Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越頼章

北条 頼章(ほうじょう よりあきら / よりあき、1245年~1256年)は、鎌倉時代中期の武将。

名越嫡流を継いだ名越時章の次男で、名越頼章(なごえ ー)とも呼ばれる。

 

 

 

頼章の生涯 

1245年、生誕か。 

『福富家文書』所収の「野津本 北条系図」 より

左近大夫

頼章 十二叐亡云々 イ

 尾張守時章(『吾妻鏡人名索引』ほか)の子として「尾張三郎」と呼ばれた頼章(後述参照)と同時期に、公時(きみとき)が「尾張次郎」と呼ばれている(『吾妻鏡人名索引』)ことから、各系図類の通り兄であることは間違いなく、その生年は嘉禎元(1235)年である*1から、これ以後の生まれであることも確実である。

上に示したが如く、鎌倉時代当時に書かれたという『野津本北条系図*2での注記に「十二叐亡云々」*3とあり、後述するが『吾妻鏡』に頼章死去の記事が見られるので、12という数字は逝去時の年齢(享年)を伝えるものと考えて良いだろう。逆算すると寛元3(1245)年の生まれとなる。次男でありながら、公時より10歳下と年の離れた弟だったようだ。

鎌倉時代中期までの一次史料『吾妻鏡』では、次に掲げる3箇所に登場する。 

 

 

1254年8月15日:鶴岡八幡宮放生会で将軍随行役。

吾妻鏡』より

建長六年八月小十五日乙酉。陰。鶴岡放生會。巳尅小雨降。將軍家御出於南面階間。爲親朝臣候御秡。陪膳伊与中將公直朝臣。役送左近大夫政茂。御出行列。

(中略)

御後 布衣
 相摸右近大夫將監時定   尾張三郎頼章

(以下略)

 「章」の初見である。前述に従えばこの当時数え10才で、「三郎」という無官の通称名から、元服して間もないことが分かる。

名乗りに着目すると「章」は父・時章から引き継いだもので、一方で当時の執権・北条時偏諱」を許されていることから、時頼の加冠により元服した可能性が高い*4。時章は名越流の中でも得宗に協調的であり、その一環として時頼に息子の烏帽子親を願い出たのかもしれない。生誕年の正確性を裏付けるものである。

 

 

1256年1月2日:兄・公時と垸飯の沙汰人を務める。

吾妻鏡』より

建長八年正月大二日甲午。晴。垸飯奥州御沙汰。今日將軍家出御南面。土御門中納言顯方卿。直衣被上御簾。御釼武藏守朝直。御弓箭刑部少輔教時。御行騰沓秋田城介泰盛。
 一御馬 尾張次郎公時      同三郎頼章
 二御馬 肥後次郎左衛門尉爲時  伊東三郎
     三浦
 三御馬 遠江三郎左衛門尉泰盛  同五郎左衛門尉
 四御馬 上野太郎景綱      梶原左衛門太郎景基
 五御馬 陸奥弥四郎時茂     同七郎業時

 

 

1256年6月8日、死去。

吾妻鏡』より

建長八年六月小八日丁夘。尾張三郎平頼章 時章二男 

*「平頼章」は北条氏が平姓(系図類では桓武平氏平維時の系統)であることによる。

ここに死因や享年の記載はない。事件性はなく、病死であろうか。この頃の名越流では20数歳程度で従五位下に叙される者が多い*5のに対し、頼章は依然として「三郎」を称して亡くなっていることから、官職に就くことのないまま早世したことは確実とみて良いだろう*6。従って、前述の『野津本北条系図』にある享年12は的を射たもので、一方「左近大夫」*7の注記は誤って挿入されたものであろう*8

ちなみに、頼章は次男にもかかわらず「三郎」、公時はその兄(時章の長男)でありながら「次郎」(前述『吾妻鏡』記事参照)、更には頼章の弟・篤時(あつとき)も「四郎」と名乗ったらしい*9。結果としてではあるが、朝時(相模次郎→越後守)―時章(越後次郎→尾張守)と名乗ってきた「次郎」がそのまま名越嫡流家督継承者の称号のようなものと化したことにより、必ずしも輩行名が出生順を表すものではないことを示したものである。

