Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉泰胤

千葉 泰胤(ちば やすたね、生年未詳(1220年代前半か)~1251年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人下総国香取郡千田庄(現・千葉県香取郡多古町を領したことから、千田泰胤(ちだ ー)とも呼ばれる。通称は千葉次郎。法名常存 (じょうぞん) と伝わる(『般若院系図』)

 

 

はじめに

肥前国小城郡の雲海山岩蔵寺に所蔵されていた過去帳(=『岩蔵寺過去帳』※焼失)には、同郡の代々の地頭として「常胤胤政成胤胤綱時胤泰胤頼胤宗胤明恵 後室尼胤貞高胤胤平、直胤〔=貞胤カ〕、胤直〔=胤貞(再承)カ〕胤継(胤平弟)胤泰」と名を連ねているが、原則千葉氏の歴代家督宗胤以降はいわゆる九州千葉氏)が務めていたことが分かる。

ところが、時胤―頼胤父子の間に「泰胤」が地頭を務めていることは注目に値する。時胤が24歳の若さで亡くなった時、跡を継いだ頼胤(亀若丸)は3歳と幼少であった*1。当然ながら地頭を担えるはずもなく、後述するが『吾妻鏡』で確認できる限りその当時幕府に出仕して活動が見られる泰胤が事実上当主代行であったと考えられよう。 

以下この泰胤について、判明していない生年の推定を試みたいと思う。

 

吾妻鏡』における泰胤

まず、建武4(1337)年に書かれた「千葉貞胤亡母三十五日表白」(『拾珠抄』)によると、貞胤の母(胤の妻)について、

 今聖霊也、母儀千葉次郎泰胤女、三十五歳出家、三十六ニシテ喪

との記載があり*2、貞胤母の母(=すなわち貞の祖母)が泰胤の娘であったことが分かる。逆算すると貞胤の母親は文永11(1274)年生まれということになり*3、この女性は金沢顕時の娘であったようだ*4(但しこれについては疑問があり後述する)が、年齢差の面でも問題は無い貞顕の異母姉であったことになる)。そして、その母親は1254年以前には生まれていたと考えて良いと思われ、その父親である泰胤は遅くとも1230年頃には生まれていなければおかしい

ここで次の表を見ておきたい。

 

【表1】『吾妻鏡』における千葉泰胤の登場箇所*5

月日 表記
寛元2(1244) 8.15 次郎泰胤
寛元3(1245) 8.15 千葉次郎泰胤
宝治元(1247) 2.23 千葉次郎
宝治2(1248) 1.3 千葉次郎
8.15 千葉次郎泰胤
建長2(1250) 8.15 千葉次郎胤泰〔ママ〕
8.18 千葉次郎
12.27 千葉次郎

1244年までには元服を済ませて「次郎 泰胤」を名乗っていたことが分かる。元服は通常10代前半で行われたから、やはり1230年以前の生まれであったことは確実である。

 

系譜について

ここで泰胤の系譜上での位置について確認しておきたい。

 

千葉氏系図類での相違

まず『尊卑分脈』の千葉氏系図では頼胤の子、宗胤の弟で仮名「太郎」とする*6が、同系図は非常に簡略なもので宗胤の子を貞胤とする誤り(正しくは胤貞もあり、泰胤についても少なくとも仮名は【表1】との整合性が取れない。また冒頭の『岩蔵寺過去帳』と照らし合わせても、父兄より先に小城郡地頭となり、その後に父・兄の順で継がれたことになってしまい、明らかに不自然である。

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頼胤については1239年生まれと判明しており、泰胤がその息子として1244年までに元服するのは絶対に不可能であるだけでなく、泰胤の娘が頼胤に嫁いだとする系図が見られることからも『尊卑分脈』の記載は誤りである。

 

他の系図類を確認してみると次の通りである。

● 『松蘿館本千葉系図』伊豆山権現『般若院系図』中条本『桓武平氏諸流系図』・『徳島本千葉系図』・『平朝臣徳嶋系図』etc.:胤綱―泰胤(時胤兄弟)

