Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について

[目次]

 

北条・足利両家の一字共有 

鎌倉時代御家人に対する、北条氏得宗家による一字付与については、これまでに多くの研究成果が出されてきた。 

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その最初である、紺戸淳 氏の論文*1では、御家人元服する史料がほとんど残っていないことから、生年の確定した御家人の10~15歳位までの年代が、当該時期の得宗と実名の一字が共通している御家人を洗い出すという考証的な作業によって、得宗家からの一字付与を受けた形跡のある御家人を11家抽出された*2が、その最初の例に挙げていたのが足利氏であった*3(次の系図参照)。 

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▲【図A】足利・北条両家略系図*4

 

これにより先行研究では、"鎌倉時代の足利氏嫡流の歴代当主は基本「得宗からの偏諱+通字の氏」で名前を構成することを伝統とし、足利氏は代々得宗を烏帽子親とする家柄であった" と解釈されてきた。しかし、頼氏は改名によって得宗偏諱を受けたのであり、また「家時」や高氏の兄「高義」は名前の構成が異なっており、厳密には少々誤った解釈である。

本項では、得宗家と足利氏との間に出来た継続的な烏帽子親子関係について、その成立の過程を丁寧に考察していきたいと思う。 

 

得宗からの一字拝領の慣例化 

足利泰氏の一字拝領 と 北条・足利両家の関係性

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確かに、は3代執権・北条時から偏諱を受けていることから、泰時が加冠を務めたことは間違いなかろうが、これは泰時が執権の座にあっただけでなく、泰氏の外祖父(母方の祖父)であったという理由によるものだと思われる。最近、今野慶信氏が、泰時の嫡男・時の「氏」が足利義(泰氏の父)からの偏諱であった可能性を指摘されており*5、後には泰氏の嫡男・氏が5代執権・北条時頼の長男・時(のちの時輔)の加冠を務めたことが次の史料で確認できる。 

【史料B】『吾妻鏡』建長8(1256)年8月11日条

建長八年八月小十一日己巳。雨降。相州*御息被加首服。号相摸三郎時利 後改時輔。加冠足利三郎利氏 後改頼氏

* 相州=北条相模守時頼。

従って、北条氏と足利氏はお互いに烏帽子親子関係を結び合う、対等な関係にあり、北条氏の側も当初はそれによって足利氏より優位に立とうという政治的な意図は無かったと判断される。

 

泰氏の子の命名足利頼氏の改名の意味 

泰氏の子は、家氏兼氏利氏と名付けられた。長男・名越朝時(泰時の弟)の娘との間に生まれた子で当初は嫡子の地位にあったが、特に得宗偏諱を受けていない。「」の字は祖先の源義に由来するものとみられ*6、恐らく泰氏自身が加冠・命名に関与したのではないかと思われる。次男・*7も足利義(泰氏の祖父)の一字を取って命名されたのであろう。

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そして、三男・利氏も同様であったとみられる*8が、のちに時から偏諱を受けてに改名した(【史料B】参照)。紺戸淳氏の説によれば、「太郎」を称する家氏に代わって、得宗家出身の母北条時氏の娘/時頼の妹)を持つ利氏が嫡子として「三郎」を称したので、時頼が甥との関係をより緊密にするための方法として行ったのだという*9。しかし、実際のところは時頼の子・時利(時輔)の烏帽子親を務めてからの改名である(【史料B】参照)から、同年(1256年)11月22日に執権を退任(23日に出家)するにあたって、形式上、時利との烏帽子親子関係(同じ一字「利」を共有する関係)を解消させ、逆に得宗(元々親戚関係にあるが)烏帽子親子関係にある状態を創り出したものと考えられる*10

実のところ、時頼は最明寺を建立する*11より前から引退・出家を計画しており、その真の目的は、幼少の嫡子・時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現することにあったという*12

一方で時頼は庶長子である時利(時輔)を不当に扱うことなく、烏帽子親に足利氏嫡流の当主を指名したのはその待遇の一つであったようだ*13。しかし、同時に時利が「反得宗時宗的な動きの結節点になる可能性」*14も視野に入れていたので、その烏帽子親である利氏に対する牽制得宗への忠誠の確認)の意図で「頼」の偏諱を与えたのだろう。この時、時宗(幼名: 正寿丸)はまだ元服前であった。

