【論稿】北条高時滅亡後の改名現象
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▲前回記事では、江戸幕府滅亡後の改名事例を取り扱った。
本項では、鎌倉幕府滅亡後の改名現象について紹介する。
[目次]
はじめに ―二階堂氏の改名現象を例に―
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次の史料は、こちら▲の記事において「河越高重」の初見史料として紹介した関東廂番の定書である。
〔史料A〕建武元年正月付「関東廂番定書写」(*)
定廂結番事、次第不同、
番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕
刑部大輔義季(1) 長井大膳権大夫廣秀
左京亮 仁木四郎義長
武田孫五郎時風 河越次郎高重
①丹後次郎時景
二番
( 略 )
②丹後三郎左衛門尉盛高 ③三河四郎左衛門尉行冬
三番
( 略 )
④山城左衛門大夫高貞 前隼人正致顕(2)
四番
( 略 )
小野寺遠江権守道親 ⑤因幡三郎左衛門尉高憲
遠江七郎左衛門尉時長
五番
伊東重左衛門尉祐持(4) 後藤壱岐五郎左衛門尉(5)
⑦美作次郎左衛門尉高衡 ⑧丹後四郎政衡
六番
中務大輔満儀(6) 蔵人伊豆守重能(7)
⑨下野判官高元 高太郎左衛門尉師顕(8)
加藤左衛門尉 下総四郎高宗(※高家とも)
〔史料A〕補注
(*)元弘4/建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)。『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423。
(1) 渋川義季。
(2) 摂津致顕。
(3) 足利氏一門で『尊卑分脈』に「左将監」と注記される石塔範家か。
(4) のちに足利尊氏の偏諱を受け「氏祐」に改名した祐重の父。
(5) 壱岐守基雄の子か。実名不詳。
(6) 吉良満義か。『尊卑分脈』に「中務大輔」と注記される。
(7) 上杉重能。『尊卑分脈』に「五蔵(=五位蔵人)院昇殿 従五上 伊豆守」と注記される。
(8) 高師秋か。
この史料に書かれる人名に着目すると「高」の字をもった人物が多く見られ、その大半が二階堂氏である。彼らの名前を系図上で追っていくと次のようになる。
上に示した通り、『尊卑分脈』の系図上で彼らの名前のほとんどが確認できるが、その約半数が最終的に改名を行っていることに気付く。しかも、その全員が等しく「高」の字を棄てているのである。この「高」の字は最後の得宗となった北条高時(鎌倉幕府第14代執権)からの偏諱と考えられる。
さて、高時の偏諱を棄てて改名したのは何故であろうか。その前にこのような傾向はひとり二階堂氏のみのものであるのか、他の事例を確認しておきたい。
高時滅亡後の改名現象
管見の限り、鎌倉幕府滅亡後に北条高時からの偏諱とみられる「高」を改めた者は、以下の如く、十数名に及ぶと思われる。各々改名時期などを確認しておきたい。
〔表C〕鎌倉幕府滅亡後の改名事例・一覧表
No. | 初名 | 改名後 | 由来 | 典拠 |
---|---|---|---|---|
① | 尊氏 | 後醍醐天皇(尊治)より一字拝領 (1) | 『尊卑分脈』・『公卿補任』ほか (2) | |
② |
足利高国 |
忠義のち直義 | 不詳 (初名は北条高時と祖先源義国の各々1字) | 『尊卑分脈』・『公卿補任』ほか (3) |
③ | (斯波) 家兼 | 祖先の足利義兼(『尊卑分脈』)か | 『尊卑分脈』・『大日本史料』 (4) | |
④ | 公綱 | 不詳 (朝綱の猶子・公重の1字を選択?) | 『尊卑分脈』・古文書 (5) | |
⑤ | 宇都宮高貞 | 公貞のち綱世 | 「公」字使用は兄に同じか、のち宇都宮氏通字を使用 | 『尊卑分脈』・『鎌倉年代記』裏書・古文書 (6) |
