Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井高秀

長井 高秀(ながい たかひで、1305年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人。通称は治部少輔。

 

まずは、細川重男がまとめられた経歴表*1を紹介しよう。

 

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№138 長井高秀
  系譜・生没年未詳
  治部少輔(金文443)
01:元徳元(1329).    東使
 [典拠]
01:金文443。「治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉。貞重以下一門、定もてなし候らんと覚候」とあり、高秀は六波羅評定衆長井貞重の一族であり、上洛したことがわかる。よって、高秀は系譜未詳であるが、長井氏で鎌倉在住ということになり、長井関東評定衆家の人と推定される。

 

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細川氏より前にも小泉宜右が同様の見解を示されていること*2からも、高秀が長井氏であることは先行研究での共通認識になっていると言えよう。小泉氏や『鎌倉遺文』によると、長井高秀の登場箇所は次の通りである。

(元亨4(1324)年*3:「……禁裏高秀帰参之時、……」

(嘉暦2(1327)年*4:「……治部少輔上洛之後、……」

元徳元(1329)年10月28日付*5:「……治部少輔……長井一門いかにもてなし候らん

同年11月21日付*6:「……治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉。貞重以下一門、定もてなし候らんと覚候……」(=上記職員表01)

元徳2(1330)年3月*7:「……治部少輔下向之時も、……」

元徳2年)6月9日付「(長井)高秀書状」(『神田孝平所蔵文書』)*8:発給者「高秀」の署名と花押(下写真)

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▲『座間むかしむかし第三集』(座間市教育委員会、1974年)より。

 

『太平記』巻3「笠置軍事陶山小見山夜討事」:元弘元(1331)年の元弘の変(笠置山攻め)に際して上洛した幕府軍の一員に「長井治部少輔」 。

大将軍 大仏陸奥守貞直 大仏遠江 普恩寺相摸守基時 塩田越前守 桜田参河守
赤橋尾張 江馬越前守 糸田左馬頭 印具兵庫助 佐介上総介
名越右馬助 金沢右馬助 遠江左近大夫将監治時 足利治部大輔高氏  
侍大将 長崎四郎左衛門尉        
三浦介入道 武田甲斐次郎左衛門尉 椎名孫八入道 結城上野入道 小山出羽入道
氏家美作守 佐竹上総入道 長沼四郎左衛門入道 土屋安芸権守 那須加賀権守
梶原上野太郎左衛門尉 岩城次郎入道 佐野安房弥太郎 木村次郎左衛門尉 相馬右衛門次郎
南部三郎次郎 毛利丹後前司 那波左近太夫将監 一宮善民部太夫 土肥佐渡前司
宇都宮安芸前司 宇都宮肥後権守 葛西三郎兵衛尉 寒河弥四郎 上野七郎三郎
大内山城前司 長井治部少輔 長井備前太郎 長井因幡民部大輔入道 筑後前司
下総入道 山城左衛門大夫 宇都宮美濃入道 岩崎弾正左衛門尉 高久孫三郎
高久彦三郎 伊達入道 田村刑部大輔入道 入江蒲原一族 横山猪俣両党

(表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借)

 

最後2つを除いては『金沢文庫文書』所収の金沢貞顕の書状であり、貞顕と長井貞秀が従兄弟関係(貞秀の母が金沢実時の娘=貞顕の叔母)にあった関係で親交があった。これらの史料から、鎌倉在住であった高秀が何度も上洛しては鎌倉に下向(帰参)した様子が窺え、東使としての役割を果たしていたと言える。1327年の段階で治部少輔従五位下相当)*9に任官済みであったことも分かるから、叙爵も済ませていたと考えて良いだろう。

高秀については、『尊卑分脈』以下の長井氏の系図類に載せられておらず、その正体は明らかにされていないが、経歴表中の「長井関東評定衆家」は長井泰秀の系統を指すと考えて良いだろう。この系統では、泰秀と宗秀の叙爵年齢が18歳であったことが判明しており、前田治の研究によれば時秀貞秀の叙爵も同年齢であったとされる*10

またこの家系では、泰秀が27歳で甲斐守、時秀が30歳程度で備前守となったことも判明しており、30歳前後で国守に任官できるだけの家格を有していた。霜月騒動の影響を受けたためか、宗秀は国守任官が叶わなかったものの、37歳で出家した後「掃部頭入道」「洒掃禅門」等と呼ばれていることから、出家までに長官級の掃部頭従五位下相当、別称(唐名)は洒掃尹)にまで昇進したことが分かる。その嫡男・貞秀についても30歳手前で早世したので国守にまで昇らなかったものの、26歳頃には長官級の兵庫頭従五位上相当)に昇進していた。従って、高秀にも同様に昇進の可能性は十分あったはずであり、次官級である治部少輔在任当時は20代後半以下であったと推測される。

以上より、高秀は1327年当時18~25歳位であったと推定され、逆算するとおよそ1303~1310年の間の生まれとなる。

 

ここで「」の実名に着目すると、1324年に実名が初出することからしても、最後の得宗北条の14代執権在任期間(1316~1326年)*11内に元服し、その偏諱を許されたことが確実と言えよう。その名乗り方は「秀―秀―秀―秀」という「歴代得宗からの偏諱+通字の秀」の慣例*12に倣ったものと言え、関東評定衆家の人物であった可能性を裏付けるものとなる。

純粋に考えれば貞秀の嫡男とみなすのが妥当だと思うが、その傍証となる史料や系図は確認できない。但し『尊卑分脈』で貞秀の子として書かれる長井挙冬は、鎌倉幕府滅亡前「冬」を称していたことが判明*13していながらその旨系図に記載が無いので、貞秀の他の男子が同様に「高秀」を名乗っていた史実を "抹消" した可能性も否めない。下記記事でも述べるが如く、筆者は鎌倉末期に活動が確認できない長井広秀の改名前と推定するが、これについては後考を俟ちたいところである。

*のちの例ではあるが、『花営三代記』応安6(1373)年12月13日条に「高秀 任大膳大夫元治部少輔」とあり、佐々木(京極)高秀高氏の子)に比定される*14。ちょうど同名でもあるが、治部少輔から大膳大夫に転任し得ることを示すケースにもなっている。すなわち、長井氏の「治部少輔高秀」が「大膳大夫広秀」になる想定も可能なわけである。管見の限り「広秀」の初見は建武元(1334)年と思われ*15、まるで高秀と入れ替わるようにして現れている。

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脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№138-長井高秀 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*2:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.720。

*3:『鎌倉遺文』第37巻28909号。

*4:『鎌倉遺文』第38巻30036号。

*5:『鎌倉遺文』第39巻30765号。

*6:『鎌倉遺文』第39巻30779号。

*7:『鎌倉遺文』第40巻30985号。

*8:『鎌倉遺文』第40巻31062号。

*9:治部の少輔(じぶのしょう)とは - コトバンク より。

*10:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1 註釈(8)。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.226

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*12:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16。

*13:注2前掲小泉氏論文 P.719。前注紺戸氏論文 P.16、P.26脚注(8)。

*14:『花営三代記』翌応安7(1374)年正月10日条に「佐々木大膳大夫高秀」とある。

*15:同年正月付「関東廂番定書写」(→『大日本史料』6-1 P.421~423)および『鎌倉遺文』第42巻32865号「雑訴決断所沙汰定条書」(いずれも『建武年間記』より)、『鎌倉大日記』同年条。