葛西高清
葛西 高清(かさい たかきよ、1312年~1365年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけての武将。
系図類によると、葛西貞清の長男。母は長崎円喜の娘。通称および官途は 八郎、左衛門尉、陸奥守、因幡守 と伝わる。
まず、次の系図2種を見ておきたい。
【史料A】『五大院葛西系図』(抄録)より:
【史料B】『中舘葛西系譜』より:
(*いずれも 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用)
注目すべき点として、Bの方では独自の情報として「北条相模守高時授諱字」とあり、高清の「高」が得宗・北条高時からの偏諱であったことが明記されている。
ちなみに、高清以降の当主も足利将軍家から一字拝領したことが明記されている。
● 葛西詮清:「賜将軍権大納言義詮卿諱字」
● 葛西満信:「柳営大相国義満賜諱一字」
嫡男・高清の母について【史料A】では長崎宗資の娘であったといい、【史料B】では宗資の法名を「円喜」と記す。すなわち、得宗被官(御内人)にして、安達時顕(延明)と並ぶ高時政権の最高権力者、長崎円喜の外孫であった可能性が高い。
円喜の俗名については『系図纂要』上で「高綱(長崎高綱)」とあったり*2、近年では「鳥ノ餅ノ日記」(『小笠原礼書』)徳治2(1307)年7月12日条にある「盛宗(長崎左衛門尉盛宗)」が有力とされたり*3する。ただ、「宗資」という名も、息子・高資と「資」の字を共有し、「盛宗」とも恐らくは北条時宗の偏諱である「宗」の字が共通するので、宗資=円喜(盛宗)の可能性は高いのではないかと思う。いずれにせよ、円喜・高資ら長崎氏一族と縁戚関係にあったことは認められよう。この点からも、貞清・高清父子が得宗ないしは得宗被官と深い結び付きがあったことが伺える。
【史料B】の文中「建武二年……十月七日為勲功賞……源中納言顕家卿賜下文」が指すのは恐らく次の書状であろう。
この「葛西陸奥守」が誰なのか、他の史料による裏付けが困難であるため未確定だが、これが高清であればその実在を証明できるものとなる。
その他「因幡守高清」の名が熊谷氏・小野寺氏など他の氏族の古文書にも見えるらしい*4が、まだまだ検討の余地を残している。
(参考ページ)
● 葛西氏系譜の再考
脚注
*1:持信については史料上でその実在が確認できる。次の書状は実名と官途(伯耆守)が確かめられる貴重なものである。
● 文明2(1470)年2月9日付「畠山政長下知状」
*2:【論稿】『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia 参照。
*3:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73。同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。
*4:葛西惣領家別説(盛岡藩葛西家)#葛西高清 の項より。