Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井頼重

長井 頼重(ながい よりしげ、1243年頃?~没年不詳(1295年頃?)) は、鎌倉時代中・後期の人物、御家人。長井氏庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の第2代当主。

 

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こちら▲の記事で、父・泰重の生年が1220年頃であることを紹介した。よって親子の年齢差を考慮すると早くとも1240年頃の生まれとなる。 

 

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また、こちら▲の記事で紹介の通り、嫡男・貞重については1272年生まれであることが判明している。こちらも親子の年齢差を考慮すれば、頼重は遅くとも1252年頃に生まれているはずである。

 

以上より頼重の生年は1240年~1252年の間と推定される。これを踏まえた上で、史料上での登場箇所を見ていこう。

 

建治3(1277)年のものとされる『摂津勝尾寺文書』所収の書状2通

11月25日付「近衛家御教書」に「長井左衛門大夫殿*1

11月29日付「長井頼重施行状」に「頼重(花押)」の署名*2

 

弘安4(1281)年2月日付「東大寺学侶等申状土代」(『東京大学文学部所蔵文書』)*3に「長井因幡」。

 

この頃に、父・泰重が没したためか、その嫡男である頼重の活動が見られるようになる。生前泰重は、正嘉元(1257)年には「長井因幡前司泰重」と呼ばれ、因幡守を辞したことが確認できる*4ので、弘安4年書状における「長井因幡」が泰重でないことは明らかで、翌弘安5(1282)年、南都(興福寺)の強訴により越後国に配流されたことを伝える次の史料群と照らし合わせれば、父と同じ官職に就いた頼重に比定される。

 

 『勘仲記』弘安5年12月6日条:「…伝聞、因幡守頼重、弾正忠職直(もとなお?、姓氏不詳)可被流罪之由、関東下知武家云々、…」*5

『一代要記』弘安5年12月14日条:「十二月十四日依南都訴訟嗷嗷因幡守頼重配流越後国*6

『弘安五年御進発日記』:「……頼重・職直罪科事、任申請処流刑云々、…同礼紙状云、配流国、頼重越後、・職直土左〔佐〕如此候也、…」*7

『祐春記』弘安5年8月12日条に引用の「亀山上皇院宣*8

院宣案文

興福寺訴訟間事、大隅・薪両庄之界〔堺〕連々確論、度々珍事、職而由斯、仍云大隅庄云薪園、以関東一円之地、〔共脱カ〕可被立替、可為永代静座神木、可遂行寺社仏神事之由、可有御下知之旨、謐之基歟、頼重・職直罪科事、任申請処流刑云々、此上不日奉帰院宣所候也、以此趣可被申関白殿之状、如件、
  十二月七日 権大納言経任

 権右中弁殿
 追申、配流国、頼重越後、職直、土左〔同前〕如此候也、

 

徳治3(1308)年5月日付「興福寺奏状」弘安度*9

弘安四年十月四日御入洛、初着御稲荷宮、後遷御法城寺、是大隅・薪園両庄堺相論事也、武士奉防御示、神木令触穢給、衆徒・神人被疵失命、或児童被面縛、或僧綱及恥辱、粗検其凶悪、相同今度儀、仍致狼籍之輩、佐藤四郎兵衛尉同五年正月晦日・恩〔岡〕田四郎左衛門尉同二月七日、・阿〔河〕原口入道同八日、・三浦介十郎*10同十四日、・宗像四郎兵衛尉、同日、以上五人不知実名、神罰トコロニ死已〔亡〕畢、然間関東御使上洛、委被執申 公家、於相論之堺者、任申請預裁許、於濫吹之輩者、殊有沙汰、被処遠流、頼重越後、・職直、土佐〔同前〕仍同五年十二月廿一日御帰坐、

 

従って、「左衛門大夫」であった頼重の因幡任官は1277~80年頃であったと考えられるので、その頃、国守任官に相応の30代には達していたと推測できる。

 

