Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉時秀

千葉 時秀(ちば ときひで、1215年頃?~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。祖父の千葉常秀が上総国山辺郡堺郷を領したことから、上総時秀(かずさ ー)、堺時秀/時秀(さかい ー)とも呼ばれる。通称は上総式部丞、上総式部大夫。

父は千葉秀胤。「千葉大系図」によると母は北条時房の娘であるという*1

 

 

関連史料の紹介

まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。

 

【表A】『吾妻鏡』での時秀の登場箇所*2

月日 表記 備考
仁治2(1241) 8.15 上総式部丞時秀 式部丞は六位相当*3
11.4 上総式部大夫 式部大夫という呼称から、式部丞で五位に叙せられたことが分かる*4
寛元元(1243) 7.17 上総式部大夫  
寛元3(1245) 8.15 上総式部大夫時秀  
8.16 上総式部大夫  
寛元4(1246) 8.15 上総式部大夫  
宝治元(1247) 6.7 上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀 【史料B
6.22 上総権介秀胤 同子息式部大夫時秀 【史料C

 

【史料B】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月7日条*5より一部抜粋

……上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、……各自殺。……

 

【史料C】『吾妻鏡』宝治元年6月22日条*6より一部抜粋

廿二日、癸卯、去五日合戦亡帥以下交名、為宗分日来注之、今日於御寄合座及披露云々

自殺討死等

(中略)

上総権介秀胤 同子息式部大夫時秀

同修理亮政秀 同五郎左衛門尉泰秀

同六郎秀景〔景秀〕

……(以下略)

 

上記史料2点は宝治合戦の際、一家で三浦方について共に滅んだことを伝えるものであるが、次の史料にも同様の記載が見られる。

【史料E】『関東評定衆伝』寛元4(1246)年条より、千葉秀胤の項*7

上総権介平秀胤 六月除評定衆

下総前司常秀男、〻任上総権介、仁治二年十一月十日叙爵(=従五位下、寛元元年閏七月廿七日叙従五位上、宝治元年六月於上総国被誅、子息従五位上式部大夫時秀、修理亮政秀、五郎左衛門尉泰秀、一説秀綱、六郎秀景〔景秀〕等伏誅

 

 

生年と烏帽子親についての考察

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こちら▲の記事で紹介の通り、『吾妻鏡』宝治元年6月11日条より、弟・泰秀が当時、妻である東胤行入道素暹の娘との間に子供が生まれる位の年齢=およそ20歳以上であったと推測可能で、【史料B】・【史料D】を見ると、秀胤の息子たちの中で一番末(4男)の景秀(秀景)だけが無官で「六郎」を称していたことが分かるが、これは景秀自身が元服からさほど経っていなかったためと考えられ、10代~20歳程度と若い年齢であったと推測されるので、長兄である時秀も20代以上には達していたことになる

 

これを裏付けるべく、不明である父・秀胤の生年の推察からアプローチしてみよう。 

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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督嫡流家当主)は次の通りである。 

 [参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年

 *( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。

 ● 千葉常胤(千葉介)

1118年~1201年(84)  …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より

 ● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)

1136年~1202年(67) …『本土寺過去帳』より

 ● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)

1155年~1218年

 …生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より

 ● 千葉胤綱(千葉介)

1198年~1228年(31)  …『本土寺過去帳』より

  千葉時胤(千葉介)

1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より

 

祖父(秀胤の父)千葉常秀もまた生年不詳だが、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*81170年頃の生まれと推定される。

すると、その長男・秀胤*9の生年も1190年以後であったと推定可能である。『吾妻鏡』では、仁治元(1240)年8月2日条にある「上総権介」が初出とされる*10が、同記事には「上総五郎左衛門尉」=泰秀も登場しており、【表A】で示した通り、翌2(1241)年8月15日条には時秀も「上総式部丞時秀」の名で登場するので、仁治年間当時、秀胤が上総権介であったことは間違いないだろう。

すなわちその当時、時秀・泰秀は若くとも20代には達していたと判断できるので、親子の年齢差を考慮すれば秀胤は40代以上であったと推測できよう。秀胤は1190~1200年代、時秀・泰秀兄弟は1210~1220年代生まれの世代であったと分かる。

 

この秀・秀兄弟の実名に着目すると、「秀」が常秀―秀胤と継承された通字であるから、それに対して上(1文字目)に置かれる「」や「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。これは元服当時の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*11偏諱であろう。 泰時が亡くなる前年の段階で弟の泰秀が既に左衛門尉任官済みであったから、その元服は1230年代後半で、元服は多く10~15歳の頃で行われたから、逆算して1220年頃の生まれとするのが妥当と思われる。

従って、長兄である時秀の生年はこれを更に遡ることになるが、1224年以降に執権となった泰時から「時」字を拝領したと考えるのが自然であろうから、前述の内容も踏まえれば1210年代半ば以後とするのが良いだろう。冒頭で示したように母が北条時房(1175-1240)*12の娘と伝えられることがその裏付けになるだろう。外祖父―外孫の年齢差を考慮すれば、時秀の生年はおよそ1215年以後と考えるのが妥当であり、その頃の生まれと推測される。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-22 P.163房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第9巻 系圖・石高帳 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.192「時秀 千葉」の項 より。

*3:式部の丞(しきぶのじょう)とは - コトバンク より

*4:式部の大夫(シキブノタイフ)とは - コトバンク より。

*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*6:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*8:注2『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、嘉禎年間に上総介在任が確認できる。

*9:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)を参照のこと。

*10:注2『吾妻鏡人名索引』P.231「秀胤 千葉」の項より。ちなみに、実名の初出は寛元2年8月15日条「上総権介秀胤」。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*12:北条時房(ほうじょうときふさ)とは - コトバンク より。