⑥ | 宇都宮高房 | 冬綱のち守綱 | 祖先・藤原冬嗣(『尊卑分脈』)の1字と宇都宮氏通字により構成か。但し足利直冬にも通ずるためのちに改名。 | 『尊卑分脈』・古文書 (7) |
⑦ | 小田高知 | 治久 | 後醍醐天皇(尊治)より一字拝領 (8) | 『尊卑分脈』ほか (9) |
⑧ | 小山高朝 | 秀朝 | 祖先の藤原秀郷(『尊卑分脈』)か (10) | 『元弘日記』裏書、小山氏系図ほか (11) |
⑨ | 葛西高清 | 良清 | 祖先の平良文 | (※推測) (12) |
又は重清 | 祖先の葛西清重 | |||
⑩ | 千葉高胤 | 一胤 | 一男(千葉介貞胤の長男)故の名乗りか? | 『千葉大系図』 (13) |
⑪ | 長井高冬 | 挙冬 | 祖先の大江挙周(『尊卑分脈』)か | 『鎌倉年代記』裏書・『常楽記』ほか (14) |
⑫ | 長井高秀 |
広秀 頼秀 |
― |
(※推測) (15) |
⑬ | 二階堂高憲 | 行清 |
二階堂氏通字「行」の使用 祖先・藤原清夏の1字を使用か |
『尊卑分脈』・前掲〔史料A〕 |
⑭ | 二階堂高元 | 行春 | 二階堂氏通字「行」の使用 | 『尊卑分脈』・前掲〔史料A〕 |
⑮ | 二階堂高衡 | 行直 | 二階堂氏通字「行」の使用 (16) | 『尊卑分脈』・前掲〔史料A〕・古文書 (17) |
⑯ | 二階堂高行 | 行光 | 二階堂氏通字「行」の使用、六世の祖と同名(前掲〔図B〕参照) | (※推測) (18) |
⑰ | 二階堂高貞 | 行広 | 二階堂氏通字「行」の使用 | 『尊卑分脈』・前掲〔史料A〕ほか (19) |
⑱ | 結城朝高 | 朝祐 | 不詳 (曽祖父の弟・祐広の1字を選択?) | 結城氏系図・古文書など (20) |
〔表C〕補注
(1) 『太平記』巻第13「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是ノミナラズ、忝モ天子ノ御諱ノ字ヲ被下テ、高氏ト名ノラレケル高ノ字ヲ改メテ、尊ノ字ニゾ被成ケル。」とあり、これが尊氏の改名の理由として伝えられていったようである。水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.63。
(2) 『尊卑分脉 三』P.252の尊氏の傍注に「本名高氏」とあり、その名前の表記は後掲〔表F〕・〔史料G〕・〔史料H〕など当時の多数の史料で確認できるほか、『公卿補任』にも1333(元弘3/正慶2)年8月5日、従三位に昇叙し武蔵守への兼任が決まった際に、「高」の字を「尊」に改めたことが見える。以下、『尊卑分脉』『公卿補任』はともに吉川弘文館より刊行の新訂増補国史大系本に拠ったものとし、『尊卑分脉』中の漢数字は篇の番号を表すものとする。
(3) 『尊卑分脉 三』P.253の直義の傍注に「本名高国」とあり、『公卿補任』康永3年条には「源直義、本名忠―、錦小路殿、号大休院、故入道讃岐守貞氏二男〔ママ、亡き長兄・高義を抜かしているか〕…(以下略)」と記載されており(『大日本史料』6-1 P.100)、初め高時の偏諱を受けて「高国」、のち元弘3(1333=正慶2)年10月10日までに「忠義」→「直義」の順に改めたと解釈されている(森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015年)P.27)。『鎌倉遺文』での初見は、(1333年?)12月3日付「足利直義御教書」(第42巻・32748号、『祇園社記続録二』)、翌元弘4(1334)年2月5日付「足利直義御教書」(第42巻・32846号、『上杉文書』)。後者は『大日本古文書 上杉家文書之一』にも収められており、「直義」の署名と「義」字を模した花押も見られる。
(4) 詳しくは 斯波家兼 - Henkipedia を参照。尚「時」字については北条氏の通字であり、北条氏一門の他の者から与えられた可能性も否定は出来ず、直ちに高時からの偏諱とは判断しづらいが、幕府滅亡後に「時」を「兼」に改めていることから同様の事例として扱った。