ここで、あわせて「真言宗全書」に所収の次の史料2点も確認しておきたい*11

『血脈類集記』: (裏書)「覚雅法印 運雅僧都因幡

『野沢血脈集』:「第二十六 覚雅 号蓮蔵院法印、俗姓大納言雅忠ノ猶子。因幡前司大江頼重子……寛元元年誕……正応五年八月二十一日入滅五十歳」

尊卑分脈』には頼重の子(貞重の弟)運雅(うんが)が載せられており、①の「因幡守」は頼重に比定される。一方②では、運雅を弟子とした覚雅(かくが)も頼重の子とするが、『尊卑分脈』や年代的な観点から「頼重」は「泰重」の誤りとされる。しかしそのように混同されること自体が、頼重が父と同じ因幡守となったことの証左とも捉えられよう。

従って覚雅は、頼重にとっては兄弟ということになるが、②には寛元元(1243)年に生まれたとの記載があり、正応5(1292)年に50歳(数え年)で亡くなったという記述との整合性も問題ない。頼重も覚雅と同じ頃に生まれたと仮定すれば、前述の因幡守任官時期には30代となる

また「」の名乗りは、北条時を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと推測されている*12が、覚雅と同時期の生まれとすれば、元服は通常10~15歳程度で行われたので、時頼執権期 (在職:1246~1256年)*13元服となり、この観点からも生年が裏付けられよう。

 

弘安8(1285)年12月のものとされる「但馬国太田文」(『中野栄夫氏校訂本』)において朝倉庄の地頭として「長井因幡入道実円」の掲載があり*14、翌9(1286)年閏12月28日付「六波羅施行状」(『高野山文書宝簡集』七)*15にも同名の記載が見られるが、出家した頼重であろう*16。時期からすると、弘安7(1284)年4月の得宗北条時宗(時頼の子、8代執権)逝去に伴って出家したのかもしれない。

 

(参考記事)

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▲少し後の弘安11(1288)年に因幡守在任が確認できる。

 

以後の活動は没年も含め不明であるが、永仁3(1295)年には嫡男・貞重の活動が初めて確認でき、徳治2(1307)年には縫殿頭に昇進した貞重が書状を発給している(▼下記記事参照)ことから、この頃に頼重の死に伴う貞重の家督継承があったものと思われる。

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(参考ページ)

ja.wikipedia.org

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第17巻12921号。

*2:『鎌倉遺文』第17巻12926号。

*3:『鎌倉遺文』第19巻14260号。『大日本古文書』家わけ第十八「東大寺文書別集一」六七号

*4:『経俊卿記』正嘉元年5月11日条。

*5:勘仲記. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*6:一代要記 10巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ より。

*7:藤原重雄「史料紹介 春日大社所蔵『弘安五年御進発日記』(下)」P.101(1ページ目)。

*8: 『鎌倉遺文』第19巻14751号。前注藤原氏論文 P.108。

*9:前注藤原氏論文 P.109。千鳥家蔵『春日神主祐賢〔ママ〕記』(東京大学史料編纂所所蔵影写本)にもほぼ同文が収録。

*10:「三浦介」の「十郎(10男)」を表す通称名であり、父親である「三浦介」は三浦頼盛またはその子・時明に比定される。但し正応3(1290)年には「三浦介入道」を称する頼盛(→ 三浦頼盛 - Henkipedia 参照)がこの頃既に出家していた可能性もあり、その場合後者の可能性が高くなる。

*11:この部分については、服部英雄『景観にさぐる中世 変貌する村の姿と荘園史研究』(新人物往来社、1995年)P.418 参照。

*12:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*14:『鎌倉遺文』第21巻15774号。

*15:『鎌倉遺文』第21巻16131号。『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.87 九三号

*16:朝倉城 旧養父郡八鹿町 | 山城攻略日記 より。