葛西時清
葛西 時清(かさい とききよ、1215年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期~中期の武将、御家人。葛西氏宗家第3代当主。通称および官途は 小三郎、三郎、左衛門尉。
父は葛西清親。弟に葛西光清。子に葛西清経、女子(長尾景茂室、景忠母)*1。
"伯耆三郎左衛門尉"時清
『吾妻鏡人名索引』を見ると、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月3日条「伯耆三郎左衛門尉時清」および 建長8(1256)年6月29日条「伯耆三郎左衛門尉」が葛西時清に比定されている*2。
そもそもその通称名は、父が伯耆守で、自身は仮名(輩行名)が「三郎」、官職が左衛門尉であったことを示している。詳しくは後述するが、『吾妻鏡』を見るとこの当時の伯耆守に該当するのは清親であり*3、『尊卑分脈』後藤基頼の注記に「母葛西伯耆守清親女」とあることから、葛西氏と分かる。
また、『奥山庄史料集』所収「桓武平氏諸流系図」(【図A】)でも伯耆守清親の子に三郎左衛門時清を載せており、『吾妻鏡』はその実在を証明するものとなる。
次男 号六郎大夫 平■仗 豊島三郎 左衛門尉 四郎
将恒―――武恒―――経家――康家――+―清元―+―有経 +―重元
武蔵権守 | | 壱岐三郎 | 伯耆守 三郎左衛門
| +―清重――――+―清親――――時清
| | 笑田四郎 | 六郎左衛門
| +―有元 +―朝清
| | 豊島五郎 | 七郎左衛門
| +―家員 +―時重
| | 八郎左衛門
| +―清秀
| 豊島四郎 兵衛尉
+―俊経――――遠経
|
+―平塚入道
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更に裏付けるならば、「…左衛門尉時清」記事と同年の建長4年11月11日条には、将軍家御出供奉の一人として「伯耆左衛門三郎清経」が現れており*5、清親も清経も葛西氏の系図上で見られる名前である。葛西氏において「三郎」は、本来の3男の意味というよりは、清元以来の惣領代々の称号と化していたとみられ、時清も清経もその継承者であったと見なせる。清経の通称名は「伯耆左衛門(尉)」の「三郎」を表しており、時清の嫡男であったと推測できよう。
*「仙台葛西系図」では清親の子、清経の父にあたる人物として清時の記載があるという*6。葛西清時なる人物が別にいたことは後述するが、単に字を逆転させた誤記だとすれば、「清親―時清―清経」という系譜の傍証になり得るだろう。
尚、「伯耆三郎左衛門尉時清」と同時期(建長年間)に現れる「伯耆四郎左衛門尉光清(=葛西光清)」はその名乗り方からして清親の子、時清の弟と見なせる。
年 |
月日 |
表記 |
宝治2(1248) |
8.15 |
伯耆四郎左衛門尉光清 |
建長2(1250) |
8.18 |
伯耆四郎左衛門尉 |
12.27 |
伯耆四郎左衛門尉 |
|
建長4(1252) |
8.14 |
伯耆四郎左衛門尉光清 |
建長5(1253) |
1.16 |
伯耆四郎左衛門尉光清 |
建長8(1256) |
6.29 |
伯耆四郎左衛門尉 |
弘長元(1261) |
8.5 |
伯耆四郎左衛門尉 |
弘長3(1263) |
7.13 |
伯耆四郎左衛門尉 |
時清や清経と同時期に登場する、建長4年4月14日条の「伯耆左衛門四郎清時(=葛西清時)」も、その名乗り方からして、時清または光清の子と見なせる。
*前述の光清とは「四郎」や「左衛門尉」の通称が共通するが、「伯耆左衛門尉の四郎」と「伯耆四郎かつ左衛門尉」では意味が異なっており、別人として扱うべきである。
"壱岐小三郎左衛門尉"時清
ところで、『吾妻鏡』を見ると "伯耆三郎左衛門尉時清" の登場前に、「三郎」の仮名と「時清」の実名が共通する人物が以下の箇所に登場する。
【表C】*8
年 |
月日 |
表記 |
嘉禎元(1235) |
6.29 |
壱岐三郎時清 |
嘉禎3(1237) |
4.22 |
壱岐小三郎左衛門尉 |
6.23 |
壱岐小三郎左衛門尉時清 |
|
嘉禎4(1238) |
2.17 |
壱岐小三郎左衛門尉 |
2.28 |
壱岐小三郎左衛門尉時清 |
|
6.5 |
壱岐小三郎左衛門尉時清 |
|
仁治元(1240) |
8.2 |
壱岐小三郎左衛門尉 |
結論から言えば、この時清も葛西氏と見なせる。
冒頭で示したように、葛西時清が「伯耆三郎左衛門尉」と呼ばれるためには、父・清親が伯耆守に任官済みであることが前提となる。従って、仁治元年8月の段階でさえ、清親はまだ伯耆守に昇進していなかったことになる。
