Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

上山泰経

上山 泰経(かみやま やすつね、生年不詳(1220年代前半?)~1256年)は、鎌倉時代前期の武将。長井時広の3男で長井泰経(ながい ー)とも。

娘が長井茂重(もちしげ)に嫁ぎ、その間に生まれた上山宗元が泰経の名跡を継いだ。

 

まずは、次の系図3種をご覧いただきたい。 

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A.『那波系図』新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)より

B.『毛利家系図』国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本)より

C.『尊卑分脈』吉川弘文館刊「国史大系」本)より

 

系図Cを見ると、泰経に「上山(=上山氏)」との注記があり、同じ「上山」の注記が宗元の項にもある。

また系図Bを見ると、泰経が「上山と号し」、その娘が丹後守茂重に嫁いで修理亮宗元の母になったとある。佐々木紀一は、系図Bの他に永正本系図でも泰経の娘に「因幡二郎茂重妻」の注記が見られるから、茂重―宗元(宗光とも)の父子関係が認められるとし、Bにおいて(縦書きで)運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、A・Cで系線の引き間違えが生じてしまったのではないかと説かれている*1が、筆者も同意である。

従って、長井氏の分家として時広の庶子・泰経が上山氏を立てたが、男子に恵まれなかったためか、外孫(娘の子)である宗元がその名跡を継いだと考えれば、系図Cで泰経・宗元双方に「上山」の注記があるのにも頷ける。 

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ここで次の史料を見ておきたい。

【史料D】『福原家譜』8巻 より

長井  上山

泰経 三郎蔵人 後胄繁昌

備後国世良郡上山郷、因号上山、以後数代茲住

建長八年丙辰五月八日、於遠州菊川戦死、

ここには、備後国世羅郡上山郷(現・広島県三次市三和町付近)を領したのに因んで「上山」を称したと書かれている*2備後国は長井氏六波羅評定衆(時広―泰重頼重貞重が代々守護を務めていた国であり*3、泰経は次兄・泰重から上山郷の領地を与えられていたのであろう。 

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『萩藩閥閲録』所収の上山氏系図*4を見ると、系譜が「泰重―泰経―頼重」と父子関係で繋いでいくのと矛盾しながらも、泰経の項に「勤甥頼重陣代」との注記が見られる。「陣代」とは、主君が幼少のとき、家族または老臣などで軍務・政務のすべてを統括した者 の意味であり*5、泰重が亡くなった時に頼重が若年であったため、泰経が事実上家督を代行する役割を担ったのであろう。 

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但し【史料D】に戻ると、建長8(1256)年5月8日に遠江国菊川において戦死したとの記載がある。当時甥の頼重は10代前半くらいと推定され、これだけだと確かに泰経が「陣代」を務める条件は満たしてみると思うが、この頃頼重の父・泰重もまだ存命だったようであり、また菊川での合戦がどのようなものであったかについて他の現存史料で裏付けることも困難なため、『福原家譜』・『萩藩閥閲録』各々の情報は検討の余地を残していると言えよう。

 

最後に生年と烏帽子親についての考察をする。

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こちら▲の記事で、外孫の宗元を1260年代後半の生まれと推定した。従って、祖父―孫の年齢差を考慮すれば、泰経の生年は遅くとも1220年代後半と推測可能である。

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次兄の泰重が1220年頃の生まれであることはこちら▲の記事で述べた通りなので、泰経が1220年代生まれであることはほぼ確実と言って良いだろう北条泰時執権期間(1224年~1242年)*6内の元服であることも認められ、「」の字は兄の泰秀・泰重らに同じく時を直接烏帽子親として偏諱を賜ったものと判断される。 

 

脚注