● 『千葉大系図』:成胤―泰胤(胤綱弟・時胤〈実成胤之三男〉兄)

 

すなわち、

 成胤の子、胤綱の弟

胤綱の子、時胤の兄弟

のいずれかということになる。

鎌倉時代後期に千葉氏関係者によって書かれたとされる『源平闘諍録』*7には "千葉氏の当主が長男に継承され続けた" 旨の記述があり*8、歴代の「千葉介」の仮名は本来「太郎」であったと思われる。判明しているだけでも、胤正が「太郎」、成胤が「小太郎」を称し、更に頼胤の長男・宗胤も「太郎」と呼ばれていたことが実際の書状で確認できる*9

従って、"次郎" 泰胤は千葉介継承者、胤綱または時胤の弟であったと考えて良いと思われる。

 

『承久記』における「千葉次郎」

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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督嫡流家当主)は次の通りである。 

 【表2】千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年

 *( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。

 ● 千葉常胤(千葉介)

1118年~1201年(84)  …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より

 ● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)

1136年~1202年(67) …『本土寺過去帳』より

 ● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)

1155年~1218年

 …生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より

 ● 千葉胤綱(千葉介)

1198年~1228年(31)  …『本土寺過去帳』より

  千葉時胤(千葉介)

1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より

これだけで見れば、父が成胤、胤綱のいずれでも矛盾は生じない。

ところで、野口実は『承久記』の諸本の中でも最古で鎌倉時代中期の成立とされる慈光寺本についての論文(2005年)において、承久の乱(1221年)での幕府本隊(東海道軍)の「五陣」の一人として従軍し*10、乱後の7月6日にも後鳥羽院が四辻殿から鳥羽殿へ移る際の供奉役を務めた「千葉次郎*11泰胤に比定されていた*12。また系譜についても言及があり、「そもそも鎌倉・ 南北朝期に成立した系図は、事実としての血統よりも所領・所職の相伝の論理によって作成されている」ため、『千葉大系図』の方が「蓋然性の高い所伝と判断」して、泰胤を「胤綱の兄弟とされるべき人物である」と説かれた。掲載の系図でも泰胤を成胤の子、胤綱・時胤の弟として作成されたが、それにもかかわらず、まとめの記述では「千葉介胤綱の伯(叔)父とみられる泰胤」としており矛盾している。

「五陣」の大将について、流布本『承久記』や『吾妻鏡』では「千葉介胤綱」とするが、これについて野口氏は、『吾妻鏡』によると胤綱は安貞2(1228)年5月28日に21歳で没したとあり、7年前の承久の乱当時14歳で大将を務めるのに無理があると考えたのか、実際の任務にあたったのは後見役であった一族の者と見なすのが順当として、慈光寺本『承久記』にある「千葉次郎(=泰胤に比定)」が正確であろうと説かれた。野口氏としては、『吾妻鏡』で確認できる「千葉次郎」はあくまで【表1】の泰胤であり、"泰胤が胤綱のおじ"と考えられたのは、泰胤が成胤の子、胤綱の弟であれば、14歳以下で大将を務めたことになってしまっておかしいと判断されたからであろう。

 

ところが、2010年代に入って『本土寺過去帳』における没年齢について再検討されたことで、胤綱の正確な生年は1198年と判明した。成胤の子であったというのに変わりはないが、承久の乱当時24歳となり、それでも若いのではあるが、大将を務めたとしても問題は無くなる。よって、泰胤を胤綱の叔父とする必要性も無い。ちなみに成胤の弟には常秀上総千葉氏の祖)がおり、当初の通称「平」から胤正の次男であったと考えられるので、「次郎」を称する泰胤がその兄弟であった可能性は考え難い。

 

ここで再度『岩蔵寺過去帳』と照らし合わせると、次の3パターンで考えられる。 

【a

千葉胤正―③成胤―④胤綱―⑤時胤―⑦頼胤

      +―⑥泰胤

【b

千葉胤正成胤胤綱―⑤時胤―⑦頼胤

          +―⑥泰胤

【c

千葉胤正成胤―④胤綱時胤―⑦頼胤

              +―⑥泰胤

(*丸数字②~⑦は肥前国小城郡地頭の継承順。)

