北条時連
北条 時連(ほうじょう ときつら、1175年〜1240年)は、鎌倉時代前期の武将。北条時政の3男で、北条政子・北条(江間)義時の異母弟。北条(大仏)朝直らの父。鎌倉幕府初代連署。仮名は五郎。
本項では、後に北条時房(- ときふさ)と改名するまでを扱う。
次の記事は、幕府御所において、三浦(佐原)義連を烏帽子親として元服した様子を伝える記事である。
文治五年四月小十八日庚寅〔ママ、己酉か〕。北條殿(=父・時政)三男 十五歳 於御所被加首服。秉燭之程。於西侍有此儀。武州。駿河守広綱。遠江守義定。参河守範頼。江間殿(=兄・義時)。新田蔵人義兼。千葉介常胤。三浦介義澄。同十郎義連。畠山次郎重忠。小山田三郎重成。八田右衛門尉知家。足立右馬允遠元。工藤庄司景光。梶原平三景時。和田太郎義盛。土肥次郎実平。岡崎四郎義実。宇佐美三郎祐茂等著座 東上 二品(=源頼朝)出御。先三献。江間殿令取御杓給。千葉小太郎成胤相代役之。次童形依召被参進。御前蹲居。次三浦十郎義連被仰可為加冠之由。義連頻敬屈。頗有辞退之気。重仰曰。只今上首多祗候之間。辞退一旦可然。但先年御出三浦之時。故広常与義実諍論。義連依宥之無為。其心操尤被感思食キ。此小童。御台所(=姉・政子)殊憐愍給之間。至将来。欲令為方人之故。所被計仰也。此上不及子細。小山七郎朝光。八田太郎朝重(=小田知重、知家の子 / 泰知の父)取脂燭進寄。梶原源太左衛門尉景季。同平次兵衛尉景高。持参雑具。義連候加冠。名字 時連五郎 云々。今夜加冠役事。兼日不被定之間。思儲之輩多雖候。当座御計。不能左右事歟。
烏帽子親子関係となった義連と時連の間で「連」の字が共有されており、義連から時連へ偏諱が与えられたと見受けられる。加冠役のことは事前に定められておらず、突如指名された義連は恐れ多いあまり辞退しようとしたが、将軍・頼朝が言うには、以前に上総広常と岡崎義実の諍いを宥めて止めたことを評価しており、自身の妻でもある政子が大変可愛いがっている(弟な)ので、将来を考えて頼りになる人にしようと、考えた末に決めたのだという。他にも自分ではないかと期待している者が多かっただろうが、頼朝のその場での配慮に、異議を唱える者は無かったと伝える。
▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、元服直後の21話から当時の名乗りで登場
ところが、建仁2(1202)年に時房と改名する。
『吾妻鏡』では次の箇所に時連から時房に改名した経緯についての記事が見られる。
建仁二年六月小廿五日戊戌。陰。尼御台所(=政子)入御左金吾(=左衛門督・源頼家 / 政子長男 / 2代将軍)御所。是御鞠会雖為連日事。依未覽行景已下上足也。此会適可為千載一遇之間。上下入興。而夕立降。遺恨之処。即属晴。然而樹下滂池〔沱〕。尤為其煩。爰壱岐判官知康解直垂帷等。取此水。時逸興也。人感之。申剋。被始御鞠。左金吾。伯耆少将(=藤原清基)。北條五郎。六位進(=盛景、姓不詳)。紀内。細野兵衛尉。稻木五郎。冨部五郎。比企弥四郎。大輔房源性。加賀房義印。各相替立。々〔ママ〕員三百六十也。臨昏黒。事訖。於東北御所有勤盃。及数巡。召舞女微妙。有舞曲。知康候鼓役。酒客皆酣。知康進御前。取銚子勤酒於北條五郎時連。此間。酒狂之余。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂抜群処。實名太下劣也。時連之連字者。貫錢貨儀歟。貫之依為哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。将軍直可被仰之云々。全可改連字之旨。北條被諾申之。
内容としては、酒に酔った平知康が時連に対し、容姿や行動は「抜群」なのだが、「実名 太(=甚だ)下劣なり」と指摘している。知康は「時連」の「連(つら)」が、銭貨を貫くの意味(実際、銭の単位に「貫」がある)或いは、和歌の名人・紀貫之を連想させるとして、将軍(=当時は2代・源頼家)が直々に(改名の旨を)仰せられるべきとも述べて、時連は「連」の字を改めることを承諾したと伝える。
尚、翌26日条には、姉・政子がこの知康の言動や、彼を側に置いて承諾した長男・頼家に対し怒りを見せる場面が見られる。
【史料C】『吾妻鏡』建仁2年6月26日条
建仁二年六月小廿六日己亥。陰。尼御台所(=政子)令還給。昨日儀。雖似有興。知康成獨歩之思。太奇恠也。伊予守義仲襲法住寺殿。依致合戦。卿相雲客及耻辱。其根元。起於知康凶害也。又同意義経朝臣。欲亡関東之間。先人殊令憤給。可被解官追放之旨。被経奏聞訖。而今金吾(=頼家)忘彼先非。被免昵近。背亡者御本意之由。有御気色云々。
(参考ページ)