(5) 各系図類を見ると、公綱の傍注に「本高綱」(『尊卑分脈』)、「元高綱」(『諸家系図纂』)、「始高綱」(『下野風土記』上)と書かれている他、『正宗寺蔵書』の系図では同じく貞綱の子で氏綱の父を「高綱(兵部大輔〔ママ〕 備前守 理蓮)」と載せている(以上『大日本史料』6-20、P.883~885に拠る)。管見の限り「(宇都宮)高綱」の名が確認できる史料は見つかっていないと思われるが、次注で示す通り、弟が初め「高貞」を名乗ったことは確認できるので、兄である公綱も初め「高綱」を名乗った可能性は高いだろう。建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とある(『大日本史料』6-1 P.753、『高根沢町史 通史編Ⅰ』P.403)のが確認でき、これが改名後の初見と思われるので、鎌倉幕府滅亡後まもなく改名したものと判断される。
(6) 『尊卑分脉 一』P.362の高貞の傍注に「兵庫助 弾正少弼 五郎 改公貞 又改綱世」とある。『鎌倉年代記』裏書、1327(嘉暦2)年条に「宇都宮五郎高貞」の記載が確認でき、鎌倉幕府滅亡前は「高貞」を称していた。一方で『有造館結城古文書写』には、1339(延元4/暦応2)年4月12日、南朝方の春日中将顕国に攻められ、「兵庫助綱世子息金□□」(欠字あり)が討ち取られたことを伝える書状が残っており、その直後にも「彼綱世妻舎弟御房丸」と書かれていて(『大日本史料』6-5 P.480)、最終的に「綱世」に改名したことが確認できる。
(7) 『尊卑分脉 一』P.361の高房の傍注に「改冬綱 次改守綱」と記載されている。このことが古文書で確かめられることは、山口隼正『南北朝期 九州守護の研究』(文献出版、1989年)に詳しく、以下これに従って述べる。鎌倉幕府滅亡時にあたる元弘3(1333)年5月の段階では「高房」を称していた(『田口文書』)が、翌建武元(1334)年10月の段階で「冬綱」の名が確認できる(『大悲王院文書』)。山口氏が述べられるように、「高」が北条高時に通じていたが故の改名であったとみられる。恐らく高房は高時の烏帽子子であったであろう。観応の擾乱を経た文和3(1354)年9月には「守綱」の名が確認できる(『宇都宮文書』)。擾乱期の冬綱はほぼ一貫して足利直冬党として活動しており、山口氏は「冬」が直冬に通じていたと述べられているが、直冬の元服前に「冬綱」を名乗っているようなので、直冬から与えられた可能性は低いということに注意しなくてはならない。
(8) 『常陸誌料』五・小田氏譜上に、「治久、初名高知、後醍醐天皇賜偏諱、因更治久、歴尾張権守、宮内権少輔、…(略)…自延元元(1336)年至興国二(1341)年、…(略)…賜御諱、皆在此時也、…(以下略)」とある(『大日本史料』6-17 P.294)。
(9) 建武4(1337)年3月日付「伊賀盛光軍忠状」(『飯野八幡社古文書』、『大日本史料』6-4 P.93)の冒頭に「右為討伐当国凶徒小田宮内権少輔治久以下輩、…(以下略)」、同年11月日付「烟田時幹軍忠状案」(京都大学総合博物館所蔵『烟田文書』、翻刻は『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)766号、『鉾田町史 中世資料編』「烟田史料」に収録されている)の文中にも「小田宮内権少輔治久以下凶徒等成一手、」とあり、管見の限り遅くともこの段階では既に「治久」に改名していたことが分かる。『尊卑分脉 一』P.368の小田氏系図で見ると、小田高知の傍注に「宮内権少輔 尾張権守」とあり、『鎌倉年代記』嘉暦2(1327)年条に「小田尾張権守高知」とあるのが確認できるので、初め「高知」と名乗り、のち建武4/延元2年までに宮内権少輔となって「治久」に改名していたことが分かる。前注に掲げた『常陸誌料』の記述の内容とも合致する。
