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アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越高家

北条 高家(ほうじょう たかいえ)は、鎌倉時代後期の武将。

鎌倉時代末期に、北条朝時を祖とする名越流嫡流の当主を務め、名越高家(なごえ ー)とも呼ばれる。

 

 

 

父兄について

高家の父親については、時家とする説(時家―高家*1、時家の子・貞家とする説(時家―貞家―高家*2とある。細川重男氏は年代的な問題から前者が正しいと推測された*3が、これについては古文書によりその正確性が裏付けられた*4

 

まずは北条時家について。同じく細川氏の作成による経歴表は次の通りである*5

 

**********************************  

№21 名越時家(父:名越公時、母:極楽寺重時女)
  生没年未詳
  美作守(分脈)
  兵庫頭(分脈)
  従五位下(分脈)
01:永仁1(1293).07.24 下向鎮西(為異国警固)
02:永仁3(1295).04.29 東下
03:永仁3(1295).05.  引付衆
04:正安3(1301).08.  三番引付頭人
05:乾元1(1302).02.18 辞三番引付頭人
06:乾元1(1302).09.11 五番引付頭人
07:嘉元2(1304).09.25 辞五番引付頭人
 [典拠]
父:分脈。
母:開闢。
01:帝王・巻27。
02:永記・4月29日条。帝王・巻27。
03:永記・5月23日条、「武庫」。
04:鎌記・正安3年条。
05:鎌記・乾元元年条。
06:鎌記・乾元元年条。
07:鎌記・嘉元2年条。

********************************** 

『帝王編年記』(01典拠)には「九州探題 兵庫頭時家 尾張守公時男 永仁元年七月廿四日下向」とあり、この日までに兵庫頭となったことが分かる。『永仁三年記』同3(1295)年4月29日条(02典拠)に「廿九日。晴。評定延引。御寄合云々武庫自鎮西参着云々。」*6、5月23日条(03典拠)以後も度々、引付衆の一人として「武庫」が登場し*7、この当時も兵庫頭であったことが確認できる*8

前田治幸氏の論文*9によると、その後正安元(1299)年までに美作守に任官したようだが、確認してみると、同年7月3日付の書状*10に「……大隅方肝付郡弁済使兼石*11美作守時家代盛真相論……」とあり、時家が1295~1299年の間に兵庫頭から美作守となったことは確実である*12

ちなみに、『武家年代記』裏書*13・延慶2(1309)年条に「六八、美作左ー周時逝去、」とあり、この人物は『入来院本平氏系図*14、『前田本平氏系図*15および『正宗寺本北条系図*16に拠って「兵庫守〔ママ〕 美作守」と注記される時家の子、左近大夫周時(ちかとき)に比定されるが、その通称名(美作守の子で左近大夫の意)からも父・時家が美作守であったことが裏付けられる。

 

この名越周時(北条周時)についても、正宗寺本系図にある「左近大夫将監」とは左近衛将監(従六位上相当)でありながら五位に叙せられた者をいい*17、かつ同系図には息子として幸夜叉丸を載せている*18ことから、20歳以上までは生きていたと思われる。仮に周時の享年を20とした場合、現実的に考えて1309年当時時家は40歳前後より上であったと判断できるが、すると美作守となったのは30代の可能性が高く、歴代の名越流家督に一致する。

 

前述の通り、時家の子としては他に、高家の父とする貞家を載せる系図が多い。家が得宗時の偏諱を受けたことは後述するが、それに対して兄の周時は得宗偏諱(貞時の「貞」)を受けていないようである。この理由を考えると、得宗時の偏諱を受けた嫡兄・名越(北条貞家)の存在があっても良いように思われる。遅くとも1280年代の生まれで、貞時執権期(1284-1301)の元服に間違いないだろう。すなわち本来、時家の嫡子は貞家であったが、貞家・周時両者ともに早世したため、高家が新たな嫡男に定められたものと推測される

 

