Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安保泰実

安保 泰実(あぼ やすざね、生年不詳(1210年頃?)~没年不詳)は、鎌倉時代前期の武将、御家人安保実員の嫡男。弟に安保信員(のぶかず)

通称は次郎、左衛門尉。表記は阿保泰実とも。

 

 

北条泰時の烏帽子子

はじめに

『武蔵七党系図(以下「七党系図」と略記)には安保実光の子、実員(七郎左衛門尉)の弟として掲載される*1一方、江戸時代宝永年間(1704年~1711年)に書かれたという『丹治姓安保氏近代家譜』(以下「近代家譜」と略記)冒頭の記述では「…七郎左衛門尉実員嫡男次郎左衛門尉泰実…」と書かれている*2

 

吾妻鏡』では、

暦仁元(1238)年2月17日条阿保次郎左衛門尉」:4代将軍・藤原(九条)頼経の入洛に際し、護衛兵24番の筆頭。

同年6月5日条阿保次郎左衛門尉泰実」:将軍・頼経の春日大社参詣に際し、頼経の御輿の護衛15名の一人。

*この年、頼経は10月13日まで京都に滞在。

の2箇所に登場し、実在が確認できる*3

 

結論から言えば、この当時の執権は3代・北条で、「」の名は実光以来の通字「実」に対してその偏諱を許されており、後述の婚姻関係があったことからしても、元服時に泰時から一字を拝領したものと考えて良いだろう。

それを裏付けるため、以下、年代や系譜について考察してみたい。

 

近親者や婚姻関係について

安保氏というと泰時と直接の婚姻関係がある。「七党系図」には、実員の女子に「実光女ト云ヘリ 平泰時後室時実母」とあり、この女性(実員の実妹で養女)は「谷津殿」と呼ばれ*4、泰時の次男・時実(通称:武蔵次郎)の母であったことは『諸家系図纂』にも記されている*5。足利義の1字を受けたと考えられている泰時の長男・北条時に対し、次男の北条時は恐らく母方の安保氏(実員か)を烏帽子親として「」の字を受けたのではないかと推測されるが、嘉禄3(1227)年に家人の高橋次郎光繁(『前田本 平氏系図』ほか)に殺害された当時16歳であったといい(『吾妻鏡』・『鎌倉年代記』)*6、逆算すると建暦2(1212)年生まれと分かる。

また、『佐野本 北条系図』によると早世した三浦泰村継室(泰時の娘)の母でもあったとも伝えられ*7、泰村に嫁いだ娘は元久3/建永元(1206)年生まれと判明している*8

よって、現実的な親子間の年齢差を考慮すれば、谷津殿の生年はおよそ1186年以前であったと推定可能である

 

鎌倉時代末期、1320年頃の成立とされる『結城小峯文書』所収「結城系図*9を見ると、結城広綱の注記に「安保刑部丞実光」とある。広綱の生年は承久3(1221)年・安貞元(1227)年の2説があり*10、仮に前者を採ると、外祖父にあたる安保実光の生年は広綱との年齢差を考慮して遅くとも1181年と推定可能である。但し、前述の娘・谷津殿の生年推定を踏まえると、実光の生年は1166年以前とすべきであろう。実際、実光は永治2(1142)年生まれとされている*11

*実光が亡くなったのは、外孫・結城広綱の生年とされる承久3(1221)年である。『吾妻鏡』同年6月18日条には14日の宇治橋合戦(承久の乱)での戦死者の中に「安保刑部丞」が含まれている。尚、続いて「同四郎 同左衛門次郎 同八郎」とあり、同時に安保氏一門から戦死した者がいたことも窺える。

 

以上の系譜・婚姻関係を系図にまとめると次の通りである。

 <安保実光周辺系図

      ┌ 実員―――泰実

 安保実光――谷津殿―北条時実

      └ 女子――結城広綱

 

 安保実光――谷津殿――女子――三浦景村

              └ 女子――小田時知

時実と、彼が殺害された年に生まれたとされる広綱。従兄弟関係にして15歳ほどの年齢差はあるが、親子ほど離れているというわけではなく、世代的には近いと言えよう(広綱の生年が承久3年に遡るならば、年齢差は9歳となる)。父親同士で比べても、北条泰時(1183-)と結城朝広(1190-)はほぼ同世代の関係にある。前述の内容からすれば、谷津殿も恐らく夫・泰時とさほど年齢は離れていなかった可能性が高く、その兄弟にあたる実員も1170~80年代の生まれになると思う

