Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条義時

北条 義時(ほうじょう よしとき、1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。鎌倉幕府第2代執権。

北条時政の次男。母は伊東入道(=祐親か)の娘と伝わる(『前田本平氏系図』)*1。通称および官途は 江間小四郎、相模守、右京権大夫 兼 陸奥守。法名は観海 または 徳崇とも。

 

本項では「義時」の名乗りについて述べたい。

北条氏代々の通字「時」に対し、その上(1文字目)に戴く「」の字は烏帽子親からの偏諱と考えられるが、細川重男は三浦氏三浦義明 または 三浦義澄)からの一字拝領ではないかとする見解を説かれている*2。尚、「義」の字は、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から賜って*3以来、三浦氏代々の通字となっていた。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年) でも、北条義時(写真手前)と三浦義村は従兄弟(伊東祐親の孫)同士にして盟友関係。

 

系図類によれば、三浦氏でも義村の母が「伊東入道女(=娘)」であったと伝えられる(『諸家系図纂』、『系図纂要』、『佐野本 三浦系図』)*4。すなわち、北条時政・三浦義澄の父同士が伊東祐親の娘婿として親交があったとされ、義時の烏帽子親を務めるきっかけとなったのであろう。その参考として、義澄の末弟・義が義時の弟・(のちの時房)、義澄の子・義が義時の子・政の烏帽子親を務めた記録が『吾妻鏡』に残されている。息子同士にしてほぼ同世代であったと思われる義時と義村もまた、盟友的な関係にあったとされ、反対に義村の子・は「元服之時北条(義時の子)加冠、授諱字(「佐野本三浦系図」)*5だったようである。

 

2代執権を務めた晩年期には、元服時の烏帽子親として「」の字を安達に与えたと考えられている*6

 

その他、生涯・事績について以下のページをご参照いただきたい。

 

(参考ページ)

 北条義時 - Wikipedia

 北条義時とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪

 名前のややこしさ、そして偏諱という補助線 – 徳田神也のblog

 

脚注

*1:『大日本史料』5-22 P.258

*2:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。

*3:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*4:大日本史料』5-14 P.4075-22 P.115P.133

*5:『大日本史料』5-22 P.134今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。

*6:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.330。