(10) 秀朝の嫡子・朝氏も、『常楽記』貞和2(1346)年条に「四月十三日 小山判官朝里他界」とあるのが最終的な名乗りと確認できる。「ともさと」という読みの共通から『尊卑分脈』に掲載の「朝郷」が正確な表記と思われ、やはり藤原秀郷を意識した可能性は高い。秀朝・朝氏父子については、松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)に詳しい。
(11) 小山秀朝 - Henkipedia 、松本一夫『下野小山氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻〉(戎光祥出版、2012年)P.335 参照。松本氏も同書P.13にて歴代当主が得宗から一字を拝領したことに言及されている。『太平記』などで中先代の乱の折に北条氏の攻撃を受けて小山秀朝が自害したことが伝えられるが、『元弘日記』裏書では「(藤原)高朝」と書かれている(元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム・5ページ目)。
(12) 葛西氏の初代が清重、その祖先を平良文とするのは、複数伝わる葛西氏系図で共通する。『龍源寺葛西氏過去帳』では良清が貞治4(1365)年4月7日に亡くなったとするが、『高野山五大院葛西氏系図』では高清の命日を貞治4年4月17日と、ほぼ同じ時期の死去として伝える。同年で日付が類似するところからすると、同一人物である可能性も否めない。また、「奥州寺池葛西系図」では高清=重清とするらしく、(正確な系譜はさておき)葛西高清が北条高時からの偏諱「高」を棄てて祖先の1字に改めた可能性は高いだろう。
(13) 『千葉大系図』では貞胤の子(氏胤の兄)一胤(かずたね)の別名として高胤とも載せており(『大日本史料』6-2 P.1015)、当初高時の偏諱を受けた「高胤」をのちに「一胤」に改めたものと解釈されている(http://chibasi.net/souke17.htm)。史料上では建武3(1336)年正月16日、千葉一胤とみられる「千葉新介」が南朝方の新田義貞軍に属し、足利尊氏方の細川定禅と合戦に及んで戦死したと伝えられる(『大日本史料』6-2 P.999)。
ちなみに、同系図をはじめとする各種系図類によれば、千葉氏は頼胤以降、千田氏(のちの九州千葉氏流、宗胤―胤貞―高胤)と、千葉介流(胤宗―貞胤―一胤)の2系統に分かれており、「神代本 千葉系図」では胤貞の子にも同名の小太郎高胤(高胤の兄に小太郎胤高を載せるが重複同人か)を載せる(『大日本史料』6-3 P.896)が、これについては史料上で実在が確認されている(詳細は千葉高胤 - Henkipediaを参照)。
(14) 小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.719、紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」No.137「長井挙冬」の項でご指摘のように、『常楽記』貞和3(1347)年条に「三月廿四日 長井右馬助擧冬他界三十四」とあるのに対し、『鎌倉年代記』裏書・元徳3 (1331=元弘元)年条に「長井右馬助高冬」(後掲〔史料G〕参照)、同じ内容を載せる『花園天皇宸記』同年11月26日条にも「高冬」の名が見えることから、挙冬が当初北条高時の偏諱を受けて「高冬」と名乗っていたことは明らかである。『東大寺文書』所収の正慶年間(1332~33年)の文書2通にも「備前二郎高冬」「右馬助高冬」の記載が確認でき(前掲小泉論文P.719)、幕府滅亡後の改名は間違いないだろう。『尊卑分脉 四』P.94を見ると大江匡衡の子・挙周に「タカチカ」とルビが振ってあり、「高」と同じ読みの「挙」を選択したようである。
