北条義時
北条 義時(ほうじょう よしとき、1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。鎌倉幕府第2代執権。
北条時政の次男。母は伊東入道(=祐親か)の娘と伝わる(『前田本平氏系図』)*1。通称および官途は 江間小四郎、相模守、右京権大夫 兼 陸奥守。法名は観海 または 徳崇とも。
本項では「義時」の名乗りについて述べたい。
北条氏代々の通字「時」に対し、その上(1文字目)に戴く「義」の字は烏帽子親からの偏諱と考えられるが、細川重男氏は三浦氏(三浦義明 または 三浦義澄)からの一字拝領ではないかとする見解を説かれている*2。尚、「義」の字は、三浦為継(為次)の子・義継(義次)が 源義家から賜って*3以来、三浦氏代々の通字となっていた。
▲NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022年) でも、北条義時(写真手前)と三浦義村は従兄弟(伊東祐親の孫)同士にして盟友関係。
系図類によれば、三浦氏でも義村の母が「伊東入道女(=娘)」であったと伝えられる(『諸家系図纂』、『系図纂要』、『佐野本 三浦系図』)*4。すなわち、北条時政・三浦義澄の父同士が伊東祐親の娘婿として親交があったとされ、義時の烏帽子親を務めるきっかけとなったのであろう。その参考として、義澄の末弟・義連が義時の弟・時連(のちの時房)、義澄の子・義村が義時の子・政村の烏帽子親を務めた記録が『吾妻鏡』に残されている。息子同士にしてほぼ同世代であったと思われる義時と義村もまた、盟友的な関係にあったとされ、反対に義村の子・泰村は「元服之時北条泰時(義時の子)加冠、授諱字」(「佐野本三浦系図」)*5だったようである。
2代執権を務めた晩年期には、元服時の烏帽子親として「義」の字を安達義景に与えたと考えられている*6。
その他、生涯・事績について以下のページをご参照いただきたい。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪
● 名前のややこしさ、そして偏諱という補助線 – 徳田神也のblog
脚注
*2:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。
*3:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。
*4:『大日本史料』5-14 P.407、5-22 P.115・P.133。
*5:『大日本史料』5-22 P.134。今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。
*6:福島金治 『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.330。