石川貞光
石川 貞光(いしかわ さだみつ、生年不詳(1280年代?)~1341年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏の第14代当主。
系図では石川時光の子としながらも、実は「通山公」=石川家光(時光の兄、諡:通山道宗)*2の嫡子であった故に世子に立てられたとする。先代の叔父・時光は家光の養嗣子となっていたが、恐らく貞光が生まれていなかったか、幼少であったためだと思われる。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
家光嫡男の加冠(元服)は鎌倉幕府において行われ、9代執権・北条貞時の偏諱を乞(こ=請)い「(石川)太郎貞光」と名乗ることを許されたというが、同系図によれば先代・時光も8代執権・北条時宗の邸宅で元服してその偏諱を受けたといい、この「嘉例」によったものだと伝える。成長した貞光が時光の跡目に定められ、当時の得宗・貞時を烏帽子親としたのであった。
上記【史料】では、貞光の母を「義生朝臣」の娘と伝えるが、畠山義生(よしなり?、畠山泰国の子)のことであろうか。『尊卑分脈』*3によると義生の母は北条資時(1199-1251*4)の娘であり、各親子間での年齢差を考慮すれば、義生の生年は早くとも1240年頃と推定可能である。従ってその外孫である貞光は早くとも1280年頃の生まれと推定できる。すると、貞時執権期(在職:1284年~1301年*5)の元服であった可能性は高いと判断できよう。
*『石川氏一千年史』上巻によると、家光の項に「夫人大内備前守多々良義業朝臣ノ女珉子」の記載があるが、多々良姓大内氏(周防大内氏)に「義業」の名の当主は確認できない(→ 大内氏 - Wikipedia)。「義業」が「よしなり」と読めることから、前述の畠山義生と混同され、誤って伝えられたのではないかと考えられる。
同じく『源流無尽』の系図には、貞光の弟として板橋高光(通称:二郎)の掲載があるらしい*6が、こちらは準嫡子として次の得宗・北条高時の偏諱を受けたのかもしれない。
(参考ページ)
● 石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション