毛利経光
毛利 経光(もうり つねみつ、1230年頃?~1270年頃?)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、安芸毛利氏の当主。父は毛利氏の始祖である大江広元の4男・毛利季光。
生年の推定
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父・季光については、宝治合戦(1247年)で三浦泰村方について自害した時46歳(数え年)であったといい、逆算すると建仁2(1202)年生まれと分かる*1。従って、現実的な親子の年齢差を考えて経光の生年は早くとも1222年頃で、1247年までの間に生まれている筈である。
ここで、母親についても確認しておこう。
『諸家系図纂』等の三浦氏の各系図類では、三浦義村の娘の一人に毛利季光(法名: 西阿)*2妻を載せており、「佐野本 三浦系図」によると、広光・信光・泰光、そして経光の母親であったとする*3。この女性が泰村の妹で季光の妻であったことは次の史料にも記されている。
【史料A】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月5日条*4より一部抜粋
……毛利蔵人大夫入道西阿……彼妻泰村妹、取西阿鎧袖云、「捐若州(=若狭前司・泰村)参左親衛(=時頼)御方之□〔事〕者、武士所致歟、甚違年来一諾訖、恥後聞乎哉□〔者〕」、西阿聞此詞、発退心加泰村之陣、……
季光は当時の5代執権・北条時頼の岳父(妻の父)でもあった*5が、「泰村を捐(す=捨)て時頼の許に参じて御方(=味方)することは武士のすることではない」との妻の言葉を受けて宝治合戦では泰村の陣営に加わったと伝える。
泰村が1204年生まれであるから*6、この女性はそれ以後の生まれということになるが、夫・季光とさほど年齢の離れていない妻であったとみなすのが自然であろう。仮に1205年生まれとした場合、親子の年齢差も考慮して、長男・広光を産んだのが1225年頃とするのが妥当であろう。4男であった経光の生年は早くとも1228年頃と推定される。
あわせて次の史料も見ておきたい。
【史料B】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*7
沙弥(=寂佛) 在判
ゆつりわたす所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄(安芸国吉田庄)、ゑちこのくにさハしのしやう(越後国佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛さうてん(相伝)の所りやう也、しかる(然る)を四郎時親ニ、ゆつりわたす所也、この状ニまかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、
文永七年七月十五日
この史料は沙弥寂仏が相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を時親に譲るとしたものであるが、この「寂仏」は『江氏家譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される経光*8に比定される。このことは、実際に時親の子・貞親が自らの譲状で「祖父寂仏」と記している*9こと、『尊卑分脈』*10での系譜が「経光―時親―貞親」であることからも裏付けられよう。すなわち【史料B】は「経光入道寂仏→時親」への父子相伝であったことになる*11。
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ここで着目しておきたいのが、息子の「四郎時親」という名乗りである。のちに刑部少輔にまで昇進したことは、曽孫・毛利元春自筆の書状(「毛利元春自筆事書案」)*12によって判明しているが、【史料B】の段階では「四郎」と名乗るのみで無官であったことが分かる。これは元服からさほど経っていなかったためであろう。
従って、【史料B】の段階で、息子の時親は元服適齢の10代前半以上の年齢に達していたと考えられ、親子の年齢差を考慮して父である経光は30代以上の年齢であったと推測される。逆算すると生年は1240年より前となる。
以上の考察により、経光の生年は1228~1240年の間(=およそ1230年代)と推定される。
烏帽子親の推定
『吾妻鏡』寛元4(1246)年7月11日条に「毛利蔵人経光」とあるのが確認でき*13、これが史料における初見であろう。この時既に10代前半の適齢を迎えて元服を済ませていたことになるから、1230年代前半には生まれていたと考えるのが妥当であろう。
そして、その数ヶ月前にあたる『吾妻鏡』同年3月23日条にある通り、同日まで「武州」=武蔵守・北条経時が4代執権の座にあり、その「経」の偏諱が許されていたことが窺える。この字は元々経時が第4代将軍・九条頼経から拝領したものであるが、この頼経から直接賜った可能性も否定はできない。では経光に1字を与えたのは頼経、経時のいずれであったか。
前述の『江氏家譜』経光項の注記を改めて見ると、概要は次の通りである*14。
- 「泰村一乱(=宝治合戦)」の時、越後国に在国して謀反に与しなかったとして、同国佐橋荘南条と安芸国吉田荘などの所領を安堵された。
- 『東鑑(=吾妻鏡)』によると、寛元4年 翌年宝治に改元 7月11日頼経帰洛の際の供奉人に「毛利蔵人経光」とある。
- 宝治合戦で父・西阿(季光)が自害した時、幼年の遺児「文殊丸」が北条氏に生け捕りにされ、これが成長して経光になったとする説があるが、2.により異説である。
2.については前述の通りで、1.についても【史料B】で経光(寂仏)から時親へ同地が譲られていることから裏付けられよう*15。よって、2.と矛盾する3.の説はやはり誤伝と考えられるが、これがかえって、宝治年間当時経光が元服からさほど経っていない若年であったことの証左になり得るのではないか。
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ここで、三兄である毛利泰光の名乗りにも着目したい。「光」は親子間、兄弟間で共有される通字であり、年代からしても「泰」は3代執権・北条泰時から拝領した可能性が十分に考えられる(上記記事参照)。従って、当時の将軍・頼経ではなく執権の泰時を烏帽子親とした泰光に対し、弟の経光が将軍から一字を拝領するというのは不自然に感じざるを得ない。よって、経光の烏帽子親は4代執権・北条経時と判断され、その執権期間(1242~1246年)*16内の元服であったと推測される。恐らく1230年代初頭の生まれで、執権となったばかりの経時から一字を拝領したのであろう。
毛利師雄について
ところで、『尊卑分脈』等の系図では経光の弟に「師雄(もろかつ?)」の記載が見られるが、下に示す通り一部の系図では経光が師雄の改名後の名前で同一人物とするものがある。
これについては、佐々木紀一氏の研究*17に詳しく、前述の通り宝治合戦で処罰を免れていることから、当初は大江広元の子孫と縁戚関係にあって「師」を通字とする外記・中原氏に養子入りしていたのではないかとする説を掲げておられる。師雄は複数の系図で季光の息子として載せられ、兄弟間で一人だけ「光」字を持たない理由を考えても妥当な想定だと思う。少なくとも、経光と同人か否かに拘わらず季光の庶子に中原師雄という人物がいた可能性は高いのではないか。
そもそも師雄=経光とされるのは、上記系図に明記されるだけが理由ではない。『尊卑分脈』において、経光の後に「基親―時元」、師雄の後に「元親―時元」と、同じ諱を持つ親子(基親と元親はともに読みが「もとちか」)が存在していたことになっているのに対し、天文本系図での元親の「法名仙仏」と『毛利家系図』と前田・長井両本の系図での基頼(改め基親)の法名「瞻仏」がいずれも「せんぶつ」と読め、永正・天文両本系図では「師雄―元親―時元」のみの記載であることから、基親流と元親流を重複とみなして一方を省いたとみられる系図が幾つか存在することもその根拠とされている。
勿論、これらの情報は系図独自の情報であり、その扱いには注意せねばならない。
経光の長男・基頼(のち基親)の名乗りである。基頼については前述の『門司氏系図』と『毛利家系図』にも掲載されている*18ほか、『尊卑分脈』でも経光の子・基親の「親」に対するものであろう、「本 頼」の注記がある。のちに大江氏にゆかりの「親」字*19によって基親と改名したとみられるが、毛利氏一門で「頼」字を用いたのは基頼(基親)だけであり、基親の弟・時親や、子・時元に北条氏の通字「時」が許された形跡が見られることから、これは5代執権・北条時頼(経時の弟)からの偏諱ではないかと推測される。
もしそうであれば基頼は時頼執権期間(1246~1256年)*20に元服した筈であり、親子の年齢差を考慮すれば父である経光の生年を遡らせる必要が生じると思うが、それでも経時から偏諱を受けたのだとすれば、"改名" しか考えられないだろう*21。毛利季光の末子は当初中原氏に養子入りして中原師雄と名乗ったが、間もなく何かしらの事情でそれが解消され、実家の毛利氏に戻って改名した可能性を考えても良いのだろう(但し、経時から1字を受けているから、宝治合戦で季光や兄たちが滅んだのに伴うものでないことには注意である)。
(参考ページ)
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.141「毛利季光」の項。毛利季光(もうり すえみつ)とは - コトバンク。毛利季光 - Wikipedia。
*2:季光の法名が「西阿」であることは『尊卑分脈』(→『大日本史料』5-2 P.657)のほか、『吾妻鏡』天福元(1233)年11月3日条や『関東評定衆伝』同年条にも「蔵人大夫入道大江季光法師、法名西阿、」(→『大日本史料』5-9 P.304)とあることから裏付けられる。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:『大日本史料』5-12 P.558。『諸家系図纂』所収「北条系図」(P.24)。
*6:三浦泰村 - Henkipedia 参照。
*7:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号。『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。
*8:『大日本史料』5-22 P.156。『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。
*9:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号。『大日本史料』6-3 P.46。
*10:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション。尚、本項での『尊卑分脈』は全てこれに拠ったものとする。
*11:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション。毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク。毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク。
*12:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.18~ 一五号。
*13:複数の写本が伝わる『吾妻鏡』の中で、島津本では「毛利蔵人経正」とする(→『大日本史料』5-20 P.355)が、北条本によって「毛利蔵人経光」の誤記と推察される。尚、最善本とされる吉川本では寛元4年の部分が欠損しているが、この補充に北条本が用いられており(→ 吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション)、比較的正確性が高いことの証左になるだろう。
*15:上杉和彦「日本中世の伝承と相模国毛利荘」(所収:『文化継承学論集』第3巻、明治大学、2007年)P.107(55) 注(8)。
*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*17:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.11、P.17注(14)。
*18:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.8~9。
*19:一族における例としては、大江広元の兄とされ、摂津高親が祖先と仰ぐ中原親能や、広元の長男で源通親の猶子となったとされる大江親広が挙げられる。尚、この字は鎌倉後半期の安芸毛利氏(時親―貞親―親衡)でも用いられている。
*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*21:北条氏得宗からの一字拝領は元服時に限らず、改名によって賜った例としては足利頼氏(初め利氏)や大友頼泰(初め泰直)などが挙げられる。