Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

戸次貞直

戸次 貞直(べっき/へつぎ さだなお、1278年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の当主。戸次時親の嫡男。

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 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、元服の際、加冠役(烏帽子親)であった北条から諱の1字を授かったと伝える系図は複数ある。祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、その「重」の字を共有したとみられること、父・親も北条宗の烏帽子子であったことを踏まえると、慣例に従って貞時の偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思われる*2

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

この点について、以下史料を交えながら考察・裏付けをしたいと思う。

 

弘安11(1288)年のものとされる「田中後家書状」(『肥後志賀文書』)に「へつきのまこ太郎殿」と現れる*4のが史料上での初見と思われる。貞直の仮名(通称)が「孫太郎」であることは【図2】等の系図類に記載があり、年代的に考えても同定されると思う。

この当時は「戸次孫太郎」と名乗るのみで、後述史料と比較すれば左衛門尉任官前の無官であったことが分かるが、これは元服してから間もない段階であったためであろう。吉良国光はこの時の貞直は豊後国大野庄中村の地頭であったと推測されている*5

 

次いで、永仁7(1299=正安元)年正月28日に鎮西評定衆となった者の中に「戸次孫太郎左衛門尉」が含まれており*6、【図2】での注記にもある通り、これが貞直に比定されるというが問題ないと思う。同年4月10日付「鎮西引付衆結番注文」*7にも「戸次孫太郎左衛門尉」と現れており、翌正安2(1300)年4月6日付「鎮西御教書」(『豊後柞原八幡宮文書』)*8の宛名「戸次孫太郎左衛門尉殿」も貞直に比定される。すなわち、この頃までに左衛門尉に任官を果たしていたことが窺える。他の御家人を見ると、その任官年齢は20代(早くとも10代)であったケースが多かったので、貞直もその位の年齢だったのではないかと思われる。

従って、弘安7(1284)年4月~同11年の間に、当時の執権・北条貞時を烏帽子親として元服したことは確実と言って良いだろう。

 

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:『鎌倉遺文』第22巻16553号。

*5:吉良国光「志賀(近地)禅季と泊寺について」(所収:『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』第34巻、大分県立芸術文化短期大学、1996年)P.31。

*6:【図2】貞直の注記内。『鎌倉遺文』第26巻19935号。年代記正安元年

*7:『鎌倉遺文』第26巻20027号(『薩藩旧記 前編』7)、20028号(『旧典類聚』13)。

*8:『鎌倉遺文』第27巻20416号。