(15) 長井高秀については、金沢貞顕の書状により実在が確認できる(前掲小泉論文P.720、および前掲細川「基礎表」No.138「長井高秀」の項を参照)が、系図上では確認できない。細川氏は高秀を長井関東評定衆家の人物と推測されているが、この家系は代々得宗の偏諱を受けており、『尊卑分脉』以下の系図類では、貞秀の子に貞懐・広秀・挙冬…と載せるが、貞懐は父同様に北条貞時の偏諱を受けた可能性があり、前注で述べたように挙冬も当初は北条高時の偏諱により高冬を称していたということを考えると、広秀も北条氏を烏帽子親とした可能性も否めない(例えば時秀の子は兄の宗秀が時宗、弟の貞広が貞時の1字を受けている)。「広秀」の名が鎌倉時代に全く確認できないことから、貞顕書状の「高秀」が広秀の初名であった可能性を考えたい。管見の限り「広秀」の初見は建武元(1334)年と思われる(『鎌倉大日記』同年条、『鎌倉遺文』42巻・32865号、前掲〔史料A〕)。
或いは、延元元(1336=建武3)年4月に作成された武者所の結番交名(『建武記』)には「長井大膳権大夫広秀」とは別に「長井前治部少輔頼秀」の記載があり(『大日本史料』6-3、P.332)、通称名と年代の近さからこちらの可能性もあり得るが、いずれにせよ高秀は幕府滅亡後「高」字を棄てて改名したのではないかと思われる。
(16) 勝手な推測になるが「直」の字は、足利直義あるいは高師直に関係があるのかもしれない。『鎌倉大日記』康安元(1361)年条に掲載のある山城宮内氏貞は山城守行直の子(細川重男「政所執事二階堂氏の家系」(所収:鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』〈鎌倉遺文研究2〉、東京堂出版、1999年)内 二階堂氏系図)で、恐らく足利氏(足利尊氏)からの受諱であろう。
(17) 『鎌倉大日記』暦応2(1339)年条、『武家年代記』興国元/暦応3(1340)年条。実際の古文書でも暦応4(1341)年以降に「行直」または「山城守」名義で書状を発給していることが確認できる(東京大学史料編纂所編『花押かがみ六・南北朝時代二』(吉川弘文館、2004年)P.8、No.3434「二階堂行直」の項)。
(18) 筆者は、『尊卑分脉 二』P.506に、貞衡の子(行直の弟)として載せる高行と、高貞の子として載せる行元を同一人物と推定する。行元の傍注には「実貞衡子」とあり、高行と同じく通称を「三郎」とする。また、高行の傍注「康永天竜供養随兵」は前本と閣本では行元の項に、行元の通称「山城三郎左衛門」の「山城」は脇本では高行の項にある(すなわち高行の通称を山城三郎とする)らしく、互いに混同してしまっていることがかえってその裏付けになるのではなかろうか。兄・高衡(行直)が改名するなら、弟である高行も改名する可能性は十分に高く、高行は叔父・高貞(改め行広)の養子となり、行元に改名したと推測する。但し、改名後の諱については実は「行元」ではなく「行光」が正しい。このことは『鎌倉大日記』観応2(1351)年条のほか、「康永天竜供養随兵」のことを伝える次の史料に拠っても裏付けられる。『南北朝遺文 関東編第三巻』(東京堂出版)1581号に「山城三郎左衛門尉行光」、1382・1585号に「山城三郎左衛門尉」、1583・1584・1586号に「二階堂山城三郎左衛門尉」とあるほか、『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事付大佛供養ノ事」の文中にも「二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光」とある。
(19) 『尊卑分脉 二』P.506によれば、前本・閣本・脇本では「改行廣」の注記が高貞の弟・顕行の項にあるらしいが、顕行の子が「顕」字を受け継いで「顕親」を称していることからも、顕行が「顕」字を改めなければならない程の理由があったとは考えられず、「行廣(行広)」は高貞改名後の諱で良いと思われる。『朽木文書』建武元(1334)年9月27日付の書状中に「二階堂信濃三郎左衛門行廣」の名が確認でき(『大日本史料』6-1 P.914)、信濃守行貞の子で「三郎左衛門」を称した高貞(『尊卑分脈』同前箇所)が〔史料A〕からの9ヶ月の間に改名したことは確実である。
