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偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

京極頼氏

佐々木頼氏(ささき よりうじ、1242年~1297年2月1日)。鎌倉時代の武将、鎌倉幕府御家人。通称は対馬太郎、佐々木対馬太郎左衛門尉。左衛門尉。豊後守。

のちの京極氏となる家系に生まれ、京極頼氏とも呼ばれる。

佐々木氏信の長男。弟に範綱・満信・宗綱、子に氏綱・貞頼がいる。

 

 

北条時頼の烏帽子子

尊卑分脈』の頼氏の傍注には「永仁五二一死」、『系図纂要』にも「永仁五年二ノ一卒五十六」とあり、更に『続群書類従』所収の「佐々木系図」には「永仁五正卒、年五十六」と注記されている*1ので、命日(正月 or 2月1日)が異なるものの、1297年に56歳 (数え年) で亡くなったことは確かなようであり、逆算すると1242年生まれとなる*2

「氏」の字は父・氏信から継承したもので、「頼」が烏帽子親からの偏諱ということになろう。5代執権・北条時頼の代に活動が確認できるにもかかわらず、先行研究では時頼が執権および得宗家当主となる前から活動が確認できるという理由により、この「頼」の字は時頼とは関係がないとされてきた*3

 

改めて、『吾妻鏡』における頼氏および父・氏信の登場箇所を『吾妻鏡人名索引』*4によって表にまとめると次の通りである。 

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 「対馬太郎」とは父が対馬守で、その長男ということで付けられる通称名である。しかしながら、寛元年間の段階で氏信がまだ対馬守になっていないことは同じく上の表から明らかであり、当時の頼氏が「対馬太郎」を称するはずは無いのである。よって、寛元年間の「対馬太郎」は頼氏とは別人と判断されなくてはならない

すると、生年の翌年(1243年)から現れるという点、翌寛元2(1244)年から13年の間全く登場しないという点、この2点に関する不自然さも解消される。前述の生年に基づいて元服の年を推定すると1251~1256年*5となるが、当時の執権である時頼を烏帽子親として元服*6、1257年に初出すると考えて全く矛盾はない。

従って氏は、北条時から「」の偏諱を賜った人物であると考えて良いと判断される*7

よって、『吾妻鏡』における初出は、正嘉元(1257)年12月29日条の「対馬大郎頼氏」とするのが正しい。次に現れるのは、文応元(1260)年11月22日条「佐々木対馬大郎左衛門尉頼氏」であり、どうやらこの間に左衛門尉に任官したようだ。

  

分家を選んだ佐々木頼氏の立場と生涯

紺戸淳 氏は、得宗家の一字付与は特定の御家人嫡流との結合のみに利用されたとし、『尊卑分脈』以下の系図類で頼氏が嫡流の系統から外れており、頼氏が時頼の偏諱授与者でないという前提で、嫡男であった弟の綱が北条時偏諱を受けたとしていた*8

確かに、頼氏の系統が嫡流にならなかったのは事実のようであるが、前述の通り、頼氏は時頼の偏諱を賜っていた。もし紺戸氏の考えに基づくならば、頼氏は当初嫡流を嗣ぐべき者=嫡男であったことになる*9。しかし、のちの京極氏となる嫡流の地位は、弟・宗綱の系統に移っている。どう解釈すべきであろうか。

これは紺戸氏自身が紹介されている足利頼氏(初め利氏)の例が参考になるのではないか。すなわち、利氏の長兄にあたる家氏が当初、家督継承者が称する「足利三郎」を名乗っていたが、得宗家出身の母親を持つ利氏に嫡子の地位が移ったので、以後利氏が「三郎」、家氏が「太郎」を称し、利氏はのちに伯父・北条時頼偏諱を受けて「頼氏」に改名したという*10

同様に、母親の出身の違いによって、佐々木頼氏から将軍家右衛門佐(阿野実遠娘) を母に持つ佐々木宗綱に嫡男の地位が移ったと解釈しても決しておかしくはない。特に頼氏と宗綱の間で家督を巡る争いがあった史実は確認されないので、円満に解決されたものと推測され、以降は当主・宗綱の良き兄・補佐役として支えたものと思われる。 

 

弘安8(1285)年に霜月騒動が起こると、頼氏・宗綱兄弟は幕府側として安達氏らの討伐に加わって勝利に貢献し、各々恩賞として、宗綱は能登守、頼氏は豊後守に任官された。『吾妻鏡』以後の年代における頼氏の華々しい活動であり、系図類でもこぞってこのことを記している。

尊卑分脈』:「左門尉 豊後守、城陸奥入道追討之時依致合戦之忠預恩賞受領」

系図纂要』:「佐々木豊後守 城陸奥入道追討仍軍忠受領」

続群書類従』所収「佐々木系図*11:「追討城陸奥之賞、豊後守、」

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▲徳源院本「佐々木系図」か(https://www.arakawa-yasuaki.com/information/sasaki-kyogoku-ujinobu-graveyard.htmlより拝借)、この系図にも「豊後守 城陸奥入道追討時忠功励恩賞受領」とある。

 

*城陸奥入道… 秋田城介、陸奥守であった安達泰盛のこと霜月騒動の前年、北条時宗の死去に追随して出家し「覚真」と号した。

 

この頃であろうか、『尊卑分脈』以下の系図類によれば、宗綱の当初の嫡男であった佐々木時綱が父に先立って17歳で早世した。次いで後継者に指名された時綱の弟・貞宗は弘安10(1287)年生まれで、その当時はまだ幼少であったので、存命であった父・氏信と共に、そうした不安定な家庭状況の中でも頼氏の存在は欠かせなかっただろう。 