名越朝時の子は、長男が光時と名乗るのに対し、時章以下の弟たちはほぼ「時○」型の名乗りであった(教時を除く)。また光時の失脚後は時章が嫡流の継承者となったが、その長男も公時と名乗っており、名越嫡流家督継承者は「○時」型の名乗りを慣例としていた可能性が考えられる。とすれば、公時の嫡男である家はこの慣例を破ったことになるが、「家」も同名の祖先*19から取ったものと考えられるため、「時」は北条氏の通字ではあるが、得宗から受けたものと捉えるべきであろう*20。すなわち、金沢実時の子・方(のちの顕時)の加冠役も務めた北条*21からの一字拝領と思われる。実は「○時」型の名乗りを慣例としていたのではなく、公得宗・経からの一字拝領かもしれない*22

 

 

最後に時家の妻に関する情報を紹介しておきたい。

一つは、『入来院本平氏系図』において、北条時宗の弟・宗政(1253-1281)の娘の一人に「時家室」とある*23が、同系図で該当し得るのは名越時家だけである。江戸時代成立の『諸家系図纂』*24では金沢実村の子、顕時の弟として美作守時家の掲載があるが、『入来院本平氏系図』は勿論のこと、他の系図集でも見られない。「実時―実村―顕時」という系図自体が誤っていることは先行研究で指摘されており*25、官途の一致から名越時家と混同している可能性がある。現実的に考えて1270年代の生まれであろう。

二つ目に、第11代執権となった大仏宗宣(1259-1312)にも、名越時家に嫁いだ娘がいたようである*26。現実的に考えて1280年代以降の生まれと推定され、宗宣の嫡男・維貞(1286-1327)とさほど年齢は離れていないかもしれない。

後述するが高家の母親は不明である。時家が実父で間違いなければ、宗政娘 または 宗宣娘が母親であった可能性もあり得る。年代的には次の可能性が考えられる。

貞家(1280年代後半生?)周時(1290年前後生?) … 母:北条宗政の娘?

高家(1300年頃生?) … 母:大仏宗宣の娘?

今のところ、これを裏付けられる史料は無く、また時家には他に側室がいたかもしれず、あくまで推論に過ぎない。

しかしながら、この推測により、名越公時が嘉禎元(1235)年生まれである*27ことと合わせれば、その嫡子である時家は1260年前後~1270年頃の生まれと推定できる。『野津本北条系図』等の系図によれば北条重時の娘の1人が公時に嫁いだらしく*28、前掲表の典拠である『関東開闢皇代并年代記事』のほか、『前田本平氏系図』でも時家に「母重時女」の注記が見られる*29。兄弟と同じく1230年代~1240年代の生まれと思われ、公時ともほぼ同世代となるので母親との関係でも矛盾は生じない。美作守となったのがおおよそ30代、周時が亡くなった1309年当時40代という前述の推測通りの世代となって問題ないように思われる。

 

よって、年代的な観点から、細川説の通り、時家―高家は実際の父子関係にあったとみて良いだろう*30北条貞家 - Wikipedia などでは、貞家が早世したため、時家がその2人の遺児(2人の孫)を引き取って養子にしたとする説が挙げられているが、これは誤りと判断される。

*時家、貞家の没年が判明していないので、周時(1309没)→時家(1310頃没)→貞家(1311頃没)→高家 というパターンも1つ考えられる。すなわち、時家の死後、貞家が家督を継承したが間もなく亡くなったので、その養嗣子という形で高家が継いだと解釈するものである。すると、系図上で「時家―貞家―高家」とするのは決しておかしくはない。貞家に「遠江守」と注記する系図が多く、周時より長生きして貞家が国守任官に相応の30歳近くまで生きた可能性は必ずしも排除できない(実際は低年齢化して20代後半での任官かもしれない)。時家についても嘉元2(1304)年以降、史料に現れなくなり、1317年に尾張高家の活動が見られ始めることも踏まえると、1310年前後には亡くなっていたと考えるべきだろう。

 

 

名越高家元服と戦死

細川氏の表*31に従って、名越高家北条高家の経歴を紹介しておこう。

 