 

時宗による足利家時への一字付与 

文応元(1260)年、頼氏とその "家女房"(侍女)であった上杉重房の娘との間に長男が誕生した*15。2年後に頼氏が早世したので、家督を代行した家氏*16のもとで"事実上の養子"として育てられたとみられ*17、この男子は「」と命名された。「」は北条氏の通字を拝領したものとみられ*18、恐らくこの字を与えた烏帽子親は【図A】の通り、得宗(8代執権)・北条宗で良いと思われる。 

田中大喜は「家時の母は、被官上杉氏の出身であり、家時自身は北条氏との血縁関係を持たなかった」*19と述べられているが、一応、家時の祖母*20得宗家出身であり、時宗にとっても家時は従甥時宗と頼氏が従兄弟関係)にあたる。但し、得宗家が足利氏の外戚で無くなってしまったという意味では重要な指摘である。

ところが、『系図纂要』には時宗の子女として、嫡男・貞時の他に「足利讃岐守貞氏室」となった女子を載せており、永井晋氏はこのことを根拠に、『入来院家所蔵平氏系図*21に見える北条氏一門・金沢顕時の2人の娘、「足利伊予守室」(「足利讃岐守室」の誤りか*補1)と「為時宗子譲所領」と注記される時宗の養女が同一人物とする見解を示されている*22安達泰盛の娘時宗の義姉妹)を母に持つことや、顕時自身が時宗の烏帽子子であったことが選考の理由であったと思われ、時宗が足利氏との婚姻関係を重視していたことは間違いないだろう。得宗家が足利氏の外戚で無くなることで関係が薄れてしまうことを憂えた時宗はその対策を講じることに積極的であったと考えられるのだ。

その最も簡単な方法はやはり宗自らが家の烏帽子親を務めて自身の一字を与えることで、親子に準じた関係を構築することであっただろう*23時が氏に、時氏に与えた前例に倣ったことで、ここに得宗・足利両家が同じ一字を共有することが慣例となり、以後継続的に烏帽子親子関係を結ぶことになったのである。 

*補1)同じく『入来院家所蔵平氏系図』には、北条時茂の娘に「足利伊予守家時後室」とわざわざ載せるため、一応注意を要する。『尊卑分脈』でも足利貞氏の母を「平時茂女」とするので、時茂と貞氏の年齢差を疑問視する見解もある*24が、時茂の娘が家時に嫁いで貞氏を生んだことは間違いないだろう。

一方、『続群書類従』所収「足利系図」では高義の母について「按貞氏妻金沢越後守顕時女也云々」とあり、顕時の娘が貞氏に嫁いで高義を生んだというのが通説となっている。時茂の娘が「後室」ということは、貞氏が生まれたとされる文永10(1273)年までに顕時の娘が家時と離縁するか、もしくは先立って死去しなければおかしい。しかし当時顕時は26歳であり、現実的に考えて娘が誰かに嫁ぐような年齢であるはずがない。家時が亡くなった弘安7(1284)年でも顕時は当時37歳で、娘は10歳代を超えることはなく、やはり顕時の娘が(前妻であってもなくても)家時に嫁ぐには無理がある。よって、「足利伊予守室」は誤記であること確実である。

 

 

"得宗専制"下での烏帽子親子関係 

家時と宗家 

ところで、「」という名からすると、元服は頼氏の死後、氏の生前に行われた可能性が高く*25、嫡男のに対し、事実上の養子・庶子として扱われたのではないかと推測される*26。彼らの命名北条時宗への加冠も家氏の主導によるものと思われる。

しかし、文永5(1268)年に時宗が執権となって政治を主導する立場になる*27と、同じ頃に家氏が亡くなった*28こともあり、名越流の血を引く宗家よりも、母が得宗家出身という理由で家督を継いだ頼氏の遺児である家時を優遇することを考えたのではないかと思われる*29。  

というのも、文永9(1271)年には名越流の北条時章・教時兄弟が誅殺された、いわゆる二月騒動が起きており*30、彼らが家氏の母方の叔父(宗家の大叔父)にあたることから、宗家が将来的に自身得宗を脅かし得る存在になる可能性が頭をよぎったのではないかと考えられるからである。

