Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】鎌倉時代における三浦氏の官職任官年齢について

 

はじめに

三浦氏(みうら-し)は、坂東八平氏の一つで、相模国三浦郡を本拠地とする武家である。鎌倉幕府初期においては執権・北条氏と並ぶ有力御家人となっていたが、1247年の宝治合戦嫡流三浦泰村らが滅ぼされて弱体化。戦後、庶流から泰村の甥(姉・矢部禅尼の子)でもある三浦盛時により「三浦介」家が再興されたが、事実上得宗被官化していて地位が下がっていたためか、盛時以降の歴代三浦介(家督)については残された史料が少なく、生没年も未詳である。

一方、左衛門尉や「○○守」などの官職を得るには、各家柄に応じてそれ相応の年齢に達していることが条件の傾向にあったことも近年明らかにされている。

 

そこで本項では、鎌倉時代初期の三浦氏一門から、生年ないしはおおよその世代が分かる人物をピックアップして、その官途や任官年齢の傾向について考察し、鎌倉時代後半の「三浦介」家歴代当主についても世代の推定を試みたいと思う。

 

三浦義村の子息の官職歴

鎌倉時代初期において、三浦氏嫡流家の政治的地位を向上させ、三浦一族の最盛期を築いたのが三浦義村である*1。義村については次節で触れるが、その息子たちについては概ね生年や世代が判明している。それぞれについて官途と任官年齢を調べていくこととする。

 

三浦泰村

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次男・泰村元久元(1204)年生まれで、嘉禎3(1237)年までは無官で「(三浦)駿河次郎*2」などと呼ばれていたが、同年34歳にして掃部権助→式部少丞→若狭守と一気に昇進しており*3、『吾妻鏡』でもその時期に対応して表記が変化している*4

時期

表記

(下記以前)

駿河次郎泰村

嘉禎3(1237)年10月19日条~

駿河掃部権助泰村

同年11月17日条~

駿河式部丞泰村

暦仁元(1238)年正月1日条~

若狭守泰村

仁治元(1240)年4月12日条~

若狭前司泰村

 

三浦光村

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3男・光村元久2(1205)年生まれで泰村の1歳下の弟である。初任官は27歳となった寛喜3(1231)年に左衛門尉となった時で泰村より早かった。嘉禎3年に33歳で壱岐守、翌年には河内守、仁治2(1241)年37歳の時に能登守を歴任している*5。3代執権・北条泰時と烏帽子親子関係にあった兄・泰村と異なり、光村は幼少の頃からの4代将軍・九条頼経に近侍していたため、兄よりも早く官職に推挙されていたのかもしれない。

時期

主な表記

(下記以前)

駒若丸、駿河三郎光村

寛喜3(1231)年4月29日条~

新判官光村

同年8月15日条~

駿河判官光村

嘉禎元(1235)年2月9日条~

駿河大夫判官*6

嘉禎3(1237)年3月8日条~

壱岐守光村

暦仁元(1238)年6月5日条~

河内守光村

仁治2(1241)年8月25日条~

能登守光村

寛元元(1243)年8月16日条~

能登前司光村

 

三浦家村

家村(いえむら)以下、泰村・光村の弟たちについては基本的に生年不詳だが、1206年以後であることは確実となるので、おおよその年齢は予測できよう。

『吾妻鏡』嘉禎3年8月15日条に「(駿河前司〔=義村、以下同じ〕四男家村」と書かれ、輩行順通りの「四郎」を称した。『吾妻鏡』での表記の変化は次の通りである。

時期

主な表記

貞応元(1222)年7月3日条~

駿河四郎家村

貞永元(1232)年7月15日条~

駿河四郎左衛門尉*7

仁治2(1241)年8月11日条~

駿河四郎 式部丞 家村

同年8月25日条~

駿河式部大夫家村

前述のように、左衛門尉は三兄・光村が27歳で、式部丞は次兄・泰村が34歳で得た官職である。家村が左衛門尉となってから、式部丞に昇進するまで9年かかっているので、20代半ば位で左衛門尉、30代半ば程で式部丞になったと考えて良いだろう。