*参考→ 輩行名 - Wikipedia

但し、名越流の場合は嫡男の称号が「次郎」である(長男であっても「太郎」ではなく「次郎」を称する)ことが重要視されただけで、次郎公時・三郎頼章・四郎篤時は出生順に沿って名乗っている。

 

 

備考:頼章―貞持父子説の誤り 

江戸幕末期に成立の『系図纂要』 では頼章の子として貞持(さだもち)を載せる。亡くなった当時12歳であった頼章に息子がいたと考えるのは、現実的に考えて無理がある。仮に事実であるとした場合、貞持は遅くとも建長8(1256=康元元)年には生まれていなければおかしい。 

前述の通り、章が時の烏帽子子とすれば、持は得宗・北条(時頼の孫)偏諱を受けたと考えるのが自然であろう。しかし、貞時の元服は建治3(1277)年12月2日、家督および執権職の継承が弘安7(1284)年であり*10、貞持が1256年生まれとした場合、数え22歳以降で一字を拝領したことになるが、元服するにしては遅く、また初名を伝える史料も皆無である。よって、このように推定するのは明らかに矛盾があり、誤りであること確実である。

 

太平記』巻11「越中守護自害事付怨霊事」には、「越中の守護 名越遠江守時有」の甥として「兵庫助貞持」が登場する*11。この時有は『尊卑分脈』に公貞(公時の子/頼章の甥)の子として掲載される人物に比定され*12、軍記物語でありながら史実を伝えるものとして捉えて良いだろう。時の偏諱を受けたのは公であり、その孫である貞持は祖父の1字を用いたとするのが正しいようだ。

1256年生まれとすれば、亡くなった1333年当時数え78歳だったことになり、その伯父が存命であるのもまた不自然である。頼章と父子関係に無いことは確実で、恐らく元となった系図上で父子の線を誤ったか、書写の際に誤伝されたのであろう。『系図纂要』では頼章の没月を5月としたり、公貞を公時・頼章の弟としたりなど、随所に誤りが見られる。

 

(参考記事) 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

 

 

脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*2:主な収蔵資料 | 史料編纂書(皇學館大学 研究開発推進センターHP)翻刻は、田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)に掲載。

*3:「叐」は夭折の「夭」の異体字である(→ u592d (夭) - GlyphWiki)。

*4:『入来院本平氏系図』(所収:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29)では頼章に「本名時賢(ときかた)」と記すが、この当時は十分元服の適齢であり、慌ただしく改名を行ったとは考えにくい。或いは時賢の「時」が時頼の偏諱とみなせるかもしれないので、いずれにせよ時頼とは烏帽子親子関係にあったと判断しておきたい。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.45~46。

*6:『続群書類従』 6上(系図部)  所収「桓武平氏系図」では頼章の項に「三郎 早世」と注記されている。同所収2種の「北條系図」および『諸家系図纂』ではいずれも「建長八年正月〔ママ〕八日卒」、『系図纂要』では「建長八年五〔ママ〕ノ八死」とし、『吾妻鏡』にほぼ一致した記載である。

*7:従六位上相当の左近衛将監でありながら五位に叙せられた者の呼称。左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク より。

*8:前掲注1同箇所より、頼章が亡くなったこの年に、22歳であった兄・公時が叙爵して「左近大夫将監」と呼ばれるようになっており、頼章がこれを超えるとは到底考えられない。

*9:注4前掲『入来院本平氏系図』での篤時の項に「尾張四郎」の注記があるほか、『吾妻鏡』文永3(1266)年7月4日条にも「尾張四郎篤時」とある。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:系図纂要』における頼章の子・貞持の傍注に「兵庫助 元弘三年五ノ十七討死」とあるため、同人と判断される。恐らくこの『太平記』に拠った記載と思われるが、時有の従兄弟としてしまった理由は不明である。

*12:太平記』の同箇所には時有の弟として「修理亮有公(ありきみ)」を載せるが、その名が公貞・時有それぞれの1字によって構成されていることから、公貞の子に時有・有公を載せる『系図纂要』の通りで正しいだろう。