Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

塩飽盛遠

塩飽 盛遠(しわく*1 もりとお、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の得宗被官。官途は右近将監

尚、出家後の同人と思われる塩飽了暁(― りょうぎょう、右近入道)についても本項で扱う。

 

 

はじめに

最初に、次の史料をご覧いただきたい。

【史料1】元応2(1320)年9月25日付「関東下知状案」(『小早川家文書』)*2より

……如𪉩飽右近入道了曉執進寺家正和三年十月十八日請文者、永仁五年被寄進當寺之間、本主被収公之次第不存知云々、……

この史料から、正和3(1314)年10月18日に寺家に請文を発給*3した人物として「塩飽右近入道了暁」なる人物の存在が確認できる。次節以降ではこの塩飽了暁について、現存する史料からその活動の形跡を追ってみたいと思う。

 

得宗公文所職員としての活動と政治的立場

まず、次の史料に着目したい。

【史料2】延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書案」(『明通寺文書』)*4

異國降伏御祈事、御教書如此、早任被仰下旨、可相觸若狭國寺社別〔当 脱字カ〕神主之由、可被下知代官候、仍執達如件、

 延慶三年三月八日 親經 在〻

          了曉 在〻

          時綱 在〻

          資□ 在〻

 工藤四郎右衛門尉殿

この【史料2】は、若狭国内の寺社に「異国降伏御祈事」を命じる関東御教書を施行したもので、工藤四郎右衛門尉(実名不詳)守護代へこのことを伝達するよう命じたもの(の写し)である。細川重男が述べるように、宛名の工藤氏は若狭守護代を複数人輩出した得宗被官であるから、この書状は得宗公文所奉行人連署奉書であり*5、「資□」と「時綱」に次ぐ奉者の第三位に「了暁」の名が確認できる。【史料2】と正和3年では時期が近く、「了暁」と号する人物が何人も存在したとは考えにくいため、塩飽氏である可能性が高いと思われる。

続いて次の史料に着目してみよう。 

【史料3】正和5(1316)年閏10月18日付公文所奉書(『多田神社文書』)*6

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押:下記参照

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道殿

右は「工藤右近入道」こと工藤宗光*7法名不詳)に対し、摂津国多田院の塔供養奉加の馬について再度指令を下したものである。この宗光も、若狭国守護代を務め、多田院政所に多くの書下を発給している工藤貞祐*8とは同族(「南家伊東氏藤原姓大系図」)得宗被官であるから、【史料3】得宗公文所奉行人連署奉書である。

 

細川【史料2】【史料3】を照らし合わせ、

奉者第一位:「資□」=「(長崎)高資」

奉者第二位:「(尾藤)時綱」=「(尾藤)演心」

とされているから、

奉者第三位:「了暁」=「了□

とみなして良いのではなかろうか。【史料2】【史料3】は双方とも、長崎高資尾藤演心塩飽了暁が奉者の上位三つを占めて発給した奉書であったと推測される。塩飽了暁は長崎・尾藤両名と同じく得宗公文所の職員であり、家格は彼らに比べやや劣るかもしれないが、幕府の政務に携わる程の有力な得宗被官であったことは認められよう。

f:id:historyjapan_henki961:20200624015905p:plain

こちらは【史料3】における「了□」の花押である。これと同じ花押を持つ史料として、他に以下2点が確認できる*9

 

【史料4】文保元(1317)年12月日付「陸奥国平賀郡大平賀郷正和四・五両年年貢結解状」(『南部文書』)

f:id:historyjapan_henki961:20200624020526p:plain

【史料5】元応2(1320)年10月30日付「得宗公文所奉行人連署奉書」(『宗像神社文書』):奉者第三位「沙弥」の花押

f:id:historyjapan_henki961:20200624020601p:plain

*花押の一致により、第一位「左衛門尉」=(長崎)高資、第二位「沙弥」=諏訪宗経(直性)と分かり、依然として執事家に次ぐ家格・地位を有していたことが推測される。

 

この他、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)において「銭二十貫 太刀一 亀甲作、」を進上する「塩飽右近入道」についても、【史料1】との時期の近さからして『神奈川県史』での推定通り了暁に比定されよう*10。同史料で「常陸前司輔方」に「馬一疋栗毛」を「大夫土佐前司殿」が進上する際の御使を務めた「塩飽右近三郎*11は了暁の息子なのではないか。

 

 