この中で最も現実的と思われるのは【c】の相続順であろう。【b】は近世成立の『千葉大系図』で修正が施された結果に過ぎず、中世成立の系図が揃って【c】説を採ることからしてやはり後者を信用すべきと思う。野口氏が言われるように仮に「鎌倉・ 南北朝期に成立した系図は、事実としての血統よりも所領・所職の相伝の論理によって作成されてい」たとしても、その相伝の仕方はやはり長幼の順であったと考えるのが自然ではないか。泰胤は中世成立の系図が示す通り胤綱の子であったと見なされる。すなわち時胤の弟であったことになる。よって胤綱が亡くなる安貞2(1228)年(【表2】)までに生まれたことも確実となる

 

では、慈光寺本『承久記』の「千葉次郎」は何者なのか。時胤は『千葉大系図』によると建保6(1218)年8月11日生まれとされ、同年4月10日に亡くなった成胤(【表2】)の3男である可能性はほぼ皆無で、胤綱の生年が1198年と修正されたこともあり、こちらも中世成立の系図が示す通り胤綱の子と判断して問題無い。

時胤は承久の乱当時4歳となり参戦できる筈はなく、それは弟の泰胤も同様である。従ってこの「千葉次郎」は泰胤とは別人と考えるべきであろう。そして、可能性が皆無とは言い切れないにせよ、成胤54年の生涯の中で男子が胤綱だけだったとは限らない。承久の「千葉次郎」は系図には載せられていない胤綱の弟であったと判断しておきたい

【図3】鎌倉初期千葉氏の系図(最新版)

千葉胤正―③成胤――胤綱―⑤時胤

       |        +―次郎某 +―⑥泰胤

       | 【上総千葉氏】

      +―常秀(平次)―+―秀胤――+―時秀

               +―時常  +―泰秀

 (*丸数字②~⑦は肥前国小城郡地頭の継承順。)

 

 

生年と烏帽子親の推定

前節で泰胤が胤綱の子、時胤の弟であると結論付けた。従って、泰胤の生年は1218年以後となる。ここで再び『千葉大系図』を見ておきたい。

 

【図4】『千葉大系図』より一部抜粋(図は 千田千葉氏 ー 千田泰胤 より引用)

千葉次郎  次郎太郎  孫次郎 中澤孫次郎
泰胤――+―胤英――――胤義――胤頼
    |
    | 越後太郎妻  於鎌倉造立嶺松寺
    +―女
    |
    | 千葉介頼胤
    +―女

着目したいのは、泰胤の娘が頼胤に嫁いでいたということである。そしてこの女性は宗胤胤宗兄弟の母親でもあったと考えられている。特に宗胤の系統は西国に下り、冒頭にも示したように九州肥前国を拠点の一つとしたが、下総国千田庄も所領の一つとして継承している*13様子から、同庄が泰胤から娘を通じて宗胤に渡ったと考えられていることによる。

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こちら▲の記事で紹介の通り、宗胤の生年は1265年とされ、泰胤がその祖父であれば各親子間の年齢差を考慮して1225年までには生まれていたと考えるのが妥当であろう。【表1】にあるように初見の1244年当時も無官で「次郎」を称していたことからすると、泰胤は1225年またはそれよりさほど遡らない年の生まれであったと推測される。

 

ここで「」の名に着目すると、千葉氏の通字「胤」に対し、「」は泰胤が生まれ、元服した当時の執権・北条(在任:1224年~1242年)*14偏諱を受けたものと見られる*15。兄・時胤と同様に、泰時を烏帽子親として元服し、その折に一字を拝領したのであろう。

 

