河越高重
河越 高重(かわごえ たかしげ、1300年代初頭? - 1340年頃?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、河越氏嫡流の当主。通称は次郎。三河守。
本項は、Wikipediaに準拠し、法名:円重といった誤りの指摘や、経歴の追加など、史料・文献等の再分析による高重についての筆者独自の論考である。
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こちらの記事▲では、北条氏得宗家の偏諱を受けていたことを中心に、鎌倉時代の河越氏についてご紹介した。
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そして、こちら▲の記事では鎌倉時代初期の河越氏当主についてその年代(世代)を推定した経歴表を載せている。上記2記事も合わせて参照いただければと思う。
鎌倉幕府滅亡時の河越氏 と 高重
【史料A】建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」*1より一部抜粋
定廂結番事、次第不同、
番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕
刑部大輔義季 長井大膳権大夫廣秀
左京亮 仁木四郎義長
武田孫五郎時風 河越次郎高重
丹後次郎時景
二番
( 以下略 )
『建武記』(『建武年間記』)には関東廂番(ひさしばん)の一番の一人として「河越次郎高重」の存在が確認できる。河越氏嫡流の通称である「河越次郎」*2を名乗っていることから、系図上では貞重の嫡男に位置付けられる*3。
「次郎」という通称名からすると、この当時は若年かつ無官であったと考えられるので、子とされる直重(1320年代後半の生誕か、後述参照)との関係も考慮して、1300年代の生まれではないかと思われる。ここから元服の年次を推定すれば、北条高時が得宗家当主であった1311~1333年の間となり、「高重」の名乗りはその偏諱を受けたものとみなして良いだろう*4。
佐野本「秩父系図」には三河守貞重の子・高重の注記に「三河守、法名円重、元弘乱時、預平宰相成輔伴下于関東、」とある*5が、これは『太平記』に、元弘の変(1331年)の折、斬罪の処分が下った平成輔を鎌倉まで護送する役目を担った人物として登場する「河越三河入道円重」*6のことを記したものであろう。しかし、実際の史料によって当該期の「河越三河入道」=「川越参河入道乗誓」=貞重であることが明らかになっている*7から、この「河越三河入道円重」も貞重であろう*8。冒頭に掲げた通り、後に「河越次郎」として現れる高重がこの当時出家して「入道」を称するはずはないのである。『太平記』は本来軍記物語であるから「円重」は創作の法名なのかもしれない。
その代わり、同じく『太平記』には元弘3(1333)年5月16日の分倍河原の戦いで「三浦大多和平六左衛門義勝」(=大多和義勝)が新田義貞側に寝返った際、その軍勢に河越氏が加わっていることが見える*9。恐らくこの河越氏を率いたのは六波羅探題に殉じた貞重 (乗誓) に代わり当主となった高重だったと推測される*10。上洛した父に万一のことがあった際に備え、鎌倉に残っていたのだろう。
近年の研究によれば、義勝(義行)*11は足利家臣の高氏から養子入りした人物であり、鎌倉幕府側からの寝返りの背景には、六波羅探題を陥落させた足利高氏(のちの尊氏)からの指令があったと解釈されている*12。八代国治氏の説によれば、河越荘の本家が後醍醐天皇であったので、「本家の護りと共に自家の本知を堅固に持ちこたえる」目的が元々あったようだが、それ以上に「転機にさしかかった天下の形勢に順応しよう」と、父・貞重の敗死を悟った高重も鎌倉幕府を見放したのであろう*13。
建武政権下の高重 と 河越直重
鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政では、足利尊氏の弟・直義が相模守として後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に赴き鎌倉将軍府を成立させ、1334(元弘4 / 建武元)年正月には成良の護衛として関東廂番が置かれた。高重が関東廂番となったことは冒頭に前述した通りで、恐らくこれが「次郎高重」という名前の初出である。
角田朋彦氏の説によれば、廂番の一人として高重は足利氏との関係を深め、高重の嫡男とみられる次代当主・河越直重の名はその頃に元服して直義の偏諱を受けたものであるという*14。武蔵・河越氏館に掲示の系図(冒頭前掲記事にも掲載)やはてなキーワードでは直重を高重の子として「なおしげ」と読ませている*15が、直重は「ただしげ」と読むのが正確であろう。この当時元服の適齢(10~15歳程度)であったと考えると、直重はおおよそ1320年代後半の生まれとみられ、その場合現実的に考えれば父の高重は1300年代の生まれとなる。30歳頃まで「次郎」を称したのは祖父の経重と同様ということになる*16。
