畠山国氏 (奥州管領)
畠山 国氏(はたけやま くにうじ、1325年頃?~1351年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。室町幕府奥州管領。畠山高国の嫡男。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
『尊卑分脈』を見ると、高国の項に「観応二二十二於奥刕(=奥州)為貞家被討四十七才」と書かれており、その子である国氏の項にも「父同時被討」の注記があって、観応2(1351)年2月12日、奥州に於いて吉良貞家により父と同時に討たれたことが分かる*1。このことは実際の書状類でも確認ができる*2。前述の通り、この時父・高国が享年47(数え年、以下同様)であったというから、親子の年齢差を考えれば国氏はおよそ27歳以下で亡くなったと推測できよう。逆算すると生年は1325年頃以後となる。
畠山国氏に関する史料は多数残されているが、その初見は、貞和元/興国6(1345)年のものとされる7月2日付書状において署名と花押を据えて発給した「中務大輔国氏」とされ*3、この時までに元服を済ませていることが分かる*4。1325年頃の生まれとすれば、この時21歳位となるが、元服を済ませ中務大輔に任官した後の年齢としては、足利氏一門であることも考慮すれば十分妥当だと思う。通常10代前半で行う元服の年次も1330年代後半~1340年頃と推定可能であり、「国氏」の実名に着目すると「国」が畠山泰国以来代々の通字であるから、「氏」の字は1338年に征夷大将軍となって室町幕府を開いた足利尊氏を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと考えて良いだろう。
*高国・国氏父子の自害から3年経った、文和3(1354)年のものとされる5月22日付の書状では、発給者である「平石丸」が自身を「幼少」と言いながら奥州管領としての立場を主張していることが確認でき、これは国氏の遺児であった、のちの畠山国詮(くにあきら)に同定される*5。この点からも国氏の享年が20代半ばであったとするのが妥当である。明徳2(1391)年6月27日付の右京大夫(=伊達政宗とされる)の書状の文中に「畠山修理大夫国詮」とあってこの時までの元服および修理大夫任官が確実なので*6、その実名は2代将軍・足利義詮在職期間(1358年~1367年逝去)に元服してその一字を拝領したものと考えて問題ないだろう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
(参考ページ)
● 二本松畠山年表
脚注
*1:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.270。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション、『大日本史料』6-14 P.729 も参照。
*2:『大日本史料』6-14 P.724~736の各史料を参照のこと。
*4:翌貞和2(1346)年閏9月17日にも「右馬権頭国氏」が奥州管領として「右京大夫貞家(=吉良貞家)」と連名で発給した書状が残っている(→『大日本史料』6-9 P.920)。