【史料C】『勘仲記』弘安5(1282)年11月25日条

(前略)

今夕被行小除目僧事、

権少外記中原師鑒、兼、     侍従藤原公尚、

少内記家弘、        伊勢守藤盛綱、

伊豫守源家時、    按察卿二男右近少将源親平、

従四位下祝部行昌、     正五位下中原師國、四位外記巡年叙也、

小槻兼賀、四位縫殿権助叙也、  従五位下源宗家

清原泰尚、

 (以下略)

この史料中の「伊予守源家時」は、「瀧山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、*31とある足利家時に比定される。前述の通り、家時が伊予守となったことは系図類にも記されるところで、上の【史料C】はそれを裏付けるものである。先行研究では、この家時の伊予守補任は、時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活に連動した “源義経の再現” を意図したものであったと解されている*32

 そして、もう1つ注目すべき所は、この除目において足利家氏の子・宗家と思しき「源宗家*33が家時と同じ従五位下に叙されていることである。恐らくこの時に左近大夫将監となった*34ものとみられるが、家時は既に従五位下・式部丞となっており*35、この段階でやっと家時と宗家が従五位下で並んだことになる。家時には源氏にゆかりのある国守の地位を与え、宗家には家時に並ぶ位階とすることで、時宗は両者の対立を未然に防いだと考えられる。

 

 

貞時による足利貞氏への「足利氏嫡流」「源氏嫡流」公認 

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時宗が亡くなって間もない頃は、霜月騒動や平禅門平頼綱の乱など、源氏将軍を擁立する動き(類似したもの含む)が度々起こっており、近年、得宗・執権の北条貞時時宗の子)がその対策として足利氏足利貞氏を「源氏嫡流」として公認していたという説が出されている*36

言うまでもないが、「源氏嫡流」として公認していたということは、足利氏の嫡流としても認めていたということに他ならない。 

さて、時宗の死の翌年に起きた霜月騒動で足利(斯波)宗家が連座したらしい*37。北条時は、宗家の遺児・家*38と、家時の子・氏に偏諱を与えているが、騒動の影響からか、貞氏の方を足利氏の嫡流として扱っていたことが分かる*39。恐らく貞氏・家貞の元服霜月騒動以後であったと推測される*40。 

*補2)前述の通り、かつて家氏が足利氏惣領の家督を代行していたこともあるので、家氏流の家貞 と 頼氏流の貞氏 で嫡流・庶流の区別を明示することが貞時の中で重要な案件だったのだろう。兼氏 (義顕) 流の渋川頼(義顕の孫)も貞時の偏諱を受けたとみられるが、こちらは分家したものとして特にその必要性はないと判断し、逆に渋川氏の嫡流とみなす形で「貞●」の形で名乗らせたと推測される。同じ足利一門では、吉良義・氏、畠山国、上野遠(頼氏の弟・義弁の子)も貞時の偏諱授与者とみられるが、概ねそれぞれ各家の嫡流継承者と認められての名乗りとみられる。

 

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田中大喜は、足利氏が「源氏将軍」としての公認を受けていたと説かれるにあたり、貞氏の長男・高義命名清和源氏の通字「義」が使われていることをその証左としている*41。恐らく足利氏としても、歴代の当主が必ずしも「氏」字を使用したわけではなかったので、むしろ義氏以前の慣例(源頼家―国―足利康―兼―氏)の復活となる「義」字の使用は歓迎すべきことだったと考えられる。

貞氏の次男・高(尊氏)命名には、先立って亡くなった高義と同名を避けるため、それまで続いた「氏」が選択されたのだろう*42し、三男・高国がのちに「直」と改名したほか、尊氏の嫡男・詮の家系室町幕府将軍家)が「義」を通字とするようになった。決して、清和源氏の通字は「義」だけではなく、源氏の将軍家復活を示すのであれば、むしろ頼信―頼義に因んで頼朝―頼家と続いた「頼」、或いは義朝―頼朝―実朝と続いた「朝」を使っても良さそうだが、それでも足利氏にゆかりのある「義」字の使用にこだわったのだろうと思われる。

一方で、この段階までに事実上足利氏の家督(義―泰―頼―家時―貞―高が代々使用する形となった「氏」の字は、義詮の弟(基)の命名に使用され、その系統鎌倉公方家)の通字となったのである。