仮に25歳で左衛門尉、泰村と同じ34歳で式部丞になったとすると、初見時15歳というのは元服したばかりの年齢としては十分適切で、光村より後の1208年頃の生まれと推定可能である。

更に、『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での三浦氏一門戦死者の中の「駿河式部三郎」は、「存亡不審(=行方不明)」の「駿河式部大夫家村」の息子とみられ、その通称名からして、元服済みで、若くとも10代半ばであったと考えられるから、前述の生年推定に基づいて当時40歳であった家村との年齢差の面でも問題はない。

ここで『佐野本 三浦系図』と照合すると、「三浦式部大輔〔ママ〕」と記される家村の息子・義行(母は島津忠時の娘)が恐らく「駿河式部三郎」のことで、家村の注記には、宝治合戦で敗れ鎌倉を退去した時40歳とあって*8、ここまでの考察が裏付けられよう。

 

三浦資村

資村(すけむら)は、前述の『吾妻鏡』嘉禎3年8月15日条に「(駿河前司)五男資村」とあり、家村に次ぐ男子として「五郎」を称した。

吾妻鏡』での初見は、文暦元(1234)年7月26日条「駿河五郎左衛門尉」で*9この時までの左衛門尉任官が確認できる。同年に任官したとして、当時の年齢が家村と同様に25歳であったと仮定すれば、1210年生まれと推定可能で、家村より後に生まれたことになる条件を満たす。

『佐野本 三浦系図』には宝治合戦当時38歳だったとあり*10、逆算すると1210年生まれとなって裏付けられよう。

 

三浦胤村

胤村(たねむら)の仮名は「八郎」であったが、先の『吾妻鏡』嘉禎3年8月15日条には「(駿河前司)六男胤村」とあり、資村に次ぐ男子であった可能性がある。父・義村(平六)と同じ「六郎」を避けたのかもしれない。実名の「胤」の字は、叔父(義村の弟)三浦胤義が用いた前例もあったが、共に「胤」を通字とする千葉氏から受けた可能性が考えられよう。

宝治合戦では父・兄らと異なり助命され、出家し親鸞の弟子となって明空法師になったとされ、生年は1225年であったという*11。『吾妻鏡』での表記の変化は次の通りである。

時期

表記

嘉禎3(1237)年4月22日条~

同(駿河)八郎胤村

同年6月23日条~

同(駿河)八郎左衛門尉*12

宝治元(1247)年6月22日条~

駿河八郎左衛門尉胤村 出家

同年6月28日条~

駿河八郎左衛門尉胤村入道

 

以上のデータにより、次のような傾向が読み取れる。

<三浦氏における任官年齢①>

★左衛門尉 … 25~27歳(20代半ば)

★式部丞 … 34歳(30代半ば)

★国守任官 … 33~37歳(30代半ば)

 

 

三浦義村の生年・官途について

続いて、三浦義村自身について見ていきたい。生年については不詳であるが、近年、仁安3(1168)年という推定が出されている*13

細川重男がまとめられた官職歴*14に従い、各々の任官時の年齢について算出しておこう。

初の任官として、建久元(1190)年12月の源頼朝の上洛に供奉した際に(右)兵衛尉となっており*15、前述の生年に基づくと当時23歳であったことになる。

建暦元(1211)年10月12日、左衛門尉に任官した当時は44歳であったことになる。

 

息子たちに比べ、左衛門尉任官は遅かったものの、父・三浦義澄が54歳で「三浦介」となるまで無官であった(後述参照)ことを考えると、逆に低年齢化していると言える。むしろ初任官が息子たちと同様20代であったことに着目すべきであろう。

義村は承久元(1219)年、52歳で駿河守となったのに対し、前述の通り泰村、光村は30代半ばで国守任官を果たしており、やはりこちらも時代が下るにつれ、低年齢化の傾向にあったことが分かる。

