大原頼重
佐々木 頼重(ささき よりしげ、1236年頃?~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将・御家人。通称および官途は 三郎、左衛門尉。
宇多源氏佐々木氏の支流・大原氏の祖である佐々木(大原)重綱の子(3男か?)。源頼重、大原頼重とも呼ばれる。
まず、父・重綱(1207 - 1267)*1について、『吾妻鏡』での登場箇所を次の表に掲げる。
年 |
月日 |
表記 |
承久3(1221) |
6.14 |
信綱……子息太郎重綱 |
貞応元(1222) |
7.3 |
佐々木太郎兵衛尉重綱 |
嘉禄元(1225) |
12.20 |
佐々木太郎左衛門尉 |
安貞2(1228) |
7.23 |
佐々木太郎左衛門尉 |
7.24 |
佐々木太郎左衛門尉重綱 |
|
寛喜3(1231) |
8.15 |
近江太郎左衛門尉重綱 |
天福元(1233) |
1.2 |
近江太郎左衛門尉 |
8.15 |
佐々木太郎左衛門尉 |
|
寛元元(1243) |
11.1 |
佐々木太郎左衛門尉重綱法師 |
初出当時15歳で「太郎重綱」と名乗っていたことになるが、元服してさほど経っていないタイミングで十分妥当であると判断される。翌年16歳で兵衛尉、19歳で左衛門尉の官職を得ていることも任官年齢として一般的で問題ないと思う。
『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)を見ると、重綱の息子に長綱、頼重、秀綱……と載せられている。現実的な親子の年齢差を考えれば、彼らの生年は1227年以後であったと判断すべきであろう。
『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条「近江四郎左衛門尉氏信 同(=近江)左衛門太郎長綱」の通称は「近江守の息子・左衛門尉の太郎(長男)」を表しており、近江守信綱の子・太郎左衛門尉重綱の長男である佐々木長綱に比定される*3。のちの例にはなるが、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条には重綱の弟・佐々木泰綱(佐々木壱岐前司)の息子頼綱が9歳で元服した記事が見えるので、長綱もほぼ同年齢で行ったとすれば、生年は1227~1229年頃であったと推定できる。
続いて、頼重について『吾妻鏡』での登場箇所を次の表にて掲げる。
年 |
月日 |
表記 |
嘉禎元(1235) |
2.9 |
|
嘉禎2(1236) |
8.4 |
|
8.9 |
||
宝治2(1248) |
1.3 |
佐々木三郎左衛門尉 |
弘長元(1261) |
8.15 |
近江三郎左衛門尉 |
弘長3(1263) |
4.14 |
近江三郎左衛門尉 |
4.26 |
近江三郎左衛門尉頼重 |
|
8.9 |
近江三郎左衛門尉頼重 |
|
8.15 |
近江三郎左衛門尉頼重 |
先に結論を述べる形になるが、ここで注意しなければならないのは、※印を付けた嘉禎年間の「近江三郎左衛門尉」については頼重ではないということである。長綱の弟であれば、およそ1230年以後の生まれになるが、1235年に6歳以下で元服と左衛門尉への任官を済ませていたことになり、いくら何でもあり得ない話である。嘉禎年間において兄の長綱が無官で「太郎」と名乗るのみであるのに対し、弟の三郎頼重が先に左衛門尉に任官していたことにもなるため、誤りと判断して良かろう。
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嘉禎年間の「近江三郎左衛門尉」は、正しくは長綱・頼重らの叔父にあたる前述の佐々木(六角)泰綱に比定されるだろう。『吾妻鏡人名索引』では、寛喜元(1229)年10月22日条「佐々木三郎」から嘉禎3(1237)年6月23日条「近江大夫判官泰綱」にかけての空白期間にあたり*5、近江守信綱の "三郎(3男)" 泰綱が左衛門尉に任官したばかりの頃はそう呼ばれたのであろう。「大夫判官」とは、衛門府内に置かれた検非違使庁の尉(六位相当)で五位に任ぜられた者の呼称であり*6、左衛門尉であった泰綱が叙爵(従五位下への昇叙)してから呼称が変化したことが窺える。尚、同じく嘉禎年間の前述「近江四郎左衛門尉氏信」は泰綱の弟・佐々木(京極)氏信である。