 

 

まとめ

現代の我々が、北条氏得宗家と足利氏嫡流系図を【図A】のようにして並べると、足利氏の歴代当主が「得宗からの偏諱+通字の氏」の名乗りを原則としていたように見え、先行研究でもそれが慣例(伝統)であったと解釈されてきた。

しかし、実際には両家は烏帽子親子関係を結び合う対等な関係にあり、泰氏の子は得宗を烏帽子親としておらず、北条時頼が利氏(頼氏)に偏諱を与えて改名させ、続く時宗も家時(および宗家)の加冠・偏諱の授与に応じたことで、足利氏が得宗から一字を拝領する慣習が成立したのである。

時宗の子・時もこの慣例を遵守し、その偏諱の位置によって、比較的得宗家に近い氏を足利氏の嫡流霜月騒動連座した宗家の子・家を庶流として差別化するだけでなく、貞氏を「源氏嫡流」として公認することで源氏将軍を擁立する動きを抑えた。そのため、貞氏の長男は清和源氏の通字「義」の使用を許されて「高義」と命名されたが、ここからも「氏」の使用にこだわっていなかったことが窺える。

足利高義は父に先立って早世し、高義の子の成長を待たずして貞氏も亡くなったので、高氏(尊氏)が家督を継ぐこととなり、結果として「氏」の付く者(義―泰―頼―家時―貞―高が歴代当主となる形となった。従って「得宗からの偏諱+通字の氏」の名乗りを特に伝統(原則)としていたわけでなかったことが分かる*43

特に、家時についてはこの原則(名前の構成)の例外として「足利氏の政治的地位をいっそう低下させ、また北条氏との関係も円滑さを欠くようになった」と評価する見解もあった*44が、家時(の元服に至るまでは、泰氏―頼氏のたかが2代続いたのみ*45で、しかも頼氏は改名によって得宗偏諱を受けたのであり、貞氏―高氏がまだ生まれていないこの段階で「得宗偏諱+氏」の名乗りを "伝統" として解釈すべきではない。むしろ頼氏が最初から得宗偏諱を受けていない理由と、逆に家時が最初から北条氏の通字でもある「時」の使用を許された理由を考えることが重要なのではなかろうか。

 

本項では、足利氏嫡流の歴代当主1人1人を順に追っていき、その一字拝領を丹念に考察することによって、他の家柄とは異なった、得宗家と足利氏の継続的な烏帽子親子関係の成立過程を明らかにした。

他の家柄に着目してみても、武田氏は時政の代から、安達氏は義時の代から、佐々木氏六角流・義清流、二階堂、大江長井、千葉、河越、小田、安達、三浦、宇都宮各氏などは泰時の代から、葛西氏、少弐氏などは経時の代から、小山氏、佐々木氏京極流、大友氏などは時頼の代から、結城氏などは時宗の代から、といった具合に偏諱を賜るようになったタイミングは異なっており、得宗が次第に一字付与の対象者を増やしていることが窺えるが、同様に1つ1つの家柄について調べることでその実態を明らかに出来るかもしれず、今後もそうした作業が求められるだろう。 

 

脚注

*1:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)。

*2:前掲紺戸論文、P.15。具体的には、二階堂氏、大江長井氏、佐々木氏の近江(六角)流・京極流・義清流、千葉氏、河越氏、北条氏大仏流、小山氏、小田氏、足利氏の11家。

*3:前掲紺戸論文、P.11~14 第二節「足利氏の嫡流における元服の年次と嫡子の条件」。

*4:前掲紺戸論文、P.12に掲載の図に修正を加えて作成。年(西暦)は、北条氏は各々得宗の座にあった期間(経時は省略)、足利氏は推定される元服の年次を示す。

*5:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42。

*6:前掲今野論文、P.39では、実名の「家」字が八幡太郎義家に由来するとみられる人物として、その子孫にあたる鎌倉幕府第2代将軍・源頼家を挙げられている。

*7:理由は不明だが、後に義顕に改名している(『尊卑分脈』)。渋川氏の祖。

*8:「利」の由来は不明であるが、元服当時この字をもった御家人は確認できない。そもそも「氏」の字は泰氏の父・義氏の代から用いられており、その父・義兼が文字を選択したものと推測される。従って、利氏の名も泰氏が任意で名付けたものと考えられる。