了暁の俗名について 

前節までに触れてきた史料からは、了暁の俗名(出家前の実名・諱)について知ることは出来ない。また、塩飽氏については系図類も特に残されていない。

ところが、その手がかりとなる史料が近年発表された。次の記録である。 

【史料6】『嘉元三年雑記』宮内庁書陵部蔵『醍醐寺記録』所収)5月22日条 より一部抜粋*12

……正応六年平左衛門入道杲円被誅之後、自四月廿三日仏眼御修法被修之、伴僧八口、修法以後被成護摩一七ヶ日、以注文被成供、奉行二人塩飽右近将監盛遠・神四郎入道了儀*、……

* 尊経閣文庫蔵の写本では「了義」と表記*13

嘉元3(1305)年の嘉元の乱に関する史料中、回想する形で正応6(1293)年の平禅門の乱の際の法験について述べられた部分であるが、その奉行を務めた人物として塩飽盛遠の名が確認できる。この盛遠の官途は右近将監であり、嘉元3年当時のそれであったと見なして良いと思うが、前述の工藤宗光(右近将監→右近入道)に同じく、出家すると「右近入道」と呼ばれ得る。

そして、僅か約5年後の【史料2】で "右近入道" たる「了暁」が現れるから、時期の近さからし盛遠=了暁と見なして良いのではないか

 

尚、『東寺百合文書』に所収の、卯月(4月)2日付「工藤貞景書状案」*14の宛名「塩飽入道殿」は、同日付の「塩飽右近入道書状案」*15の冒頭に「塩飽右近入道殿返状案」とあることから、正確な呼称が "塩飽右近入道" であったことが窺える。いずれも「嘉元二」との付記があるので【史料6】の前年の史料と分かり、この塩飽入道と盛遠は別人と見なすのが妥当である。

以上より、塩飽了暁の出家前の俗名は「盛遠」であったと推定される

前述の『北條貞時十三年忌供養記』に登場する「塩飽藤次高*16や、鎌倉幕府滅亡に殉じた塩飽聖(新左近入道、俗名不詳)*17とは「」の字が共通しており、親戚(同族)関係にあったと見て良いだろう。

 

 

脚注

*1:「しあく」などとも読まれる(→ 塩飽(しあく、しわく) -人名の書き方・読み方 Weblio辞書塩飽さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net などを参照)が、正中元(1324)年のものとされる「東盛義所領収公注文」(『金沢文庫文書』所収/『鎌倉遺文』第37巻28943号)の端裏書に「塩涌〔ママ〕新右近入道」と書かれており、「(わ-く)」の読み方からすると「しわく」と読まれていたとみて良いだろう。塩飽氏が拠点にしていたと思われる瀬戸内海の塩飽諸島も現在この読み方である。ちなみにこの新右近入道は、同じく出家以前は右近将監在任であったとみられ、「右近入道了暁」と区別のために「新」が付されたものと思われ、盛遠(了暁)の嫡男或いは近親者であろう。

*2:『大日本古文書』家わけ第11『小早川家文書之二』P.160~163(二八五号)。『鎌倉遺文』第36巻27574号。

*3:但し、この書状については『鎌倉遺文』・『大日本古文書』等に収録されておらず、今のところ未確認である。

*4:『鎌倉遺文』第31巻23932号。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.184 註(73)。

*6:『鎌倉遺文』第34巻26002号。

*7:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論 上巻』、高志書院、2007年)P.113。

*8:星野重治「南北朝期における摂津国多田院と佐々木京極氏:分郡守護論(守護職分割論)の再検討を中心に」(所収:『上智史學』48号、2003年)P.71によれば、貞祐は多田院の領主である北条氏の意を受けて、現地で年貢・公事の徴収にあたる政所を指揮・管理する「多田院造営惣奉行」であったといい、その一方で父・杲暁同様に若狭国守護代を務めていたことが確認される(『若狭国守護職次第』)。前注今野氏論文P.114も参照のこと。

*9:『花押かがみ 四 鎌倉時代』(編:東京大学史料編纂所、1985年)P.96・No.2822「某(得宗家家人)」の項 より。

*10:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。

*11:前注『神奈川県史』P.706。

*12:菊池紳一「嘉元の乱に関する新史料について ―嘉元三年雑記の紹介―」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』第3章、八木書店、2008年)P.796~797。

*13:前注同論文 P.789。

*14:『鎌倉遺文』第28巻21782号。ミ函/15/1/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書ゑ函/12/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書

*15:『鎌倉遺文』未収録文書99900506号(データベース検索結果より)。ミ函/15/2/:塩飽右近入道書状案|文書詳細|東寺百合文書

*16:注10『神奈川県史』P.698・701。

*17:『太平記』巻10「塩飽入道自害事」