千葉時常
千葉 時常(ちば ときつね、1215年頃?~1247年)は、鎌倉時代初期~中期の武将、御家人。下総国埴生荘(現在の千葉県印旛郡一帯)を継いだことから、埴生時常(はぶ ー)とも呼ばれる。通称は上総介次郎、下総次郎、埴生次郎(表記は垣生次郎とも)。
『吾妻鏡』における時常
まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。
年 | 月日 | 表記 |
嘉禎3(1237) | 1.3 | 上総介次郎 |
暦仁元(1238) | 1.1 | 上総介次郎 |
年 | 月日 | 表記 | 史料詳細 |
宝治元(1247) | 6.7 | 下総次郎時常 | 【史料C】 |
6.17 | 埴生次郎 | 【史料D】 | |
6.22 | 埴生次郎時常 | 【史料E】 |
【史料C】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月7日条*3より一部抜粋
……上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、……各自殺。其後数十宇舎屋同時放火、内外猛火混而迸半天。胤氏(=大須賀胤氏)以下郎従等咽其熾勢、還遁避于数十町之外。敢不能獲彼首云々。又下総次郎時常自昨夕入籠此舘、同令自殺。是秀胤舎弟也。相伝亡父下総前司常秀遺領垣生〔埴生〕庄之處、為秀胤被押領之間、年来雖含欝陶、至斯時、並死骸於一席。勇士之所美談也。抑泰村(=三浦泰村)誅罰事、五日午刻、通当国之聴云々。
十七日戊戌、故上総介(=秀胤:「権」脱字か)末子一人 一才、同修理亮(=政秀)子息二人 五才、三才、垣生次郎子息一人 四才、各出来。面々被加検見、人々預守護之。
【史料C】より、下総次郎時常が「秀胤舎弟」にして、父が「下総前司常秀(=前下総守・千葉常秀)」であったことが分かる(通称名は常秀の「次郎(次男)」を表す)。『吾妻鏡人名索引』では時常の登場箇所を【表B】の3箇所のみとするが、【表A】の2箇所にある「上総介次郎」も当時の上総介=常秀*6の次男を表すから時常に比定される。
【史料C】には、父の死後、遺領として継いでいた埴生庄を兄・秀胤に横領されて事実上断交状態にあったが、秀胤一家が討伐を受けた際にはいち早く駆け付け、【史料E】の戦死者リストにも含まれている通り、そのまま彼らと運命を共にしたということが書かれている。【史料D】によれば、時常には4歳(数え年、以下同様)の遺児が一人いたようで、同族でありながら討伐にあたった東胤行の嘆願があって助命されている。
父と兄の世代の推定
次に、時常の生年について推定を試みたいと思うが、その前に父・常秀と兄・秀胤のそれから考察を加えたいと思う。
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
[参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
父の千葉常秀については、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*7。1170年頃の生まれと推定される。
すると、その長男である兄・秀胤*8の生年も1190年以後と推定可能であるが、下記記事で述べたように息子の時秀・泰秀兄弟が1210~1220年代に生まれたと推測されるから、1200年頃までに生まれたと考えられる。
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以上より、「秀胤舎弟」である時常は早くとも1190年代、或いはそれより後1200年代の生まれであった可能性が高い。そして前節の【史料D】より、亡くなった宝治元年当時4歳の遺児がいた(逆算すると1244年生まれ)ことから、時常は若くとも20代後半の年齢には達していたと考えるのが妥当で、1220年頃までには生まれていたとも推測できよう。但し、これを大幅に遡れば親子間の年齢差も大きく離れてしまうため、1210年代の生まれとするのが現実的ではないかと思われる。この裏付けとして次節では通称(呼称)や官職に着目してみたい。
生年と烏帽子親の推定
冒頭の史料に示したように、時常は亡くなるまで「次郎」と呼ばれ、無官であったことが窺える。前述の通り、父・常秀は20歳位で左兵衛尉(七位相当)*9となっており、兄・秀胤も20歳位で叙爵(従五位下)して上総権介に任ぜられ、数年で従五位上に昇っている。更に前掲【史料C】~【史料E】からは、宝治元年当時、甥にあたる秀胤の息子たちも概ね20歳以上には達して官職を得ていたことが窺える。
常秀が官職の面で兄・成胤(千葉介=下総介)を超えて下総守や上総介に任ぜられ、秀胤も幕府の評定衆に加えられるなど、常秀の系統(上総千葉氏)は宗家を凌ぐ地位を誇っていたと言えよう。しかしその割に時常は宝治元年の段階で何の官職を得ていない。
勿論、秀胤に対する庶子ゆえに同様の昇進が叶うとも思えないが、もし秀胤と年の離れていない弟であれば、宝治元年当時40~50代となり、せめて父・常秀がなった左兵衛尉など官位が低めの官職を得ても良いような気がする。
従って、官職を得ていない理由の一つとして考えられるのが年齢の若さである。前節で【史料D】にある遺児との年齢差を考えた時、1210年代の生まれとするのが妥当であるとしたが、初見の嘉禎3年当時、元服からさほど経っていない20代で「上総介次郎」を称していたのであれば、納得がいくだろう。
以上の考察により、時常は秀胤とは年の離れた弟で、むしろ甥にあたる秀胤の息子たちと近い世代の人物であったと推測される。ここでは暫定的に1210年代半ば頃の生まれと推定しておく。
また、ここで「時常」という実名に着目すると、「常」が常秀から継承した字*10であるから、既にご指摘があるように、上(1文字目)に置かれる「時」は北条氏を烏帽子親として付けられたものと考えられよう*11。北条泰時(在職:1224年~1242年)*12が元服当時の執権であった可能性が高く、その偏諱と推定しておきたいが、北条氏一門の他系統の者から受けた可能性も否めないので、これについては検討の余地を残している。
(参考ページ)
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.475(通称・異称索引)より。
*2:前注『吾妻鏡人名索引』P.194「時常 垣生(千葉)」の項 より。
*3:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:注1『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項 より。
*7:注1『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、前注で述べた通り嘉禎年間に上総介在任が確認できる。
*8:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*9:左兵衛の尉とは - コトバンク より。
*10:この字については、かつて房総平氏の惣領であった上総広常(平広常)が有していた上総権介の地位及びその所領を継承した常秀が、千葉氏の通字「胤」を用いず、房総平氏の通字「常」を継承したという見方がある(→ 境氏 - Wikipedia)が、単に存命であった祖父・千葉常胤から受けた可能性もある。時常はこの字を継承したが、跡を継いだ兄・秀胤は宗家への対抗意識からか、むしろ「胤」を用いており、その息子たちは「常秀―秀胤」と続いた「秀」を有していて、上総千葉氏において「常」という字はさほど重要性を帯びていなかったように思われる。