よって、頼重の『吾妻鏡』初見は宝治2年正月3日条「佐々木三郎左衛門尉」となる。この年(年頭)に父・重綱と同年齢での左衛門尉任官であったと仮定した場合、逆算すると1230年生まれとなり、前述の考察と合致する。
【表A】に「佐々木太郎左衛門尉重綱法師」とある通り、父・重綱が左衛門尉のまま、国守に任官しない段階で出家したため、【表B】にあるように頼重が祖父・信綱の官途に因んで「近江三郎左衛門尉」と呼ばれるようになったというわけである。
*『吾妻鏡』において、かつて "近江三郎左衛門尉" と呼ばれていた泰綱は前述の通り、「近江大夫判官」を経て壱岐守任官・退任に伴い「佐々木壱岐前司」と表記が変化し、その嫡男・頼綱は「(佐々木)壱岐三郎左衛門尉」と呼ばれた。"近江四郎左衛門尉"氏信はその後対馬守に任官したため、長男・頼氏は「(佐々木)対馬太郎左衛門尉」と書かれるようになった。『分脈』によると高信も隠岐守となったらしく、この頃「近江」を付すことができたのは重綱の系統・大原氏のみとなる。
ここで「頼重」の名に着目すると、父から継承した「重」の字*7に対し、「頼」は烏帽子親からの一字拝領の可能性がある。元服は多く10代前半で行われたから、その時期は5代執権・北条時頼在職期間(1246年~1256年)*8になると言って良く、「頼」もその偏諱を賜ったものと判断できよう。従弟にあたる前述の佐々木(六角)頼綱も時頼の邸宅で元服しその1字を拝領した様子であり、頼重の弟で後継者となる時綱も時頼の嫡男である8代執権・北条時宗の一字拝領とみられることは次の記事で紹介の通りである。
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一部史料的根拠に弱い推測も入るが、筆者は次のように考える。
重綱の長男・長綱は1227年頃に生まれ、1237年11歳の頃に元服。次男は夭折か。3男・頼重は1236年頃に生まれ、北条時頼が執権となったばかりの1246年頃に11歳位で元服。
ところで紺戸淳氏は、御家人10氏(11系統)を取り上げ、北条氏得宗家から継続的に一字を拝領してきたことを考証された上で、それらの氏族について「嫡流の地位と、得宗家との烏帽子親子関係と、氏族相伝の職の帯有とはいずれもが不可分であり、嫡流を嗣ぐべき者のみが得宗家との烏帽子親子関係、および相伝の職帯有の資格を持った」と説かれている*9。その氏族の中に佐々木氏の六角・京極両流を含めており、大原流にも同じ傾向が当てはまるのではないか。
佐々木哲氏の紹介*10によれば、沙沙貴神社所蔵「佐々木系図」に、長綱が不孝であったため家督を継承できなかったとあるようで、紺戸氏の見解も併せて考えれば頼重が重綱の後継者であったことは間違いないようである。
また、『分脈』を見ると頼重の女子の注記に「佐々木対馬守時綱妾 数子母」とあり、頼重が年の離れた弟・時綱を婿養子とする形で跡を継がせたようであり、時綱の子孫が大原氏として続いている。よって前述の通り「頼重―時綱」が大原氏嫡流として北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んだと考えて良いだろう。
(参考ページ)
● 武家家伝_大原氏
脚注
*1:佐々木重綱 - Wikipedia、佐々木重綱(ささき しげつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.238「重綱 佐々木」の項 より。
*3:『吾妻鏡人名索引』P.350「長綱 佐々木」の項 より。
*4:『吾妻鏡人名索引』P.427「頼重 佐々木」の項 より。
*5:『吾妻鏡人名索引』P.317「泰綱 佐々木」の項 より。
*6:大夫の判官(たいふのほうがん)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*7:この字については、重綱が外祖父である川崎為重(渋谷重国の兄弟・中山重実の子)から偏諱を受けたものではないかとする見解がある(→ 澁谷氏 ~秩父党~ #渋谷重国)。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.22。