 

 

佐原三兄弟

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こちら▲の記事で紹介の通り、義村の娘・矢部禅尼は最初北条泰時に嫁ぎ、建仁3(1203)年に長男・北条時氏を生んだ*16が、理由は不明ながら後に離縁し、義村の従弟・三浦(佐原)盛連に再嫁し、光盛・盛時・時連を生んだ。

このうち、末子・時連の史料上での初見は『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条佐原四郎(=光連) 同六郎兵衛尉」であり*17、当時兵衛尉に任官済みであったことが分かるが、前述の義村と同様に23歳程度に達していたとすれば、遅くとも1210年頃には生まれていたと推測可能である。よって、兄の光盛・盛時の生年も1204~1210年の間と推定できる。

この推定に従うと、『吾妻鏡』での光盛の初見は嘉禎3(1237)年正月1日条「佐原新左衛門尉(同年6月23日条に「佐原新左衛門尉光盛」とあり)*18、盛時の初見は貞永元(1232)年正月1日条「佐原五郎左衛門尉(次いで同年8月15日条の「(廷尉)盛時」も三浦盛時に比定される)*19であり、各々20代半ばには達しながら左衛門尉に任官済みであったことが分かる。

よって、前述の任官年齢はこの三兄弟ほか佐原氏(佐原流三浦氏)にも適用されると判断できよう。

 

 

"三浦介" について

義村の父・三浦義澄については、1127年生まれで*20、『吾妻鏡』のスタートである治承4(1180)年においては、初め「三浦次郎」と表記されていたものが、同年12月20日条からは「三浦介」と変化している。当時54歳でも無官であったことになるが、同年8月26日の衣笠城合戦で義澄の父・三浦義明が戦死したのに伴って「三浦介」を継いだことが窺える。

 

そもそも「三浦介」は三浦氏宗家に世襲された武家の名誉称号であったが、義明が「三浦大介」を称したことに始まるとされ、その由来は定かではないものの、世襲の官である相模介に任じられたためではないかと考えられている*21。一説には三浦義継(義明の父)の代から称していたとも言われる*22

 

冒頭で前述の通り、三浦泰村らが滅ぼされた後、「三浦介」を称する形で三浦氏宗家を再興したのは三浦盛時である。『吾妻鏡』宝治元(1247)年11月15日条で「三浦五郎左衛門尉盛時」と書かれていたものが、同年12月29日条では「三浦介(翌宝治2年8月15日条に「三浦介盛時」とあり)と表記が変わっており、この間に "三浦介" となったことが窺える*23。前述の生年に基づくと、三浦介となった当時は30代後半~40歳位であったと推測可能である。

ちなみに、建長元(1249)年8月10日付「関東御教書」(『宇都宮文書』)*24では、宛名で「三浦介殿」と記す一方で、文中では「大介」と書いており、特に差異はなく三浦介=三浦大介であったと考えて良いだろう。

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盛時の嫡男・三浦頼盛は、恐らくは5代執権に就任したばかりの北条時頼から偏諱を受けて元服し、『吾妻鏡』ではそれより間もない初見の建長3(1251)年より「三浦介六郎」、正嘉2(1258)年からは「三浦介六郎左衛門尉」、弘長元(1261)年~同3(1263)年の間に就任して「三浦介」と表記が変化している。父・盛時との年齢差を踏まえてもやはり、左衛門尉任官時20代半ばであったと考えられる*25ので、三浦介継承当時20代後半~30歳位であったと導ける。時代が下るにつれ、任官年齢が低下するのは北条氏など他の御家人でも見られた現象で問題は無い。

その後、鎌倉時代後半の三浦氏は「頼盛時明時継高継」と続く。各々、得宗からの偏諱と、祖先を遡る形での1字とにより実名を構成している様子が窺える。

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こちら▲の記事で紹介の通り、特に三浦高継については、建武2(1335)年、足利尊氏から父の刑死に伴う相模国大介職(=三浦介)の継承を認められている*26が、1305年頃には生まれていてその任官に相応しい年齢に達していたからであろう。

