管領)で、貞時の乳母父。通称 および 官途は 三郎(新左衛門三郎)、左衛門尉(新左衛門尉、左衛門尉、左衛門入道)。法名は杲円(こうえん)。父は平盛時。子に平宗綱、飯沼資宗。猶子に須田為綱*1。
頼綱については多くの先行研究が発表されており、改めて本項で述べる必要もないだろう。詳しい活動経歴・生涯については
などをご参照いただければと思う。
以下本項では、梶川貴子氏の研究*2に従って「頼綱」の名乗りについて紹介する。
まず、史料上での初見として『吾妻鏡』には次の4箇所に登場する。
● 建長8(1256)年正月4日・同月9日条「平新左衛門三郎」
● 正嘉2(1258)年正月11日条「平新左衛門三郎頼綱」
● 弘長3(1263)年正月1日条「平新左衛門尉頼綱」
通称名は、(新)左衛門尉であった父・平盛時の「三郎(三男)」を表すものである。但し「三郎」は、盛綱―盛時の仮名を継承したものであり、実際に3男かどうかにかかわらず、長崎流平氏惣領の称号と化していた。
1263年の段階では父「平左衛門尉盛時」と区別されて「平新左衛門尉」と呼ばれており*3、1258~1263年の間に左衛門尉に任官したようだが、それまでは単に「三郎」と称するのみで無官であったことが窺える。
梶川氏は「頼綱」の名が5代執権・北条時頼の偏諱を受けたものとして、時頼の執権在職期間(1246~1256年)内の元服と推定されているが、筆者も同意である。
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森幸夫氏は、次男・飯沼資宗の生年が1267年であることから1240年頃の生まれではないかとする*4。
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一方、梶川氏は祖父・盛綱や父・盛時、頼綱の嫡子・宗綱の活動時期などを加味して1230年代前半から中ごろの誕生と推定される。
いずれにせよ10代で行う元服当時の執権・得宗は時頼となり、その偏諱「頼」を受けたことは確実と言って良いだろう。 間をとって1235年頃の生まれとしておく。恐らく時頼が執権に就任して間もない頃の元服であろう。
【史料】『保暦間記』より*5
……弘安…七年四月四日、時宗、三十四歳にて出家 法名道果 号宝光寺。同日酉時死去ス。嫡子貞時……ガ内官〔管〕領平左衛門尉頼綱 不知先祖法名果円……平左衛門入道頼綱法師 法名果円……平左衛門入道果円、驕の余に子息廷尉に成たりしが、安房守に成て飯沼殿とぞ申ける。果円父子、天下の事は安房守を将軍にせんと議しけり。彼入道嫡子左衛門宗綱は忠ある仁にて、父が悪行を歎てこの事を貞時に忍やかに申たり。この上はとて左衛門入道果円父子を誅せられをはんぬ。宗綱は一旦佐渡の国へ流罪せられけれども、召帰されて後には管領に成にけり。然どもまた後に上総の国へ流罪せらる。……
弘安7(1284)年4月4日に北条時宗(時頼の子、8代執権)が出家し、間もなく死去。頼綱もこの時出家したとする見解もある*6が、実際には1年経った翌8(1285)年、霜月騒動で安達氏を倒した直後の12月27日であったという*7。平左衛門尉を通称としていたことから、以後「平左衛門入道」と呼ばれ、また法名は杲円(こうえん、旧字:杲圓)といったが、時宗の法名「道杲」から1字を取ったものであろう。上記史料では時宗・頼綱の法名がともに「果」と誤読しており、このことを裏付けている。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第8-9巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。清和源氏より分かれ「源頼季―井上満実(家季)―須田為実―盛泰―実村―貞村―為村」ときて、為村の子・須田十郎為綱の注記に「為頼綱入道果圓子(頼綱入道果円〔ママ〕の子と為す)」と書かれている。黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.209では、「頼」が源氏の通字でもあるためか、頼綱を源氏一門と判断して〔源〕の注記を付しているが、世代・年代と「果圓」という法名を考慮して頼綱は本項の平頼綱に比定されよう。実子の嫡男として宗綱がいるので、本項では為綱を相続権のない養子である猶子とみなした。「綱」は(義理の)父子間の通字継承として頼綱の偏諱を与えられたものとみられ、或いは烏帽子子でもあったのかもしれない。
*2:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115。
*3:長崎高重 - Henkipedia #長崎流における通称名 参照。
*4:森幸夫「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994年)。
*5:佐伯真一・高木浩明 編著『校本保暦間記』(和泉書院、1999年)または 群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。読み易くするため、適宜、原文カタカナの部分は改めた。年代記永仁元年 および 『編年史料』永仁元年四月 P.33 も参照のこと。
*6:平頼綱 ー 親鸞と東国門徒 より。