最後に

【図4】を見ると、泰胤のもう一人の娘は「越後太郎妻」であったという。先行研究において「越後太郎」は金沢実時(越後守)の子・顕時に比定され、小笠原長和の見解では、泰胤の娘が金沢顕時の妻となって金沢貞顕を産み、貞顕の姉は千葉胤宗の妻となって貞胤を産んだとし*16、永井晋らもこの説にほぼ従っておられる。但し貞顕の母については細川重男・生駒孝臣 両氏や永井氏もご指摘の通り、系図で確認できる限りでは摂津の御家人・遠藤為俊の娘(入殿)である*17

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そして「越後太郎」が顕時であるかどうかは疑問である。こちら▲の記事でも紹介したが、『吾妻鏡』や鎌倉後期成立の『入来院本 平氏系図』を見る限り、顕時の通称は「越後四郎」であり、「越後太郎」は長兄・実村にこそ相応しい。ちなみに『千葉大系図(【図4】)以外に泰胤女子の一人が顕時の妻であったことを示す史料・系図類は管見の限り確認は出来ない。

但し実村は1245年前後の生まれで*18顕時とさほど年齢は離れていなかったと考えられ、冒頭で紹介の通り「泰胤―女子―女子(胤宗妻)―貞胤」という系譜は確実であるため、泰胤女子が実村・顕時いずれに嫁いでいたとしても世代的な変化は生じない。実村と貞胤母(1274年生)との年齢差も親子として問題ない。 

千葉胤綱―+―時胤――頼胤  +―宗胤胤貞高胤

     |      || |
     |      ||―+―胤宗
     |    +―女子  ||   +―一胤
     |    |     ||―貞胤――氏胤
     +―泰胤―+―女子  ||
             ||――女子
金沢実時(越後守)―――実村(越後太郎)        

 

泰胤の没年については、鎌倉時代後期に編纂された『中条家文書』所収「桓武平氏諸流系図」上で「建長三正(1251年正月)」とあり*19、『吾妻鏡』でも同2年末以降一切登場していない(【表1】)ことから、この説が採用されている。

 

参考ページ

 千田千葉氏 ー 千田泰胤

千葉宗家の女性・一門 #千田泰胤

 千葉泰胤 - Wikipedia

 

脚注

*1:千葉頼胤 - Henkipedia 参照。

*2:千田千葉氏 ー 千田泰胤 より。

*3:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.6。

*4:前注同箇所。

*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.316「泰胤 千葉」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*6:『大日本史料』6-14 P.373新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第15-18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:源平闘諍録 - Wikipedia 参照。

*8:千葉時胤 - Wikipedia より。

*9:正応元(1288)年9月7日付「関東御教書」(『山代松浦文書』、『鎌倉遺文』第22巻16766号)の文中に「千葉太郎宗胤」とある。尚、その名乗りから本来は嫡男で、千葉介を襲名予定であったと思われるが、頼胤の跡を受けて九州に下ったため千葉介を名乗らなかった。

*10:東京国立博物館デジタルライブラリー / 慈光寺本承久記 27ページ目。

*11:東京国立博物館デジタルライブラリー / 慈光寺本承久記 44ページ目。

*12:野口実「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(所収:『研究紀要』第18号、京都女子大学宗教・文化研究所、2005年)P.51~52。

*13:『多古町史 上巻(通史編)』(多古町史編さん委員会 編、1985年)P.93第3章第1節-1「千葉氏と千田庄」参照。例として宗胤の子・胤貞から嫡男・胤平への譲状である 千葉高胤 - Henkipedia【史料1】にも所領の一つとして書かれている。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*15:千田千葉氏 ー 千田泰胤千葉宗家の女性・一門 #千田泰胤 より。

*16:『多古町史 上巻(通史編)』(多古町史編さん委員会 編、1985年)P.93

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪生駒孝臣「鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について ―「遠藤系図」をめぐって」(所収:『人文論究』第52巻2号、関西学院大学、2002年)P.22~23。注3前掲永井氏著書 P.4。

*18:金沢顕時 - Henkipedia 参照。

*19:岩橋直樹「中条本『桓武平氏諸流系図』所収の両総平氏系図に関する覚書 ー神代本『千葉系図』との記載事項比較を通じてー」(所収:『文学研究論集』48号、明治大学大学院、2018年)P.437系図