*9:前掲紺戸論文、P.13。

*10:細川重男氏は、著書『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』(〈日本史史料研究会研究叢書1〉日本史史料研究会、2007年)P.70(第三章「相模式部大夫殿―文永九年二月騒動と北条時宗政権―」)にて、建長8(1256)年8月11日、当時9歳で元服した北条時輔は、烏帽子親・足利利氏の偏諱を受けて初め「時利」と名乗ったが後に改名し、利氏も北条時頼偏諱を受けて「頼氏」に改名した、ということについて、「二人の改名を重視する見解もあるが、改名したところで、烏帽子親子関係が解消するわけではない」と述べられている。

*11:吾妻鏡』建長8(1256)年7月17日条によれば、同日将軍・宗尊親王が山ノ内の最明寺を参詣したが、時頼が出家の準備を内々に進めていたのでこの日の参詣になったといい、最明寺は時頼が出家に備えてこれより少し前の時期に建てたものであった(高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.152)。

*12:前掲高橋氏著書 P.154。典拠は村井章介「執権政治の変質」。

*13:前掲高橋氏著書 P.94。典拠は前掲細川氏著書。

*14:川添昭二北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.12。

*15:臼井信義「尊氏の父祖―頼氏・家時年代考―」、前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」。各々、田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.67・P.189。

*16:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:前掲田中氏著書)P.166-167。

*17:前掲前田論文(田中氏著書 P.211)によると、『前田本源氏系図』には「尾張守家氏子云々」と注記されるが、系図類ではどれも頼氏の子として掲載されるので、形式上の親子関係と判断するのが妥当と思われる。『諸家系図纂』所収の上杉氏系図で重房の女子(頼重の妹)の注記を確認してみても、「深谷上杉系図」には「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母…」、「関東管領上椙両家及庶流伝」にも「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母堂」と書かれており、重房娘が家氏に嫁いだ証左は全く確認できない。

*18:谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:前掲田中氏著書)P.131。

*19:前掲田中氏著書、P.22。

*20:吾妻鏡』宝治元(1247)年3月2日条には、泰氏の妻であった時頼の妹の逝去の記事があり、家時生誕時には既に亡くなっている(前掲吉井論文 前掲田中氏著書P.163)。『尊卑分脈』には時頼の妹に「源頼氏母」を載せており、泰氏に嫁いで頼氏を生んだことが明らかである。

*21:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』60号・61号、2002年)を参照のこと。

*22:永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)P.32。

*23:或いは、家時が生まれた当時まだ時頼が実質的な権力者として存命であったことを考えると、頼氏の子に偏諱を与えることも時頼が生前に示した方針であった可能性も考えられる。

*24:前掲小谷論文(所収:前掲田中氏著書)P.126。

*25:【図A】では建治2(1276)年8月2日付「関東下知状案」(『紀伊金剛三昧院文書』、『鎌倉遺文』第16巻・12437号)で「足利式部大夫家時」として確実に実名が現れるまでの元服としたが、実際は家氏の主導により早くに元服が行われたものと考えたい。

*26:前掲紺戸論文、P.14でも「家時は元服当時嫡子の地位になかった」と推測されている。先行研究では、頼氏が北条時盛の娘を正室に迎えており、その間に嫡子が生まれることを見込んで庶子扱いであったという解釈であるが、家時が生まれてから頼氏が亡くなる2年の間に元服したとは考え難く、頼氏の死後の段階ではその嫡子に定められても良いはずだが、偏諱の位置以外にも、足利氏嫡流の継承者が称する「三郎」ではなく「太郎」を称していることから、この推測は正しい可能性が高い。すると、事実上頼氏と同じ「足利尾張三郎」を称した宗家が嫡子扱いであった可能性があり、これが正しければ、家氏が家督を代行し、家時を事実上養子として育てていたことの裏付けとなる。

*27:前掲川添氏著書 P.70。

*28:家氏の没年について、前掲吉井論文では、家時による書状が現れることを理由に1266~69年頃と推定されている(前掲田中氏著書、P.167)。

*29:但し、宗家の母は北条時頼の弟・為時(初め時定)の娘であり(『尊卑分脈』)、宗家も時宗の従甥(時宗と宗家母が従兄弟関係)にあたる、得宗家の血を引く人物であり、故に家氏の子を足利氏の嫡子として扱わざるを得なかったのかもしれない。

