河越重時・泰重・経重 最新経歴表
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以前の記事▲で河越氏が代々北条氏得宗の一字(偏諱) を賜っていたことを紹介した。
本項ではその得宗からの偏諱を頼りにおおよその元服の年次を推測し、それに基づいて、『吾妻鏡人名索引』*1等に見える河越泰重・経重 父子の各経歴当時の年齢を以下のように推定した。
依然として正確な生没年を特定するのは困難であるが、親子の年齢差など現実的なところでもよく噛み合っており、これによっておおよその年代・世代が掴めるのではないかと思われる。尚、泰重項の正確さを裏付けるため、『吾妻鏡』での父・河越重時の登場箇所も合わせて掲載する。
河越 重時(しげとき)
『吾妻鏡人名索引』による『吾妻鏡』での登場箇所は以下の通りである。
●元久2(1205)年6月22日条:「河越次郎重時」(初出)
●建保4(1216)年7月29日条「河越次郎重時」
●承久元(1219)年 1月27日条「河越次郎重時」 7月19日条「河越次郎」
●安貞2(1228)年7月23日条「河越次郎」(= 泰重 ※)
※ 嘉禄2(1226)年4月10日に重時の弟・重員が、かつて父の重頼が帯し、その後秩父平氏嫡流の畠山重忠に継承されていた「武蔵国留守所惣検校職」に任じられている*2ことから、この段階で重時が亡くなっていたと考えられている。この「河越次郎」は重時ではなく、嫡男の泰重であるようだ。
●建長2(1250)年3月1日条:『吾妻鏡』「河越次郎跡」…既に死去。
河越 泰重(やすしげ)
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●「泰」の偏諱、『吾妻鏡』での初出の年、子・経重との関係(下記参照)を考慮して、北条泰時の執権就任 (1224年) から間もない頃の元服か。
●安貞2(1228)年7月23日条(10代後半~20歳前後?):
『吾妻鏡』初出か(河越次郎)
*この「河越次郎」が泰重に比定されることは上記参照。「次郎」の名乗りは泰重が元服まもない頃で無官のためであったからと思われ、元服の時期や「次郎」を名乗ったことの裏付けになると言えよう。
●嘉禎元(1235)年6月29日条(20代?):
『吾妻鏡人名索引』初見(河越掃部助泰重)
*この前後あたりで嫡男・経重が誕生か。
●正嘉2(1258)年3月1日条:『吾妻鏡』「河越掃部助跡」…既に死去か。
*この2年前より嫡男・経重の活動が見られるので、数年前には泰重死去に伴う当主の交代があったものと推測される。
河越 経重(つねしげ)
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●1242~1246年(10代前半?):北条経時が執権在任中の元服か。
*1244年4月までは九条頼経が将軍の座にあり、彼から「経」字を受けた経時がそのまま他の御家人に与えてしまうとは考えづらいので、厳密には頼経解任後の1244~46年の間の元服であったと推測される。河越氏の他の当主が得宗の1字を受けたことはほぼ確実で、経重だけが将軍(頼経)を烏帽子親としたとは考えにくい。
●康元元(1256)年正月(20代前半?):『吾妻鏡』初出(河越次郎経重)
●弘長3(1263)年8月(30歳前後?):『吾妻鏡』(河越次郎経重)
●文永3(1266)年7月4日条(30代前半?):『吾妻鏡』「河越遠江権守経重」
*『吾妻鏡』での表記に従えば、30代前半ごろまで無官で「次郎」を名乗っていたようだ。
●文永8(1271)年(30代後半?):子・宗重誕生。
●文永9(1272)年(同上):貞重誕生。同じく経重の子か*3。
●弘安8(1285)年(50代前半?):豊後国国東郡香地郷地頭職「河越安芸前司」
*この頃までに遠江権守(→遠江守?)→安芸守→安芸前司(=前安芸守) と転任したのであろうか。1271年生まれの息子・宗重であったとは考えにくく、系図類の記載通り、経重であると考えられる。
●正応2(1289)年までに死去(享年50代)?:岩城邦男氏の説による*4。