一方で顕行は、陸奥守 兼 鎮守府大将軍・北畠顕家のもとで建武元年に定められた奥州 式評定衆の一人に「山城左衛門大夫顕行」として実在が確認でき(『建武記』・『武家名目抄』:『大日本史料』6-1 P.413・415)、『尊卑分脈』同前箇所では通称「四郎左衛門尉」とする。式評定衆は顕家とともに陸奥国へ下向したメンバーで構成されており、二階堂顕行も行貞(1329年没)の晩年期に生まれた息子で、「顕」は元服時に顕家から偏諱を受けたものではないかと思われる(→ 相馬氏惣領 相馬重胤 より)。
(20) 『結城小峯文書』所収「結城系図」と『真壁長岡文書』により、朝祐が幕府滅亡前の元徳年間(1329-1332年)の段階で「朝高」を名乗っていたことが判明している(結城朝祐 - Wikipedia参照)。尚、改名後の「朝祐」は『尊卑分脈』に見えるだけでなく、多々良浜合戦で討死した翌年の延元2(1337)年3月16日付で後醍醐天皇から白河結城宗広への綸旨(『伊勢結城文書』)に「下総国結城郡朝祐跡」、同年8月22日付陸奥国宣案(同前)に「結城郡内上方者、為朝祐跡、先立拝領之、」とあるのが確認できる(荒川善夫「鎌倉期下総結城一族の所領考」、荒川氏編著『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉(戎光祥出版、2012年)P.13・53・62)。(14)・(15)に同じく、『尊卑分脉』編纂時に朝祐が「朝高」を名乗っていた事実を残そうとしなかったのかもしれない。
まとめると、改名時期は人によって多少のずれはあるものの、ほとんどの者が鎌倉幕府の滅亡を境に名前を変えていることが分かった。いずれも「高」字を改めており、北条高時から拝領していたことは間違いないだろう。また、その大半は改名後の字を先祖の名から選択していることも窺える。
河越高重、斯波高経(前掲〔表C〕③の兄)などのように、幕府滅亡後も「高」の字を改めない者がいたことを考えると、建武政権としては特にこれを重視したわけでは無かったようである。『元弘日記』裏書で小山秀朝が「高朝」と書かれている(前掲〔表C〕注(11))ことは、改名したことが一部に知られていなかった証左であろうし、〔史料A〕での二階堂氏を見れば、改名が特に急務であったとは思えない。あくまで改名は各々個人の判断・意志で行われたと考えるべきである。次項ではその理由について考察してみたい。
改名の理由についての考察
〔表D〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守 | 河越参河入道(貞重) |
小山判官(⑧) | 佐々木近江入道 |
佐々木備中前司 | 千葉太郎(胤貞) |
武田三郎 | 小笠原彦五郎 |
諏訪祝 | 高坂出羽権守 |
島津上総入道 | 長崎四郎左衛門尉 |
大和弥六左衛門尉 | 安保左衛門入道 |
加地左衛門入道 | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助 | 駿河八郎 |
千葉介(貞胤=⑩の父) | 長沼駿河権守 |
小田人々(⑦?) | 佐々木源太左衛門尉 |
伊東大和入道 | 宇佐美摂津前司 |
薩摩常陸前司 | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道 | 遠江前司 |
武田伊豆守 | 三浦若狭判官 |
渋谷遠江権守 | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道 | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(①) |
結城七郎左衛門尉(⑱) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
