Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

戸次高貞

戸次 高貞(べっき/へつぎ たかさだ、1305年頃?~没年不詳(1320年代後半?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の人物。

 

 

 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、元服の際、加冠役(烏帽子親)であった北条から諱の1字を授かったと伝える系図は複数ある。曽祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、その「重」の字を共有したとみられること、その後も「親―直」が得宗宗―時」と烏帽子親子関係を結んでいたこと*2を踏まえると、慣例に従って高時の偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思う。

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

 

管見の限り、戸次高貞についての史料は確認できないので、生没年の推定すら困難であるが、ここで弟の戸次頼時(よりとき)について着目してみたい。

 

建武3(1336)年には「戸次豊前太郎」と書かれた書状が2点残されている*4が、暦応元(1338)年12月27日付の大友氏泰宛て高師直の書状*5、および同4(1341)年4月付の書状2点*6にある「戸次豊前太郎頼時」と同人とみなして良いだろう。通称名は戸次豊前守の「太郎(長男)」を表すものであるから、これが系図上での豊前守貞直の子・頼時で間違いない(同時に貞直が最終的に豊前守であったことが裏付けられよう)

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その後、康永4(1345=貞和元/興国6)年8月29日の天龍寺供養に際し、随兵の先陣を務める一員の頼時について、「戸次豊前太郎*7/「戸次丹後守*8と表記ゆれしている。先陣筆頭の武田信武についても「武田伊豆守」/「武田伊豆前司」の違いがあるなど、一部の人物で混乱が見られるが、恐らく彼らがこの頃に昇進や辞任等を行ったからであろう。従って頼時もこの頃丹後守に任官したと推測されるが、年齢的には国守任官に相応の30代以上に達していたと思われる

*この場合、頼時は遅くとも1310年代前半の生まれと推定される。冒頭の系図で示した通り、頼時の子・直光(ただみつ)は足利直冬の加冠・偏諱を受けて元服したと伝えられるが、その時期は直冬が長門探題として九州方面に下向した1349年頃より後と思われ、早くとも1330年代の生まれと推定可能である。親子の年齢差として問題なく、妥当な推定だと思う。

 

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こちら▲の記事で父・貞直の生年を1278年頃と推定したが、これに基づき親子の年齢差を考慮すれば、高貞の生年は早くとも1298年~1300年頃と推定可能である。一方、頼時の兄であれば1310年頃までに生まれている筈であろう。北条高時が1311年に得宗家督を継承し、1316年~1326年の間14代執権を務めていた*9ことを考えると、早くとも1305年頃の生まれとするのが妥当だと思う

 

ちなみに、『碩田叢史 二』所収「豊後諸士系図」に収録の「戸次氏系図」では同じく「於北条相模守平高時為元服 号高貞」と注記されるが、その後頼時に改名したとも記載する*10。 共に「太郎」を通称としたことから同人とみなしたのかもしれないが、【表1】にある通り「早世*11」と記す系図があることも考慮すれば、【図2】の通り別人兄弟とするのが良いかと思う。頼時が元服した時、"若宮太郎"高貞は既に早世していたので、(貞直にとって次男でありながら)代わって嫡子となり「太郎」を称したのであろう。

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:大日本史料』6-3 P.2176-2 P.780

*5:『大日本史料』6-5 P.208

*6:『大日本史料』6-6 P.769~770

*7:『大日本史料』6-9 P.247

*8:『大日本史料』6-9 P.246

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:『大日本史料』6-29 P.371

*11:一概に言い切れないが、他の御家人を見るとこの当時における「早世」の具体的な年齢は10代~20歳前半であるケースが多かった。詳しくは 大仏高宣 - Henkipedia の項を参照のこと。よって戸次高貞の享年も同様だったのではないかと思われる。