********************************** 

№22 名越高家(父:名越時家、母:未詳)
  生年未詳
01:文保1(1317).03. 在尾張
02:嘉暦1(1326).03. 在評定衆
03:元弘3(1333).04.27 没
  [典拠]
父:開闢。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。時家と高家の間に貞家を入れる系図があるが年代的にも無理があるうえ、元応2(1320)年3月11日付「関東御教書案」(『肝属氏系図文書写』)*32に「尾張前司高家」の祖父として「尾張道道鑑」とあり、「道鑑(道鑒)」は公時の法名であるため、高家の父は時家に比定される。

01:文保元年3月20日付関東御教書案(『薩藩旧記』前編巻12「古本末吉検見崎氏家蔵」)*33に「地頭尾張高家」とある。開闢。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
02:金文374に「尾張前司」とある。
03:太平記・巻9「山崎攻事付久我畷合戦事」。『梅松論』上。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。

********************************** 

 

まず「家」の名には、名越流でも代々用いられてきた北条氏の通字「時」が使われておらず、父・時家から「家」字を継いでいるようなので、「」が烏帽子親からの偏諱に疑いはない。細川氏が既にご指摘の通り、得宗時からの一字拝領であろう。

『正宗寺本北条系図』や『続群書類従』所収「北条系図」では周時の弟に位置づけられるが、兄を超えて得宗の加冠を受けるとは考えにくい。既に述べたが周時が亡くなったのは、延慶2(1309)年、高時が元服してから5か月も経たない頃である。恐らく、周時が亡くなった当時、高家はまだ元服していなかったのではないか。周時の死後、時家の嫡男に確定した高家は、得宗と烏帽子親子関係を結ぶ運びとなったのであろう。

 

勿論、高家元服について伝える史料は無いが、尾張守であった年代を考慮して、高時が家督を継承した1311年には済ませていたと考えて良いだろう。多少の誤差が生じるだけなので、当時の先例主義に倣って祖の朝時と同じ13歳*34での元服と仮定しておこう。

 

それから数年後(1317年)の史料となる01では「地頭尾張高家」が大隈国肝付郡弁済使・尊阿*35の所職 および 所領を横領した人物として見え、元応2(1320)年「関東御教書案」に同所領を尊阿に返付する「尾張前司高家」と同一人物であることは明白で、後者の書状には高家の祖父が尾張道道(=名越公時)であることも明記されている。前述の通り、この地では正安元(1299)年にも、弁済使兼石(肝付兼石)美作守時家代盛真*36が相論となっており、肝付郡の地頭であった時家・高家は名越流北条氏で間違いないだろう。

従って、この間の官途の変化から、名越高家文保元(1317)年3月20日までに尾張守任官、元応2(1320)年3月11日以前に尾張守を辞したことが分かる*37

 

02史料は、金沢貞顕が第15代執権に就任した3月16日に開かれた評定の様子を記したものとされるが、普段から筆まめな貞顕は、就任決定の喜びのあまりか、この書状でも出席者の席次・役割を細かく記載しており、遅刻した「尾張前司」にもわざわざ「遅参」という註まで入れている*38。幕府滅亡前後の史料に「名越尾張前司」「尾張前司高家」と書かれるものがあり(後述参照)、これも高家で間違いないだろう。

 

さて、元服の年齢を13歳前後とし、尾張守への任官が初見と同じ1317年(1~2月)のことであったとすると、約20歳前後で昇進したことになり、それまでの例に比べ低年齢化していることになるが、特に叙爵の年齢がそうなっていることから考えると強ちあり得ないことでもない。 

ここで、あわせて次の史料を確認しておきたい。  

『梅松論』上 13 より

(前略)……凡そ大将たる仁躰もだしがたしといへども、関東今度の沙汰然る可らず。これに依りて深き御恨みとぞ聞えし。一方の大将は名越尾張高家。これは承久に北陸道の大将軍式部丞朝時の後胤なり。両大将同時に上洛ありて、四月廿七日同時にまた都を出給ふ。

将軍(=大将軍・足利高氏:筆者註)は山陰・丹波・丹後を経て伯耆へ御発向あるべきなり。高家山陽道・播磨・備前を経て同じく伯耆へ発向せしむ。船上山を攻めらるべき議定有りて下向の所、久我縄手において手合の合戦に大将名越尾張高家討たるゝ間、当主の軍勢戦に及ばずして悉く都に帰る。