*この場合、実員は父・実光と、当時としては少し年齢が離れるが、冒頭で前述したように実員は「七党系図」や「近代家譜」で「七郎」と記されるから、輩行名通り7男であった可能性が高く、特に問題視する必要はないと思う。

 

父・実員と弟・信員

吾妻鏡』(『吾妻鏡人名索引』)によると、実光は元暦元(1184)年2月5日条「安保次郎実光」、文治5(1189)年7月19日条「阿保次郎実光」と書かれていたものが、次いで承久3(1221)年5月19日条では「安保刑部丞実光」となっており*12、50代以上の年齢で刑部丞(六位相当)*13任官を果たしたことになる。

一方、承久3年6月18日条安保右馬允承久の乱宇治橋合戦での「手負人々」の一人)」が実員に比定されており*14、左衛門尉となる前に右馬允(七位相当)*15の官途を得ていたことになる。

 

ここで、寛喜3(1231)年8月21日付「将軍藤原頼経御判下文案」(『山城八坂神社文書』)でに着目したい。内容としては、「右兵衛尉丹治信員」に対し、「任(せ)亡父実員之例(に)」、武蔵国安保郷内別所村と播磨国須富庄、近江国箕浦庄内村壱所の各地頭職を安堵する旨が記されている*16。この実員・信員父子は安保氏とみなして良いだろう*17。安保氏は多治比(表記は丹治比・丹治・丹比とも)を姓とし、前述の実光が武蔵国賀美郡安保郷(現在の埼玉県児玉郡神川町大字元阿保字上宿)に居館を構えて称したことに始まる*18からである。

よって、同文書から1231年の段階で実員が既に亡くなっていたことも分かるので、承久の乱での「安保右馬允」が実員で正しければ、1220年代に左衛門尉に昇ったことになる。そして、息子の信員右兵衛尉(七位相当)*19に任官済みであったことになるので、相応の年齢を考えると若くとも20代であったとみなされる。従って、親子の年齢差を考えると実員は直近に亡くなった当時40代以上であったと考えるのが妥当であろう。逆算すれば実員の生年が1170~80年代という前述の推定が成り立つと思う。

 

もう一つ、文保2(1318)年12月24日付「関東下知状」(『信濃安保文書』)*20を見ると、内容として「安保次郎行員法師□□法名信阿」が「祖母藤原氏 成田左衛門尉家資女子安保七郎兵衛尉信員*21である「陸奥国鹿角郡内柴内村」の領知を認められている*22。行員(ゆきかず)の祖母が成田家資助綱実弟で養子、系図では家助とも)の娘で安保信員の妻であったというから、すなわち信員は行員の祖父ということになるが、その仮名が「七郎」であったことが分かる(「兵衛尉」というのも前述の寛喜3年文書の「右兵衛尉」に合致する)

「七党系図」では、七左衛門実員や二左衛門尉泰実の弟として、七兵衛尉信員が載せられており(各々「郎」の字は省略されている)、これに比定されよう。しかし、同じ「七郎」の仮名を持つ兄弟がいたというのは奇妙であるし*23、寛喜3年文書から「実員―信員」の親子関係が認められるので、「七党系図」の一部で家系の線の引き間違えが生じたと判断できる。

従って、泰実についても、「次郎」という輩行名からして実員の弟とするよりは、実員の子で信員の兄とするのが妥当であろう。

 

生年と烏帽子親の推定

よって、時から見て義理の甥にあたる実への一字付与は十分あり得る話である。

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こちら▲の記事で、泰時が前妻の三浦義村娘と離縁した時期を1203~1206年と推定したので、以後に実員養女実妹谷津殿が継室として迎えられたと考えられよう。この婚姻関係が、泰時が谷津殿の甥・泰実の烏帽子親を務めるきっかけになったのではないか。推論を重ねてしまうが、泰時の次男・時実の加冠との交換条件にもなっていたのかもしれない。

前述の通り、弟の信員が1231年の段階で20代に達していたと判断されるから、父・実員との年齢差を踏まえると、その生年は1200年代初頭であったと推定される。兄・泰実も同様であったと考えられよう。

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よって、谷津殿の娘(泰実・信員の従姉妹)が嫁いだ三浦泰村とほぼ同世代と推定する。泰村と同様に、執権となる前の泰時から、親戚付き合いの中での烏帽子親子関係成立だったのだろう。

 