しかし、翌2(1241)年3月17日条「伯耆前司」が清親のこととされ*9、以後「伯耆四郎左衛門尉光清」や「伯耆三郎左衛門尉時清」の名が現れるのである。
『吾妻鏡』暦仁元(1238)年2月17日条には4代将軍・九条頼経の上洛時の随兵42番に「壱岐小三郎左衛門尉」と「壱岐三郎左衛門尉」が別々に書かれている。時清は父「三郎」と区別されて「小三郎」と呼ばれたのであろう。
似たような例としては、父の "河越太郎" 重頼に対して "小太郎"と呼ばれた河越重房、父の "北条四郎" 時政に対して "小四郎"と呼ばれた北条義時、父の "武田五郎" 信光に対して "小五郎"と呼ばれた武田信政などが挙げられる。
研究の中には「壱岐小三郎左衛門尉」が壱岐守葛西清重の息子とする見解もある*10が、父・清親が国守(伯耆守)の官途を得ていなかった間は祖父・清重の官途が付されていたと考えて問題ない*11。従って「三郎」嫡流家の正しい系譜は【図A】の通り「清重―清親―時清」であったと判断される。
尚、嘉禎元(1235)年の時清初見時の「壱岐三郎時清」表記は、父が「壱岐三郎左衛門尉清親」と名乗っていたため、特に「小三郎」と区別する必要がなかったのであろう。
*『吾妻鏡』寛元元(1243)年7月17日条「葛西三郎左衛門尉」について、『吾妻鏡人名索引』では清重に比定するが、清重は壱岐守となって出家した上にこの頃は故人で*12、清親も前述の通り伯耆守を辞して「伯耆前司」と呼ばれていたから、これも時清に比定されよう。同様に「小三郎」と呼ぶ必要は無かったと考えられる。
嘉禎元年当時の時清は左衛門尉任官前で無官であったことが分かるが、元服からさほど経っていなかったためであろう。
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息子の清経は22歳(数え年、以下同様)となった建長8(1256)年から「伯耆新左衛門尉」と呼ばれるようになっており、葛西氏における左衛門尉任官年齢の目安になるだろう。
時清は、表記が変わる間の1236年に左衛門尉の官途を得たと仮定すると、1215年頃の生まれと推定可能である。息子・清経との年齢差もちょうど良く、1238年生まれの後藤基頼の母方のおじとしても十分妥当である。
清経は18歳の時に「伯耆左衛門三郎清経」と実名で現れるので、これ以前に元服したことは確実で、その名から8~12歳で4代執権・北条経時を烏帽子親として加冠の儀を行ったと判断される。
時清も同じくらいの年齢で元服を遂げたとすれば、当時の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*13の偏諱「時」を賜ったと考えて間違いないと思う。泰時の代には他の御家人がこぞって泰時に加冠や偏諱を求めており、恐らくは父・清親の意向と思われるが、葛西氏もこの流れに乗っかったことが窺える。
(参考ページ)
脚注
*1:葛西時清 - Wikipedia より。典拠は『群書系図部集 4』。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.198「時清 葛西」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*3:『吾妻鏡人名索引』P.287「清親 葛西」の項 より。
*4:千葉氏の一族 #葛西清重 より引用。
*5:『吾妻鏡人名索引』P.284「清経 葛西」の項 より。
*6:葛西時清 - Wikipedia より。
*7:『吾妻鏡人名索引』P.131「光清 葛西」の項 より。
*8:『吾妻鏡人名索引』P.197「時清(※姓不詳)」の項 より。
*9:注3箇所によれば、実名の初見は寛元2(1244)年8月15日条「伯耆前司清親」。宝治元(1247)年12月29日条にも「葛西伯耆前司」とあって葛西清親と認められる。
*11:同様の例としては伯耆守葛西清親の孫 "伯耆左衛門三郎→伯耆新左衛門尉" 清経、陸奥守北条義時の孫 "陸奥太郎" 実時、陸奥守北条重時の孫 "陸奥孫四郎" 義宗、陸奥守安達泰盛の孫 "陸奥太郎" 貞泰 など多数確認される。
*12:『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条に「葛西壱岐入道跡」とあり、この時には既に亡くなっていたことが窺える。
*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。