*30:前掲川添氏著書 P.107。

*31:前掲田中氏著書P.402、前掲前田論文(前掲田中氏著書P.189)。この記事に信憑性があることは、新行紀一「足利氏の三河額田郡支配―鎌倉時代を中心に―」(同書P.286)で述べられており、家時の正確な生没年の根拠となっている。「伊与」は「伊予」の別表記である。

*32:前掲前田論文(前掲田中氏著書P.203)。

*33:源姓で「宗家」を名乗る人物は、『尊卑分脉索引』〈国史大系本〉P.220で確認できる限り、源宗家(三条天皇の曾孫・従四位下、三巻P.558・559)と足利宗家(三巻P.258、四巻P.144)の2名のみであり、年代と官位が一致するのは後者である。

*34:『尊卑分脉』以下の足利系図による。『尊卑分脉』四巻P.144の略系図では「右近衛将監」とするが誤りか。

*35:注25参照。

*36:前掲田中氏著書P.24。

*37:熊谷隆之「斯波宗家の去就―越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ―」(所収:『富山史壇』181号、越中史壇会、2016年)。→ こちらでご覧いただけます。

*38:尊卑分脈』には「本名宗氏」とあるが、父・宗家と息子の高経が各々時宗、高時の偏諱を受けており、宗家―宗氏と2代続けて時宗偏諱を受けたとは考え難く、また同名の弟がいること(又三郎宗氏の実在は古文書で確認できる)から、初めから北条貞時の加冠により家貞を名乗っていたものと思われる。仮に初め時宗偏諱を受けて宗氏を名乗っていたとしても、得宗からの偏諱が下(二文字目)に変化したことになり、尚更その意味を考えざるを得ない。

*39:同じような事例は千葉氏に見られる。頼胤の子はともに時宗偏諱を受け、長男の宗胤が嫡子、次男の胤宗が庶子として扱われていたようであるが、貞時の代に入って宗胤の子は胤貞、胤宗の子は貞胤と名乗っており、のちに胤宗の系統に嫡流の地位が移ったことが窺える。

*40:貞氏は文永10(1273)年の生まれとされ、貞時が得宗・執権となった弘安7(1284)年の段階では12歳と元服適齢期である。一方、小川信 氏の説によれば、家貞の父・宗家は1262年の段階で成人の域に達していたとされ、ここで言う「成人」が具体的にいくつぐらいの年齢かは不明だが、恐らく元服適齢期の十数歳と考えて良いだろう。これに従えば、現実的に考えて家貞は1270年頃、もしくはそれ以後の生まれであったと推定できるので、騒動当時は20歳を超えることはなかったと判断でき、貞時治世下での元服の可能性がかなり高いと言えよう。判明している息子・高経の生年(1305年)当時に30代前半となり特に問題はない。

*41:前掲田中氏著書P.25。

*42:清水克行「足利尊氏の家族」(所収: 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』、新人物往来社、2008年)P.125-142によれば、『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」や『系図纂要』には高義の息子として安芸守某と田摩御坊源淋の記載があり、高義の死後に元服した高氏の仮名が宗家嫡男に付けられる「三郎」ではなく「又太郎」であったことから、高義の遺児の成長もにらんで高氏の家督相続が直ちに確定したわけではないようである。この指摘に従えば、「氏」字の使用が必ずしも嫡男としての名乗りを意味するものではなかったと解釈できよう。

*43:前掲田中氏著書 P.19によると、新田氏嫡流は政氏以降、基氏、朝氏と代々足利氏嫡流より「氏」字を拝領してきたようだが、これもたまたま足利氏の当主が家時以外であったからで、朝氏の子・義貞の「義」が足利高義偏諱とする同氏の見解には賛同である。

*44:注18に同じ。

*45:泰氏の父・義氏の「義」については、年代的には北条義時から偏諱を受けたという見方が出来るかもしれないが、元々源氏から続くそれまでの通字とみるのが妥当と思われるので、この字は義時とは特に関係は無いと判断したい。