 

父の死から数年も経たない1297年、56歳で死去。弟の宗綱も後を追うかの如く、同年9月に亡くなっている。

▲清瀧寺徳源院 内、京極氏歴代の墓の配置図。画像は https://signboard.exblog.jp/25724750/ より拝借。

 

生前、氏信が弘安9(1286)年に建立し、その後京極家歴代の菩提寺となった清瀧寺徳源院には、弟・宗綱以降の歴代当主に並んで頼氏の墓もある。このことからも頼氏が当時の佐々木氏において重要な人物であったことが窺える。氏信・頼氏父子が家督継承者の宗綱をよく支え、その後の京極氏の基礎を築いたのである。

 

備考

父・氏信について

系図纂要』の傍注には「……康元元年 辞使従五下対馬守…(中略)…永仁三年八ノ十三卒七十六」と書かれており、『続群書類従』所収の「佐々木系図」にも「対馬近江守…(中略)…永仁三五三卒、七十六歳」と、命日以外はほぼ同じ内容で注記されている。同様の内容は『尊卑分脈』でも確認できる。

康元元年から対馬守であったことは『吾妻鏡』の記載に一致し、永仁年間に76歳で亡くなっていることは、冒頭の頼氏の生年を裏付けるものとなる。

 

寛元年間の対馬守について

では、寛元年間の「対馬太郎」は誰なのか、その父にあたる当時の対馬守を推定する必要がある。近い時期に対馬守(または前対馬守)であった人物は以下のように確認された*12

 

矢野 (三善) 倫重

嘉禎3(1237)年1月24日「対馬守」(『関東評定衆伝』)

仁治元(1240)年1月15日「対馬前司」(『吾妻鏡』初見)

寛元2(1244)年6月4日「前対馬従五位上三善朝臣倫重死去年五十五」(『吾妻鏡』)

対馬前司(人物不詳):寛元2(1244)年7月16日 ~ 20日 (『吾妻鏡』)

矢野 (三善) 倫長

建長3(1251)年1月22日「対馬守」(『関東評定衆伝』、『吾妻鏡』では同年6月5日初見)、建長4(1252)年4月30日「対馬前司」(『吾妻鏡』初見)

 

矢野倫重(ともしげ)は死ぬまで対馬前司(=前対馬守)と呼称されており、 寛元年間当時の「前対馬守」が倫重であったことが分かる。従って、当時の対馬守は倫重の次に任官された人物となり、倫重の死去からわずか1ヶ月後の段階で対馬守を辞している「対馬前司」と同人と考えて良いだろう。

ちなみに、倫重の子・倫長(ともなが)*13ものちに対馬守となったが、直ちに継承したわけではないようである。細川氏のまとめでは承元4(1210)年生まれで兵庫充・少外記・筑前介を歴任し*14、『吾妻鏡』でも寛元年間当時「外記大夫」と呼ばれていた*15ようなので、倫長が前対馬守の子として「対馬太郎」と呼ばれたとするのは難であり、やはり倫長とも別人ということになる。

残念ながら、これ以上は手掛かりがなく人物特定は困難であるが、倫重の次に対馬守となった、寛元2年7月に見える「対馬前司」の長男が、同年1~2月に活動を見せる「対馬太郎」だと分かった。佐々木氏信が対馬守となるのは矢野倫長よりもずっと後の事であり、頼氏に比定していた『吾妻鏡人名索引』が誤っていたのである。 

 

脚注

*1:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.179。

*2:これは父・氏信との関係からみても妥当な時期である。氏信の生きた年代については本文の備考①を参照のこと。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.17・18・26。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*5:前掲紺戸氏論文の手法に従い、元服の年齢を数え10~15歳と仮定した上での算出。参考までに、同年生まれの従兄弟、佐々木(六角)頼綱の場合は1250年に9歳で元服したことが『吾妻鏡』建長2年12月3日条に見える。

*6:当時の将軍は1252年4月を境に5代・九条頼嗣、6代・宗尊親王である。前注に掲げた頼綱についてはこちらの記事を参照。

*7:子の貞頼も北条貞時偏諱授与者であったと推測される。

*8:前掲紺戸氏論文・同箇所。

*9:頼氏の弟で宗綱の兄である範綱と満信は明らかに得宗偏諱を受けていない。範綱は別名「範頼」とも伝えられ、同様に時頼の偏諱を受けた可能性もあるが、偏諱を下に置くその名乗りから庶子扱いであったとみられる。満信(初め満綱)の場合は「綱」が佐々木氏の通字、「信」が父・氏信から継承した字であるから、「満」が烏帽子親からの偏諱とみられるが、姉または妹の嫁ぎ先である吉良満氏からではないかと思われる(字の由来は満氏の祖先にあたる源満仲か)。

*10:前掲紺戸氏論文、P.13。

*11:注1前掲箇所。

*12:前掲『吾妻鏡人名索引』P.507、第Ⅱ部-(1) 通称・異称索引「対馬守」および「対馬前司」の項目 に拠った。矢野父子については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」No.181・182も参考とした。

*13:前掲細川氏著書、P.412に掲載の康信流三善系図より。

*14:前掲細川氏著書「鎌倉政権上級職員表」No.182。

*15:寛元2年4月21日条。前掲『吾妻鏡人名索引』P.448 に拠る。