Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安保頼泰

安保 頼泰(あぼ よりやす、生年不詳(1230年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御家人

通称は三郎(或いは次郎?)、左衛門尉。表記は阿保頼泰とも。

 

『武蔵七党系図(以下「七党系図」と略記)*1や『丹治姓安保氏近代家譜』(以下「近代家譜」と略記)安保泰実の子として掲載される。

江戸時代宝永年間(1704年~1711年)に書かれたという後者では、冒頭の記述で次のように書かれている*2

「…次郎左衛門尉泰実ノ嫡男三郎左衛門尉頼泰マデ北条相模守朝臣高時エ属シ、正慶二癸酉年高時滅亡ノ後、頼泰嫡子安保左衛門入道道譚〔ママ〕*3ヨリ足利将軍幕下ニ参ル。…」

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で言及の通り、父・次郎左衛門尉泰実は『吾妻鏡』で少なくとも2度の登場が確認できる*4

また、嫡男「安保次郎左衛門入道道潭(どうたん)」も南北朝時代の軍記物語『梅松論』に登場する*5(『太平記』でも「安保入道道堪」として出てくる)ほか、時期が近い実際の史料でも道譚に比定し得る「安保左衛門入道」(『光明寺残篇』)、「安保左衛門尉法師」建武2(1335)年8月9日付「足利尊氏被判下文写」)*6の実在が確認できる。

そして、頼泰については実際の史料で該当し得る人物を確認することは難しいが、泰実(祖父)―道譚(孫)を繋ぐ存在として実在であったと考えて良いだろう。

 

大叔母の「谷津殿」*7が3代執権・北条泰時の継室に迎えられ、その次男・時実(通称:武蔵次郎)の母であったことは「七党系図」や『諸家系図纂』にも記されている*8

従って、以下のように図にまとめてみると、頼泰は時実の異母兄・北条時氏の子である4代執権・経時や5代執権・時頼とは義理のはとこ(又従兄弟)にあたる。

 <安保・北条両氏関係図>

      矢部禅尼    ┌ 経時

       ||――時氏――時頼

      北条泰時

       ||――時実

 安保実光――谷津殿

      └ 実員―泰実――頼泰

泰、この2人は「」の字を共有しており、同年代に生きた可能性が高いことからしても烏帽子親子関係にあったと推測できる。すなわち「泰」の名は時偏諱と父・泰実から継いだ1字により構成されたものと判断される。時頼の執権在任期間(1246年~1256年)*9内におよそ10代前半の適齢を迎えて元服したと考えると、1230~40年代には生まれていただろう

 

吾妻鏡正嘉2(1258)年正月1日条の「阿保次郎左衛門尉」、文応元(1260)年正月1日条の「安保次郎左衛門尉」について、『吾妻鏡人名索引』は特に誰にも比定していない(=すなわち誰か不明としている)*10。間が空くが父・泰実の可能性もあるし、仮名を継承した嫡男=すなわち頼泰の可能性も考えられる。

前年(正嘉元年)正月1日条に「安保左衛門太郎」、正嘉2年の前述同記事に「阿保左衛門三郎」と「阿保左衛門四郎」、同月7日条には「阿保左衛門次郎」が登場している*11が、その通称から彼らは安保〈阿保〉左衛門尉の息子たちということになろう。「七党系図」で見ると他にも候補者はいるが、安保氏嫡流家督たる父・泰実も「安保左衛門尉」と呼ばれ得る一人である。

彼らは正嘉年間当時に元服済みであることが伺えるので、遅くとも1240年には生まれていたと推測され、世代として泰実の孫になる可能性は低いと思う。前述の推定を踏まえると頼泰の同世代ということになり、「七党系図」や「近代家譜」と同じなら「阿保左衛門三郎」が頼泰に比定し得る。

但し、曽祖父・実光、父・泰実、嫡男・道潭が「次郎」の仮名を継承していることから、頼泰も同様であった可能性もあり(この場合「三郎」が「二郎」の誤記か)、正嘉2年の「安保〈阿保〉次郎左衛門尉」=頼泰である検討の余地も出てくるので、これについては後考を俟ちたい。

 

脚注

*1:武蔵七党系図 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新井浩文「『安保文書』伝来に関する覚書 ―川口家所蔵の安保文書について―」(所収:『文書館紀要』22号、埼玉県立文書館、2009年)P.59【史料G】および P.61【系図二】。

*3:本文で掲げた通り『梅松論』での表記は「道」である。史料的価値は比較的こちらの方が高いと思われるので、本文では「」表記に統一する。また「道潭」は出家後の法名であるが、その俗名を決定付ける史料が未確認であるため、便宜上本文中では頼泰の嫡男を一貫して「道潭」と呼ぶことにする(但し、筆者は俗名が「宗実」であったと推測しており、安保宗実 - Henkipedia を参照のこと)。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.326「泰実 阿保」の項。

*5:『大日本史料』6-2 P.540~541

*6:新井浩文「安保清和氏所蔵『安保文書』調査概要」(所収:『文書館紀要』25号、埼玉県立文書館、2012年)P.四【写真2】および 【史料一】、P.8【写真8】。

*7:伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)P.29。

*8:『大日本史料』5-5 P.803

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:吾妻鏡人名索引』P.453・454「通称・異称索引」より。

*11:前注に同じ。