〔表E〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)
大将軍 | |
陸奥守遠江国 | 武蔵右馬助伊勢国 |
遠江守尾張国 | 武蔵左近大夫将監美濃国 |
駿河左近大夫将監讃岐国 | 足利宮内大輔三河国 |
足利上総三郎 | 千葉介(貞胤)一族(⑩)并伊賀国 |
長沼越前権守淡路国 | 宇都宮三河権守伊予国 |
佐々木源太左衛門尉備前国 | 小笠原五郎阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官(⑧)一族 |
小田尾張権守(⑦)一族 | 結城七郎左衛門尉(⑱)一族 |
武田三郎一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道一族 |
伊東大和入道一族 | 宇佐美摂津前司一族 |
薩摩常陸前司一族 | 安保左衛門入道一族 |
渋谷遠江権守一族 | 河越参河入道一族 |
三浦若狭判官 | 高坂出羽権守 |
佐々木隠岐前司一族 | 同備中前司 |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司 | 同佐渡大夫判官入道 |
(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。丸数字は〔表C〕と対応する。)
〔表F〕元弘の乱(笠置山の戦い、1331年)における幕府軍のメンバー(『太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」により作成)
大将軍 | 大仏陸奥守貞直 | 大仏遠江守 | 普恩寺相摸守基時 | 塩田越前守 | 桜田参河守 |
赤橋尾張守 | 江馬越前守 | 糸田左馬頭 | 印具兵庫助 | 佐介上総介 | |
名越右馬助 | 金沢右馬助 | 遠江左近大夫将監治時 | 足利治部大輔高氏(①) | ||
侍大将 | 長崎四郎左衛門尉 | ||||
侍 | 三浦介入道 | 武田甲斐次郎左衛門尉 | 椎名孫八入道 | 結城上野入道 | 小山出羽入道 |
氏家美作守 | 佐竹上総入道 | 長沼四郎左衛門入道 | 土屋安芸権守 | 那須加賀権守 | |
梶原上野太郎左衛門尉 | 岩城次郎入道 | 佐野安房弥太郎 | 木村次郎左衛門尉 | 相馬右衛門次郎 | |
南部三郎次郎 | 毛利丹後前司 | 那波左近太夫将監 | 一宮善民部太夫 | 土肥佐渡前司 | |
宇都宮安芸前司 | 宇都宮肥後権守 | 葛西三郎兵衛尉(⑨?) | 寒河弥四郎 | 上野七郎三郎 | |
大内山城前司 | 長井治部少輔(⑫) | 長井備前太郎(注1) | 長井因幡民部大輔入道 | 筑後前司 | |
下総入道 | 山城左衛門大夫(⑰?) | 宇都宮美濃入道 | 岩崎弾正左衛門尉 | 高久孫三郎 | |
高久彦三郎 | 伊達入道 | 田村刑部大輔入道 | 入江蒲原一族 | 横山猪俣両党 |
(*表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借。丸数字は〔表C〕と対応する。)
以上D・E・Fの各表については、同内容を伝える以下2つの史料によって信憑性が裏付けられる。
〔史料G〕『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』より)
今年元徳三、…(中略)…八月…(略)…廿四日、主上竊出鳳闕、令寵笠置城給、仍九月二日、任承久例、可上洛之由被仰渡出、同五六七日、面々進発、大将軍、陸奥守貞直、右馬助貞冬、江馬越前入道、①足利治部大輔高氏、御内御使長崎四郎左衛門尉高貞、開東両使秋田城介高景、出羽入道道蘊、此両使者践祚立坊事云々、此外諸國御家人上洛、圖合廿万八千騎、九月廿日、東宮受禅、同廿八日、笠置城破訖、先帝歩儀令出城給、於路次奉迎、十月三日遷幸六波羅南方、同日、於楠木城第一宮尊良親王奉虜、同廿一日、楠木落城訖、但楠木兵衛尉落行云々、十一月、討手人々幷両使下著、同月、⑪長井右馬助高冬、信濃入道々大、為使節上洛、為京方輩事沙汰也、同八日、以前坊邦良、第一宮康仁親王為東宮、…(以下略)
