Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山貞朝

小山 貞朝(おやま さだとも、1282年~1330年)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人

 

 

生没年について 

貞朝の死去については次の二つが伝わる。

徳治二(1307)― 関東下向之時頓死(『尊卑分脈』小山貞朝項の注記:後掲【系図α】参照)

元徳二(1330)年 十月一日 小山下野前司他界 貞朝 四十九(『常楽記』*1

 

どちらが正しいかを決定づけられる別の史料は見つかっていないが、元亨3(1323)年10月の北条貞時十三回忌法要では「小山下野前司」が銭百貫文を寄進していることが確認でき*2貞朝であるとみられる*3ので、①説は採用し難い。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

*尚、こちら▲の記事で①は父・宗長のことを言っているものではないかと推定した。 

 

よって、正しいと思われる②に従って逆算すると、朝は弘安5(1282)年生まれとなる。1284年に時宗が亡くなってからは子の時が執権職を継いでおり、「」は元服(おおよそ1291~1296年*4にその偏諱を賜ったと考えられるから、問題はないだろう。前述の貞時13回忌法要への参加も、元々烏帽子親子関係が結ばれていたことを窺わせるものである。弟の小山(さだみつ、後掲【系図α】参照)も同様に貞時の烏帽子子であろう。

 

ちなみに、貞朝の死について、小山貞朝 - Wikipedia以下幾つかのWebサイトでは、鎌倉幕府滅亡時の合戦(1333年)で新田義貞軍に属して戦死したとする説も見られる。

しかしながら管見の限り、それを伝える史料は無く、むしろ『太平記』には、同合戦で金沢貞将が "小山判官"こと秀朝(当時は高朝)、および千葉貞胤に敗れたことが記されている*5。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちらの記事▲で紹介した通り、元弘の変(1331年)の折、幕府軍として上洛する中に「小山大夫判官一族」(または「小山判官」)が含まれており、この段階で小山高朝が小山氏を代表する立場にあったことは間違いない。また、建武元(1334)年8月22日付「大膳権大夫某奉書」の端裏書*6には、東茂木保の茂木知貞祐恵への打渡しを「小山下野守」が遂行したとあり、1330年に亡くなった際の最終官途が下野前司(=前下野守)であった貞朝と別人と考えるべきである。

 

従って、前述②(『常楽記』)の通り、1330年に貞朝が亡くなり、子の高朝家督を継いでいたと考えるべきであろう

 

(参考ページ)

南北朝列伝 ー 小山貞朝

 

 

系図での注記について

尊卑分脈』 には、前述の①も含め多くの注記が施されている。

f:id:historyjapan_henki961:20181011174817j:plain

▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*7

 

「為時朝子」(時朝の子と為す)について

小山氏の家職の相伝については紺戸淳の論考*8に詳しく、これに従って解説する。小山氏は下野守護職とともに、承久3(1221)年~建治年間(1275-1277)まで播磨守護職をも所持していたといい、長村の後より2つの系統に分かれて下野・播磨各々の守護職相伝したと考えられている。すなわち、前者を長男・時朝(のち時村)の系統、後者を次男・時長の系統が伝領したという。 

そして紺戸氏は、他の小山氏系図で「宗朝―貞朝」を父子関係として接続していることから、「為宗朝子」の誤記ではないかとし、宗朝の代になって下野守護職を相続する者がいなくなったので、庶流の秀朝を養子に迎えたとする見解を出されている。北条氏得宗家は、自身に対抗し得る勢力を持った幕府創立以来の伝統的な御家人氏族の嫡流との結合のみに一字付与(烏帽子親子関係)を適用していたと説かれ、嫡流を継ぐこととなった宗朝の養嗣子・秀朝は北条時の偏諱を受けて「朝」に改名したのだという。 

 

「本名秀(秀朝)」について

上の【系図α】では、①貞朝の初名、②貞朝の長男、③朝郷 改秀朝 又改朝氏 と、3人の "小山秀朝" がいることになるが、史料における「小山判官秀朝」「小山下野守秀朝」の最終的な名乗りが「秀朝」であったことから、該当し得るのは②だけである。この秀朝は1335年の中先代の乱北条時行の軍勢に攻められて自害したが、『元弘日記 裏書』ではその名を「(藤原) 高朝」とすることから、系図では別々の兄弟とする下野守高朝と秀朝が、改名前と後の同人ですべきであろう。この点については、次の記事にて解説したのであわせて参照していただきたい。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

