Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

石川貞光

石川 貞光(いしかわ さだみつ、生年不詳(1280年代?)~1341年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏の第14代当主。

 

【史料】『源流無尽』所収「石川系図」より*1

母堂義生朝臣女、

貞光公

称太郎、実通山公之嫡子、故立為世子、依先公之嘉例、於鎌倉府加冠、乞執政貞時之偏諱称貞光、……(以下略)

系図では石川時光の子としながらも、実は「通山公」=石川家光(時光の兄、諡:通山道宗)*2の嫡子であった故に世子に立てられたとする。先代の叔父・時光は家光の養嗣子となっていたが、恐らく貞光が生まれていなかったか、幼少であったためだと思われる。 

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家光嫡男の加冠(元服)は鎌倉幕府において行われ、9代執権・北条偏諱を乞(こ=請)い「(石川)太郎」と名乗ることを許されたというが、同系図によれば先代・光も8代執権・北条宗の邸宅で元服してその偏諱を受けたといい、この「嘉例」によったものだと伝える。成長した貞光が時光の跡目に定められ、当時の得宗・貞時を烏帽子親としたのであった。

上記【史料】では、貞光の母を「義生朝臣」の娘と伝えるが、畠山義生(よしなり?、畠山泰国の子)のことであろうか。『尊卑分脈*3によると義生の母は北条資時(1199-1251*4)の娘であり、各親子間での年齢差を考慮すれば、義生の生年は早くとも1240年頃と推定可能である。従ってその外孫である貞光は早くとも1280年頃の生まれと推定できる。すると、貞時執権期(在職:1284年~1301年*5元服であった可能性は高いと判断できよう。

*『石川氏一千年史』上巻によると、家光の項に「夫人大内備前守多々良義業朝臣ノ女珉子」の記載があるが、多々良姓大内氏(周防大内氏)に「義業」の名の当主は確認できない(→ 大内氏 - Wikipedia)。「義業」が「よしなり」と読めることから、前述の畠山義生と混同され、誤って伝えられたのではないかと考えられる。

 

同じく『源流無尽』の系図には、貞光の弟として板橋(通称:二郎)の掲載があるらしい*6が、こちらは準嫡子として次の得宗・北条時の偏諱を受けたのかもしれない。 

 

(参考ページ)

 石川貞光 - Wikipedia

 武家家伝_奥州石川氏

 石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

脚注