工藤頼光
工藤 頼光(くどう よりみつ、生年不詳(1230年代?)~没年不詳(1290年代?))は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。系図では工藤光頼(みつより)とも。工藤光長(または光泰)の嫡男で工藤宗光の父とされる。通称は次郎、左衛門尉。
『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条を見ると、当時の第5代執権・北条時頼の沙汰によるこの日の椀飯の馬引(御馬五番)をその弟・北条六郎時定と共に務める人物として「工藤次郎左衛門尉頼光」の実在が確認できる。
今野慶信氏の見解によれば、この頼光は通称名の一致から、この【図A】において「大厩左衛門入道」と注記される光頼〔ママ〕に比定されるのではないかとする*2。今野氏は「大厩」=将軍家の厩のこと、「頼光」の名は時頼の偏諱を受けたものと推測されているが、前述の通りまさに時頼治世下で登場しながらその1字が認められているから、筆者も賛同である(以降の宗光―貞光も得宗から一字を拝領した形跡が見られる)。1246年に時頼が執権を継いで*3間もない1240年代後半(1246~1250年)に元服し、1250~1252年頃に左衛門尉任官を果たしたものと思われる。
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そして、こちら▲の記事でも紹介の通り、頼光(光頼)の父・光長について今野氏は『吾妻鏡』に時頼の側近の一人として現れる工藤光泰に比定されるのではないかと説かれている。
但し『吾妻鏡』を見ると、宝治2(1248)年1月15日条に「工藤右近次郎(異本によっては右近五郎と記すものも)」、建長3(1251)年1月8日条と同4(1252)年11月18日条に「工藤右近三郎」の名が見られ、この当時「工藤右近将監」という人物が実在し、各々その息子であったことを暗示している。すると「大系図」にある "右近将監" 光長は誤記ではなく、年代的に考慮してこれに該当し得るのではないか。すなわち、右近次郎が後の次郎左衛門尉頼光、右近三郎は(系図には書かれていないが)頼光の弟であった可能性がある。もしこの推定が正しければ、1246~1247年の間に「頼光」を名乗ったことになり、時頼が執権を継いで間もない頃に元服とした前述の内容を裏付けるものとなる。
但し、頼光は得宗の偏諱を受けるほか、後に北条貞時娘の乳母夫となる(後述参照)等、有力な得宗被官という光泰の地位を継承したものと言えるのも事実で、恐らく尾藤氏の例と同様に光泰が甥(兄・光長の子)である頼光を後継者にしたというのが実際のところではないかと思う。
改めて工藤頼光の登場箇所と思われる史料を掲げると次の通りである。
●【史料1】『吾妻鏡』宝治2(1248)年1月15日条:「工藤右近次郎」(※推測)
●【史料2】『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条:「工藤次郎左衛門尉頼光」
●【史料3】『吾妻鏡』弘長元(1261)年4月25日条:「工藤次郎右衛門尉」(?)
*『吾妻鏡人名索引』の推定による。史料上で「左衛門尉」と「右衛門尉」の書き間違いはしばしばあるが、年代的には頼光(光頼)のはとこにあたる、朝光流の「二郎右衛門」資房にも比定し得る*5ので、必ずしも頼光と断定できるとは限らない。但し逆に、同時代には父の従兄弟にあたる工藤高光が「次郎左衛門尉」を称しており、同じ通称名であったとも考えにくいので【史料2】が誤記である可能性も否めない。
●【史料4】『親玄僧正日記』永仁元(1293)年10月1日条:「…姫御前護刀事、乳夫子息工藤右近為使者示送…」
工藤右近(工藤右近将監)が北条貞時(時頼の孫、第9代執権)娘の乳母夫の子息であったと伝えており、今野・山内吹十(やまのうち・ふきと)*6両氏は年代を考慮してこの「工藤右近」を宗光、その父親である貞時娘の乳母夫は頼光としている。「故…」(故人)等の記載が特に無いので、永仁元年当時まで存命であったのかもしれない。
脚注
*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。
*2:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.113。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。
*5:正確な生年が分かっていないので、或いは重光流工藤高光の子である「二郎右衛門(入道)」時光の可能性も決して排除は出来ないが、筆者は年代的に考慮してそれは低いと判断する。
*6:山内吹十「得宗家の乳母と女房 : 得宗―被官関係の一側面」(所収:『法政史学』第80巻、法政大学史学会、2013年)P.30。