 上の基礎表で細川氏が死没の根拠に挙げておられる史料の一つである。厳密には「尾張前司(前尾張守)」とするのが正確であるが、軍記物語の性格上、許容範囲内であろう。同じく軍記物語の『太平記』でこの内容を描く箇所には次のようにある。 

太平記』巻九「山崎攻事付久我畷合戦事」より一部抜粋

……四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。……尾張は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。……爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、……「寄手の大将名越尾張をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。……

 

太平記』巻十四「新田足利確執奏状事」より一部抜粋*39

……太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛。潛看官軍乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。……

【解釈例】*40(*新田義貞から後醍醐天皇に宛てた書状の中で)……天下泰平の世であったのが、突如として天地が揺れ動き、土地は略奪され、人間は敵によって拉致される世となりました。その時南には楠木正成が居り、西には赤松入道円心が居ました。しかし四方にある朝廷に敵対する豪族、武将らが蜂起し、朝廷軍の動向を窺いました。この時尊氏は逆賊北条家の命令に従って、朝廷と戦うため一族挙げて都に向かいました。官軍が合戦を有利に進めているのを知った時、尊氏は密かにわが一命を救おうと考えました。しかしなお決心が定まらず、両軍の勝算を計っていたところ、北条軍の名越尾張高家が、戦場にて赤松軍に討たれ命を落としてから、朝廷軍を引き連れて、丹波国に向かい始めました。北条家が滅亡し朝廷が勝利を収めた日に、即刻漁夫の利を得んがため、不穏な行動にかかりました。高家が死亡した以上、朝廷に反旗を翻していれば、尊氏はただ一人で武器を手にして強敵に向かうことになる。この事実に恐れをなし退却した。その彼に忠義の忠もあろうはずがない。この戦で命を落とした将士に対し、恥を思うべきである。今、(尊氏は)僅かな勲功で以って、多くの恩賞を望み、私、義貞の忠義に疑いを持っている。そればかりでなく、人を落とし入れようと弁を弄し、巧みに非難中傷を続けているだけで、その訴えは何一つ正当なものでなく、ただよこしまな考えに基づく訴えであります。水が染み込むように、徐々に信じ込まされるような非難や中傷の言葉です。…… 

巻九において、その派手な格好が仇となり、赤松氏一門の佐用範家に討たれてしまったとする「名越尾張」は、巻十四での回想部分や『梅松論』と照らし合わせれば高家で間違いなく、「気早の若武者」であったという記載は一つ注目に値する。

細川氏はこれを20代前後であったと推測されている*41が、10代後半~20代前半とすると10代で尾張守であったということになってしまうため、20代後半として捉えるべきであろう。また、尾張守になったのを30歳程度とすると、亡くなったこの当時40歳を超えていたことになってしまい、「若武者」と呼ぶには年長過ぎるように感じる*42

よって、尾張守になった当時20歳前後とすれば、亡くなった当時30代前半となり、「若武者」という記述に矛盾しない範囲内である。ともに軍勢統率者であった足利高氏(のちの尊氏、当時29)*43とも近い年齢で妥当と言えよう。

 

尚、『太平記』や『梅松論』の記す通り名越尾張守=尾張前司高家で、その戦死については、他の史料でも確認できる。

「林実広申状」(『前田氏所蔵文書』)

「和田助家軍忠状」(『和田文書』)

『史料綜覧』にある上記2通の書状に「名越尾張前司」とあり、4月27日の久我縄手(久我畷)合戦のことを伝える。 

 

『元弘日記』裏書に「今年元弘三……四月廿七日、高氏加官軍、高家為圓心被誅、」とあり(*注:高氏=足利高氏、圓心(円心)=赤松円心[俗名:則村])*44

『神明鏡』*45および『村上源氏赤松之略譜』*46 に「名越尾張高家」討死の記事あり*47

 

 

