Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】鎌倉期常陸小田氏についての一考察

藤原道兼の玄孫(後掲『尊卑分脈』では実は源義朝の子とする)八田知家の子である八田知重(小田知重)を祖とする小田氏(おだし)は、常陸国筑波郡小田邑(現・茨城県つくば市小田)を本拠とした一族である*1源頼朝に従い、鎌倉時代御家人として、その後は安土時代に至るまで大名として続いた。

 

次の図に掲げるのは、複数伝わる小田氏の系図の一つで、江戸時代幕末期に成立の『系図纂要(以下『纂要』と略記)に所収の系図のうち、鎌倉時代の歴代当主の部分である。

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各人物には注記が施されているが、その傍注に記される情報は概ね、通称官途没年月日戒名といったものである。中でも没年月日は、その当時の年齢(=すなわち享年)の記載もあり、逆算すると生誕年も分かるので、各々の当主の年代(世代)を把握する上で重要かつ貴重な情報と言えよう。 但し、幕末期成立ゆえにその扱いには注意を要する。

ここで次に掲げる『尊卑分脈室町時代成立、以下『分脈』と略記)の小田氏系図と照らし合わせておこう*2。 

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こちらには没年月日等に関する記載が無いものの、鎌倉期の当主の内容は『纂要』とほぼ一致する。従って『纂要』の小田氏系図は『分脈』等それまでの系図をベースとし、没年月日等に関する情報を加えて再編集されたものと考えることが出来よう。

 

改めて『纂要』に従い鎌倉時代歴代当主の生没年をまとめると次の通りである。 

泰知:寛元3(1245)年5月13日卒去(享年35)→ 1211年生

時知:正応6(1293)年5月15日卒去(享年52)→1242年生

宗知:徳治元(1306)年12月6日卒去(享年48)→ 1259年生

貞宗建武2(1335)年閏10月23日卒去(享年48)→ 1288年生

高知(治久):文和元(1352)年12月11日卒去(享年70)→ 1283年生

 氏朝(孝朝):応永21(1414)年6月16日卒去(享年79)→ 1336年生

 

貞宗―治久父子については、子・治久の方が父より早く生まれたことになってしまっており検討を要するが、時知から貞宗にかけては各々、生没年の期間内で実際の一等史料での登場が確認できる。

吾妻鏡』建長4(1252)年12月16日条小田左衛門尉時知」(時知初見)

正安3(1300)年12月23日付「小田宗知判物案」(『常陸国総社宮文書』)*3:「宗知」の署名と花押の写し。

 文保2(1318)年5月4日付「小田貞宗請文」(『常陸国総社宮文書』):発給者「常陸貞宗」の署名*4

*翌3(1319)年の「常陸国総社造営役所地頭等請文目録」(『常陸国総社宮文書』)に「一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司□□〔請文」とある*5によって小田貞宗と解り、『分脈』の記載とも一致する。

 

以上の考察から、『纂要』小田氏系図に掲載される鎌倉時代歴代当主の生没年については、彼らのおおよその年代・世代を知る上では十分信用の置ける情報と判断できる。各人物の諱(実名)の1文字目は北条氏得宗からの偏諱であり*6、年代特定のもう一つの根拠となり得るが、生没年との整合性については各当主の項目で検証してみたいと思う。

 

(参考ページ)

 小田氏 - Wikipedia

 镰仓点将录(6)宇都宫·八田(小田) - 知乎

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:図は、黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』(吉川弘文館)P.368 より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*3:茨城県史料 中世編一』P.392 一二号文書。『鎌倉遺文』第27巻20936号。

*4:茨城県史料 中世編一』P.394 二〇号文書。

*5:茨城県史料 中世編一』P.394 二一号文書。

*6:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。