その後中先代の乱を経て、足利尊氏が建武政権から離反すると(いわゆる延元の乱 / 建武の乱、1336年)、後醍醐天皇より尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞の軍勢が、相模国箱根で足利直義の軍勢と合戦(箱根・竹ノ下の戦い)、義貞に従った武将の中に「川越三河守」の名が確認される*17。鎌倉時代末期の「河越三河入道(貞重・円重・乗誓)」は既に亡くなっているので、これは亡き父と同じく三河守となった高重*18であったと考えるのが妥当であろう。実際のところはどうやら建武政権側の命令により動いていたものであったらしい*19。この戦いは義貞軍が直義軍を押し気味で戦局が展開するが、最終的には竹ノ下方面で優勢となった足利方の勝利に終わっている。
以降、高重と思わしき人物の活動は確認できない。
1345(康永4・貞和元 / 興国6)年8月16日の除目で、「平直重」なる人物が天龍寺造営の功として従五位下・出羽守に任ぜられていることが確認されている*20。この直重は河越氏(=河越直重)と考えられており、これ以前に高重から直重への当主の交代があったとみられている*21。
高重の子について
冒頭前掲の記事に紹介した中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図には高重の子として、某(次郎、此時亡)と 女子(佐竹伊予守義愛妻、覚海妙真)の二人を載せる。
まず女子について、「佐竹伊予守義愛妻」とあるが "佐竹義愛" なる人物は確認できず、代わりに同時期に義宣(戦国時代の佐竹義宣とは別人)が伊予守であったことが確認され*22、その嫡男・義盛 (1365-1407) の母が河越氏の女と伝わる*23から、「佐竹伊予守義宣妻(または義宣愛妻)」の誤記であろう。孫である佐竹義盛との年齢差を考えても、その母が河越高重の娘*24で問題ないと思う。
そして、次郎某についてだが、「此時亡」(この時亡びる(滅びる)、か)の注記は、河越氏についてこの人物の代で滅んだという意味で書かれたものであろう。先行研究では平一揆を率いた直重の代に河越氏が没落したと解釈されている*25から、某=直重と判断される。もしこれが正しければ、直重が高重の嫡男で、河越氏嫡流の通称「次郎」を称していたことの裏付けとなる。
まとめ(河越高重・最新経歴表)
●1300年代(~1310年頃)の生誕か。
*生まれた当時、父の貞重(のちの河越三河入道乗誓)は20代後半~30代前半であったと推測される。
●1311年~1320年代?(10代前半?):得宗・北条高時の加冠により元服、次郎高重と称す。
●1320年代後半?(20代前半?):この頃、直重誕生か。
●元弘元(1331)年(20代後半?):河越三河入道一族、幕府軍に属して上洛。高重も同行か?
●元弘3(1333)年5月9日(30歳前後?):近江国番場宿蓮華寺にて河越三河入道乗誓 (貞重) 自害。 → 後日、この一報を受け高重が家督継承か。
●同年5月16日:分倍河原の戦い。大多和義勝に同調し、新田義貞方へ(『太平記』)。
●元弘4(1334)年正月(30歳前後?):関東廂番(一番)。史料における "高重" の初見。
●建武2年12月(1336年1月)(30代前半?):箱根・竹ノ下の戦い。箱根で足利直義の軍勢と戦った新田義貞軍の中に「川越三河守」(『太平記』)。この時までに高重が三河守に任官か。
●年次不詳(30代?):この間に死去(或いは出家)か。家督は直重が継承。
●1345(貞和元 / 興国6)年8月16日:河越直重、天龍寺造営の功により従五位下・出羽守(『園太暦』)。
脚注
*1:『大日本史料』6-1 P.421。『南北朝遺文 関東編 第一巻』39号。
*3:冒頭前掲「鎌倉時代の河越氏」掲載の系図を参照。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.19。
*5:『川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.160。
*7:これについての詳細は冒頭前掲「鎌倉時代の河越氏」を参照。
*11:太田亮 著『姓氏家系大辞典』p1214オホタワ条に掲載の「三浦系図」によれば、義綱の子に彦六郎義勝とあり、"平六左衛門" を通称としたのは義綱の兄・義行かその子・倫義のようである。『太平記』ではこれらを混同して書かれたのかもしれない。
*12:峰岸純夫『新田義貞』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2005年)P.56。
*14:関幸彦編『武蔵武士団』(吉川弘文館、2014年)P.123。
*15:直重の「直」が直義の偏諱と記す注14前掲箇所でも「なおしげ」と仮名が振ってあるが、"直重" の読みを確かめられる史料は見つかっていない。
*16:高重の父・貞重と経重の父子関係については鎌倉時代の河越氏、経重の経歴については当ブログ過去記事(最新経歴表)を参照のこと。
*19:注14前掲箇所。
*20:『園太暦』康永4年8月17日条に「出羽守平直重天龍寺造営功」とある。『南北朝遺文 関東編 第三巻』1579号。
*21:注14前掲箇所。
*22:安田元久編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.246「佐竹義宣(初名義香)」の項(執筆:新田英治)。
*23:前注同箇所および P.247「佐竹義盛」の項(執筆:新田英治)。
*24:本項では直重の生年を1320年代後半としたので、兄弟を右側から年長順で書く系図通りに捉えると直重の妹となって、その場合早くとも1330年代前半の生まれと推定されるが、子の義盛とはちょうど良い年齢差になると思われる。よって義盛の母は直重の妹と判断する。
*25:注14前掲著書、P.123~131。