Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

毛利時親

毛利 時親(もうり ときちか、1258年頃?~1341年)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての武将、御家人、安芸毛利氏の当主。父は毛利経光。


 

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祖父・毛利季光大江広元の4男)については、宝治合戦(1247年)で三浦泰村方について自害した時46歳(数え年)であったといい、逆算すると建仁2(1202)年生まれと分かる*1。従って父・経光はこの間に生まれている筈であり、各親子間の年齢差を20と仮定した場合、時親の生年は早くとも1242年頃、遅くとも1267年頃と推定可能であるが、『尊卑分脈*2によれば経光・時親には兄がいたようであるから、更に年代を下らせても良いだろう。

 

ここで次の史料を見ておきたい。 

【史料A】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*3

  沙弥(=経光) 在判

ゆつりわたす所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄安芸国吉田庄)、ゑちこのくにさハしのしやう越後国佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛(=経光)さうてん相伝の所りやう也、しかる(然る)四郎時親、ゆつりわたす所也、この状まかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、

  文永七年七月十五日

この史料は沙弥・寂仏相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を時親に譲るとしたものである*4

この「寂仏」は『江氏系譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される毛利経光*5に比定される。このことは、実際に時親の子・貞親が自らの譲状で「祖父寂仏」と記している*6こと、『尊卑分脈』での系譜が「経光―時親―貞親」であることからも裏付けられよう。すなわち【史料A】は「経光入道寂仏→時親」への父子相伝であったことになる。  

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ここで着目しておきたいのは「四郎時親」という名乗り方である。のちに刑部少輔にまで昇進したことは、曽孫・毛利元春自筆の書状(「毛利元春自筆事書案」)*7によって判明しているが、【史料A】の段階では「四郎」と名乗るのみで無官であったことが分かる。冒頭の生年の推定に従えば、その理由は元服からさほど経っていなかったためであると推測できよう。

」の名乗りに着目すると、大江氏にゆかりのある「親」の字*8に対し、わざわざ上(1文字目)に置いている「」は執権・北条氏の通字を賜ったものと判断される。これは、1263年に得宗家督を継ぎ、1268年から8代執権を務める北条*9偏諱に間違いなかろう。

*"早くとも1242年頃の生まれ" と前述したのに従い、仮に1240年代の生まれであれば、5代執権・北条時頼時宗の父)からの一字拝領を想定することは不可能ではないが、前述の「元春自筆事書案」には時親について「暦応4(1341)年7月死去」と記されているから、当時としては長寿過ぎる感じが否めない。しかも【史料A】当時20代後半~30歳でありながら全くの無官であったというのも不自然である。恐らく父・光は4代執権・北条時(時頼の兄/在職:1242~1246年)の偏諱を受けたとみられるので、時頼が時親に1字を授けることは不可能であろう。むしろ時から一字を拝領したのは、むしろ初名「基」であった兄・基親の可能性が考えられると思う。 

 

その裏付けとして、次の史料にも着目したい。 

【史料B】建武4(1337)年正月16日付「毛利了禅(時親)譲状写」(『毛利家文書』)*10

安芸国吉田庄地頭職者、譲与孫子親茂也、然者、彼為嫡子、少輔太郎師親了禅代官、致数ヶ度軍忠之上者、親茂一期之後者、師親知行不可有相違、仍為後日之状如件、

  建武亖年正月十六日  了禅 在判

尊卑分脈』や「毛利元春自筆事書案」などによれば、「了禅(りょうぜん)」は時親法名であり、親茂師親は各々時親の孫、曽孫にあたる人物である。親は元春の初名であるが、この当時は、3年前に13歳で高尾張守、のち越後守)の加冠により元服を遂げたばかりであった*11

従って、"曽祖父―曽孫"間の年齢差を考慮すれば、この時の時親(了禅)の年齢は80歳近くであったとするのが妥当であろう。仮に80歳(数え年)として逆算すると1258年頃の生まれとなり、通常10代前半で行う元服当時の得宗・執権が北条時宗であること確実である。下記記事▼で長男・貞親の生年を1280年頃と推定したが、時親20代前半の時の子となって辻褄が合う。 

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北条氏得宗家とは、おばにあたる季光の娘が北条時頼に嫁いだ*12ことによって婚姻関係にあり、『浅羽本 北条系図』ではこの女性が時宗の母親と誤って記す*13(この場合時宗とは従兄弟の関係になる)が、時宗とほぼ同世代の人物であったことの証左であるとも言えよう。 

 

(参考ページ)

 毛利時親 - Wikipedia

 毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク

 柏崎通信 『中鯖石村誌』第六章「沿革」続き

 伝大江時親邸跡

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.141「毛利季光」の項。毛利季光(もうり すえみつ)とは - コトバンク毛利季光 - Wikipedia

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション。尚、本項での『尊卑分脈』は全てこれに拠ったものとする。

*3:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。

*4:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

*5:『大日本史料』5-22 P.156『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3

*6:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号『大日本史料』6-3 P.46

*7:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.18~ 一五号

*8:それまでの大江氏一門で「親」字を用いた人物は、一説に大江広元の兄とされる中原親能や、広元の長男・大江親広、更には時親の兄・基親などが挙げられる。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.34 一六号

*11:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号 P.19・同P.23

*12:『大日本史料』5-12 P.558

*13:正確には時宗の傍注に「母毛利蔵人女」と記す。注9同箇所 および『諸家系図纂』所収「北条系図」(P.24) を参照のこと。