以上2点についての再考察

まず、管見の限り「宗朝―貞朝」を父子関係とする系図は『諸家系図纂』*9と『系図纂要』が確認できる。ともに江戸時代に成立のものである。しかし、双方はやや異なっており、前者ではこの貞朝の子に貞長・秀政・貞秀・高朝・秀朝を載せる*10のに対し、一方後者においては宗朝の子、貞宗の兄である「貞朝」とは別に、宗長の子にも貞朝を載せているため、同人として扱っていない。

 

但し、貞朝が時朝流の後継者となったことは認められると思う。これには、小山氏代々の通称名が関係する。

系図α】で「五郎」と書かれる時長に対し、その兄・時朝が「四郎」であったことは『吾妻鏡』で確認できる*11。『尊卑分脈』や『吾妻鏡』によれば、「四郎」は政光(小山四郎)―朝政(小四郎)―朝長(又四郎)―長政(四郎)と、本来は代々の長男が名乗ってきた輩行名であった。

系図を見ると、長村*12―時長―宗長と「五郎」を代々の通称にしたことが確認できるが、宗長の子・貞朝(小四郎)以降の小山氏当主は「四郎」を称するようになったことが分かる。わざわざ「為時朝子」と書かれ、「朝」の通字を継承していることからしても、貞朝が時朝の系統に養子入りして「四郎」の通称を引き継いだことが窺えるが、この「四郎」が嫡流継承者代々の通称だったと判断できよう*13(【系図α】を見る限り、貞朝の庶子(高朝/秀朝の弟)小山秀政が「五郎」の仮名を継承しているが、「或宗長子云々」という記載から、形式的に宗長の跡を継いだものと判断される)

その傍証として、宗朝の子・は同じく北条時の偏諱を受けたとみられるのに対し、その子・政秀は北条氏から1字を受けた形跡がない。しかも政秀(藤井政秀)には「藤井」と注記されており、どうやら分家したようである。

対して貞朝の嫡男・朝は北条時の偏諱を受けている*14から、紺戸氏の説に従って嫡流を継承したとみなすことは十分に可能である。

小山貞宗は、元服し息子が生まれているので若くとも20代までは生きたと思われるが、【系図α】において官途などの情報が全く記載されていないことからすると、子供が幼少の間に早世したのかもしれない。但し、政秀が、父・貞宗に代わって後継者となった貞朝から家督を譲られていない(戻されていない)ことからすると、生前貞宗が何かしらの理由で廃嫡されていた可能性も考えられよう鎌倉時代後期には「小山出羽前司」「小山出羽入道円阿」の活動が確認でき*15貞朝への家督継承は、存命であった円阿=出羽守宗朝の同意を得てなされたものと推測される。先に述べた【系図α】での「為朝子」を「為朝子」の誤記とする紺戸氏の見解も、こうした意味合いで妥当な説ではないかと思う。

 

脚注

*1:『編年史料』後醍醐天皇紀・元徳2年 P.25

*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。

*3:松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向 ―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)P.118。湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.11 の手法に基づく。元服の年齢を数え10~15歳とした場合。

*5:太平記』巻10「鎌倉合戦事」文中に「搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て」とあり(→ 「太平記」鎌倉合戦の事(その2) : Santa Lab's Blog)、同巻13「中前代蜂起事」には中先代の乱(1335年)に際して「小山判官秀朝」が自害したことが記されている(→ 「太平記」中前代蜂起の事(その2) : Santa Lab's Blog)。

*6:『栃木県史 史料編中世二』茂木文書 八号。

*7:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.401~402。

*8:注4前掲紺戸氏論文、P.21~22。

*9:注1同箇所。『諸家系図纂』「小山結城」

*10:『大日本史料』6-9 P.886

*11:吾妻鏡』正嘉元(1257)年12月29日条に「小山出羽四郎時朝」とある。

*12:系図α】(『尊卑分脈』)では通称を「四郎」と記載するが、『吾妻鏡』により正しくは「五郎」であったことが分かる。

*13:吾妻鏡』建長4(1252)年7月23日条には「小山五郎左衛門尉時長」の記載が見られ、すると注11での「出羽四郎時朝」よりも先に左衛門尉に任官していたことになる。これを信ずれば官途の面では時長の方が昇進が速かったことになるが、小山時長 - Henkipediaで述べた通り『鎌倉大日記』等に記載の没年および享年から算出すると当時7歳ということになり、再検討を要するところである。

*14:注4前掲紺戸氏論文 P.15系図、市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.96。

*15:注3同箇所 および 南北朝列伝 ー 小山宗朝 より。