備考

1231年の段階で既に実員は亡くなっていたことは前述の通りで、冒頭で掲げた『吾妻鏡』での登場時(1238年)には「近代家譜」の記述通り、泰実は実員の嫡男として家督を継承し、将軍の護衛という重要な役目を任されていたことになる。

嫡男である実は義理の叔父・時からの偏諱を受けて祖父・実光と同じ「次郎」を名乗り、庶子信員は準嫡子として父・実員の「七郎」の仮名および地頭職を継承したと判断される。安保氏は武蔵国を基盤として、泰実と信員の二流を中心に勢力を拡大したのであった*24

 

吾妻鏡正嘉2(1258)年正月1日条の「阿保次郎左衛門尉」、文応元(1260)年正月1日条の「安保次郎左衛門尉」について、『吾妻鏡人名索引』は特に誰にも比定していない(=すなわち誰か不明としている)*25。間が空くが泰実自身の可能性もあるし、仮名を継承した嫡男の可能性も考えられる。

 

前年(正嘉元年)正月1日条に「安保左衛門太郎」、正嘉2年の前述同記事に「阿保左衛門三郎」と「阿保左衛門四郎」、同月7日条には「阿保左衛門次郎」が登場している*26が、その通称から彼らは安保〈阿保〉左衛門尉の息子たちということになろう。「七党系図」で見ると他にも候補者はいるが、安保氏嫡流家督たる泰実も「安保左衛門尉」と呼ばれ得る一人である。

彼らは正嘉年間当時に元服済みであることが伺えるので、遅くとも1240年には生まれていたと推測され、世代として泰実の孫になる可能性は低いと思う。

よって、正嘉・文応の「安保〈阿保〉次郎左衛門尉」も泰実に比定され、存命であった可能性があるが、これについては要検討としておきたい。

 

脚注

*1:武蔵七党系図 - 国立国会図書館デジタルコレクション埼玉苗字辞典「九閑 クガ」の項。

*2:新井浩文「『安保文書』伝来に関する覚書 ―川口家所蔵の安保文書について―」(所収:『文書館紀要』22号、埼玉県立文書館、2009年)P.59【史料G】および P.61【系図二】。

*3:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.326「泰実 阿保」の項 より。

*4:伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)P.29。

*5:『大日本史料』5-5 P.803

*6:『大日本史料』5-3 P.856857

*7:『大日本史料』5-22 P.147

*8:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とある。『佐野本 三浦系図』によると、この女性は泰村の嫡男・景村や、小田時知の母となった娘などを産んでいる(→『大日本史料』5-22 P.135)。

*9:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】参照。

*10:結城市史編さん委員会 編 『結城市史』 第四巻《古代中世通史編》(結城市、1980年)P.231。

*11:安保実光 - Wikipedia より。

*12:吾妻鏡人名索引』P.219。

*13:刑部大丞が正六位下、刑部小丞が従六位上相当の官職である(→刑部の丞(ぎょうぶのじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。

*14:吾妻鏡人名索引』P.217。

*15:右馬大允が正七位下、右馬少允が従七位上相当の官職である(→右馬允(うまのじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。

*16:『鎌倉遺文』第6巻4181号。

*17:安保郷・安保氏館(あぼごう・あぼしやかた)とは? 意味や使い方 - コトバンク武蔵国成田氏

*18:安保氏の故郷を訪ねて その1(編集者・M) | 八木書店グループ安保氏 - Wikipedia

*19:右兵衛大尉が正七位下、右兵衛少尉が従七位上相当である(→右兵衛の尉(うひょうえのじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。

*20:『鎌倉遺文』第35巻26906号。『史料稿本』後醍醐天皇紀・文保2年11~12月 P.54

*21:「跡」は旧領の意。「藤原氏」というのは成田氏が藤原姓を称していたことによる。江戸時代に成田氏の末裔が作成した、『続群書類従』所収「成田氏系図」では藤原行成の弟・基忠を祖としており(→成田氏 - Wikipedia)、実際の系譜はともかく、成田氏が藤原氏の末裔を自認していたことは認められよう。

*22:武蔵国成田氏より。

*23:他の例を踏まえると、兄弟間で「七郎」と「孫七郎」・「弥七郎」等と名乗るケースならまだあり得るが、全く同じ仮名を名乗るというのはあり得ないと言って良い。

*24:安保郷・安保氏館(あぼごう・あぼしやかた)とは? 意味や使い方 - コトバンク

*25:吾妻鏡人名索引』P.453・454「通称・異称索引」より。

*26:前注に同じ。