改名の理由については、⑪長井高冬がかつて後醍醐天皇配流問題に直接関与した(注2)ことを憚って「挙冬」と改名したとする小泉宜右氏の見解(注3)が参考になると思われる。鎌倉時代の二階堂氏は北条氏を支えることによって政所の実質的責任者という立場を確保することができていたといわれ(注4)、上に掲げた D・E・F の3つの表を見ると、足利・宇都宮・小田・小山・葛西・長井・二階堂・結城の全氏族(注5)が元弘元(1331)年の笠置山攻めに際して幕府軍の主戦力として参加していたことが窺える。仕える幕府への忠誠を示していたとは言え、後醍醐天皇に一度刃向かったわけである。
従って、長井高冬のみならず、他の人物も朝敵・北条高時(注6)の偏諱を棄てることで後醍醐天皇への恭順の意志を示したものと推測される。特に高冬(挙冬)と、①足利尊氏は「高」と同じ読みを持つ字に改めただけであり、目的としてはただ高時からの1字を棄てるだけで良かったのである(注7)。
補注
(注1)前掲〔表C〕補注(14) に示した通り、長井高冬が右馬助となる前の通称は「備前二郎」であった。父が備前守で、その二郎(次男)を表す通称名である。すると、この「備前太郎」は高冬の実兄であった可能性があるが、実名は確かめられない。尚、徳治3(1308)年の死去とされる貞秀の官途は六位蔵人→中務大輔→兵庫頭(同注(14)前掲 細川氏著書巻末「基礎表」No.136「長井貞秀」の項)であり、元々正和3(1314)年生まれの高冬(同注(14)前掲『常楽記』より)との系図上での父子関係にも疑問がある。これについては別稿で論じたい。或いは『太平記』が軍記物語であることを考慮すれば、"備前二郎"高冬本人を指す可能性もあり得る。
(注2)同前注(14)で紹介した『鎌倉年代記』裏書(=前掲〔史料G〕)・『花園天皇宸記』の記事では「長井右馬助高冬」が「信濃入道道大」(=太田(三善)時連)とともに鎌倉幕府の使節(東使)として上洛し、花園天皇に対して後醍醐天皇および挙兵に与した公卿・僧徒の処分を申請した(永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.138)ことを伝える。
(注3)同前注(14)前掲小泉論文、P.719。
(注4)山本みなみ「鎌倉幕府における政所執事」(所収:『紫苑』第10号、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール、2012年)P.20。
(注5)嫡流に限らず、一門からの参加も含む場合。
(注6)『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によれば、新田義貞方の武将・舟田入道に捕らえられた「相摸入道(高時)の嫡子相摸太郎邦時」は「未だ幼稚の身」ではあったものの、「朝敵の長男」たる故に首を刎ねられたという。以後、邦時の弟・時行が後醍醐天皇と接触し恩赦を受ける(『太平記』巻19「相摸次郎時行勅免事」)までは「朝敵」扱いであった。
(注7)①足利尊氏 と ⑦小田治久 は後醍醐天皇(尊治)からの名誉的な一字拝領という形での改名であり、他の者と若干意味合いが異なって "勲章" とも解釈し得るが、前述に掲げた経緯から、元々彼らには高時の偏諱を避けたい意志があったのだろう。恐らく自発的に天皇に願い出たものと思われる。特に尊氏は幕府滅亡からわずか3ヶ月ほどでの改名であり、「高」が天皇の偏諱「尊」と同音である偶然も相まって、急ぎ申請したものと推測される(〔表C〕補注(1)前掲水野氏著書、P.65)。
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