各親子間の年齢差から、

三浦時明 の生年 … 1260年頃

三浦時継 の生年 … 1280年代前半

とおおよそで推定可能である。延慶2(1309)年8月24日付「将軍家政所下文」(『宇都宮文書』)の文中に「三浦介時明法師 法名道朝」とあり*27、三浦介任官前後の20代後半であった時継よりも、三浦介を継承した上で出家した時明であるのは辻褄が合っている。

元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要についての記録である『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)を見ると、「三浦介」が「砂金五十両二文目、 銀剱一」を献上しているが、こちらは出家(入道)していないことからしても、『神奈川県史』*28での推定通り時継で間違いない。前述の推定に基づけば、この当時30代後半~40代には達していたことになり、三浦介継承後の年齢として差し支えない。建武元(1334)年4月10日「足利直義下知状」(『宇都宮文書』)には「三浦介時継法師 法名道海」と出家後の呼称で明記されている*29

 

以上より、家督継承のタイミングによって多少の変動はあるだろうが、一応以下のような傾向にあったと考えられる。

<三浦氏における任官年齢②>

★三浦介(相模大介) … 20代後半~30代

 

 

脚注

*1:三浦義村とは - コトバンク より。

*2:駿河」は父・義村が駿河守であったことに因むものである。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.330「泰村 三浦」の項。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その114-三浦光村 | 日本中世史を楽しむ♪

*6:同年6月29日条に「駿河大夫判官光村」とあり。

*7:嘉禎元年6月29日条に「駿河四郎左衛門尉家村」とあり。

*8:『大日本史料』5-22 P.136

*9:吾妻鏡人名索引』P.183~184「資村 三浦」の項より。『吾妻鏡』嘉禎3年4月22日条に「駿河五郎左衛門尉資村」とあり、三浦資村に比定される。

*10:『大日本史料』5-22 P.137

*11:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)―「明空法師像」のページ明空法師像 - 文化遺産オンライン三浦胤村 - Wikipedia

*12:暦仁元(1238)年6月5日条に「同(駿河)八郎左衛門尉胤村」とあり、三浦胤村に比定される。

*13:高橋秀樹 『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)P. 185。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その112-三浦義村 | 日本中世史を楽しむ♪

*15:吾妻鏡』同年12月11日条(→『大日本史料』4-3 P.323)。『関東評定衆伝』では同月14日と記載される。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*17:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.216「時連 佐原(三浦)」の項 より。

*18:吾妻鏡人名索引』P.132「光盛 佐原(三浦)」の項 より。

*19:吾妻鏡人名索引』P.294「盛時 三浦」の項 より。

*20:三浦義澄(みうらよしずみ)とは - コトバンク より。

*21:三浦一族の主な人物・系図|横須賀市三浦氏とは - コトバンク

*22:三浦義継とは - コトバンク より。

*23:千葉氏の一族 #三浦盛時 より。

*24:『大日本史料』5-31 P.101千葉氏の一族 #三浦盛時。『鎌倉遺文』第10巻7106号。

*25:時連の子で頼盛の従兄弟にあたる三浦頼連についても、やはり時頼の加冠により元服したとみられるが、それからさほど経たない建長2(1250)年1月16日条で「遠江十郎頼連」として初めて登場し、同6(1254)年8月15日条までその呼称であったものが、同8(1256)年正月1日条からは「遠江十郎左衛門尉頼連」・「三浦遠江十郎左衛門尉頼連」等と表記が変化している。従って1254~55年の間に左衛門尉任官を果たしたことが分かるが、頼盛の任官時期とほぼ同じくらいのタイミングとなる。よって頼盛・頼連はともに時頼の烏帽子子で、20代半ばで左衛門尉に任官したと考えて良いだろう。

*26:『大日本史料』6-2 P.609

*27:千葉氏の一族 #三浦介時明

*28:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*29:千葉氏の一族 #三浦介時継