その他、各系図類の高家の項でも討死の旨、記載が見られる。

続群書類従』所収「北條氏系図」、『諸家系図纂』:「尾張守 元弘三年四月 於久我縄手討死」

続群書類従』所収「桓武平氏系図」:「尾張守 元弘三年四月廿七日 於久我縄手討死」

『正宗寺本北条系図』:「名越尾張守 於山城内之赤井川原打死 七千余騎而鳥羽向」

系図纂要』北条系図:「遠江*  尾張守  元弘三年四ノ廿七討死于久我畷」 

 * 高家が「遠江守」であった事実は確認できないので、誤って挿入されたものであろう。

 

また、幕府滅亡後の次の史料3点から、最終官途が尾張前司であることと、「高家」という表現から(高家の死により)その旧領が収公されたことが分かる。

● 幕府滅亡より数ヶ月後の元弘3(1333)年7月19日付で、飛騨守護職となった岩松経家宛ての書状(所収:横瀬家蔵『集古文書』一 綸旨類)には、収公された北条氏の遺領10箇所の地頭職を与える旨が記されているが、その中に「同国遠江国大池荘 高家」とある*48。「維貞跡」(大仏嫡流「泰家法師跡」(高時の弟)「顕業跡」(系譜不詳*49と北条氏一族の名前が並ぶ中でのこの高家名越高家に間違いないだろう。

● 足利尊氏が深堀時継の勲功を賞して「尾張前司高家」であった大隅国岸良村を与えるとする建武4(1337)年12月26日付の書状(『深堀系図証文記録』)あり*50

● 興国3(1342)年6月27日付 阿蘇宮司・宇治惟時宛ての書状(『阿蘇文書』所収)に「肥後国甲佐高家万寿丸等、健軍郡浦泰家法師跡元弘の勅裁に任せ」(*読み下し、原漢文)社領を安堵する旨の記載があり*51、同じく元弘3年の段階で収公されていたと考えられる。

 

建武元(1334)年7月3日、鎮西探題阿蘇随時の一族とみられる「遠江掃部助三郎」・四郎兄弟ら北条氏方の残党が挙兵し、島津荘日向方(日向諸縣郡)南郷で乱暴狼藉を働いたとする書状が残っており*52、そのメンバーの中に「高家家人」であった「布施四郎兄弟」と「肥後兵衛次郎入道浄心」も含まれている。彼らは高家に仕えていたのであろう。他のメンバーのうち、「栗屋毛八郎左衛門尉」「久所十郎兵衛入道」「救二郷源太」の3名は「守時家人」であったといい、こちらも赤橋守時鎮西探題北条英時の兄、第16代執権)の旧臣だったようだ。

 

 

 

まとめ:名越高家・最新年表

永仁7/正安元(1299)年頃?:名越時家の子として生まれる。

延慶2(1309)年:6月8日に次兄・周時死す。代わって嫡子となる。

応長元(1311)年?新得宗・北条高時の加冠により元服か。

文保元(1317)年:この年までに尾張守任官。3月20日、地頭となっていた大隈国肝付郡の弁済使・尊阿(肝付兼藤)の所職および所領を横領。

元応2(1320)年:3月11日、幕府の命を受けた鎮西探題・北条随時の指令により、尊阿に横領した所職および所領を返還。これまでに尾張守を辞す。

嘉暦元(1326)年:3月16日、金沢貞顕が第15代執権に就任。当日の評定に評定衆として参加。当日の遅刻の理由は不明。

元弘3(1333)年:幕府の命により足利高氏とともに大将を務め上洛。4月27日、赤松則村(円心)の軍勢と合戦に及び、戦死(久我縄手の戦い)。『太平記』では赤松氏一門の佐用範家に討ち取られたとする。

 

 

 

 

高家の息子について ― 名越高郡(高邦)・名越高範

続群書類従』所収「北条系図」には、高家の子に左近将監高郡を載せる。

『諸家系図纂』でも「高郡」とするが、その注記に『太平記』では「高邦」とする異説を紹介している*53。『太平記』巻九「高氏篠村八幡に御願書の事」では、高家討死の一報を受けた高氏が丹波国篠村にて、幕府に叛旗を翻す形で挙兵し、赤松円心千種忠顕と合流して京(六波羅探題)を攻撃したことが描かれているが、天正本『太平記』では、彼らを迎え撃つ六波羅勢のうち、対足利部隊の大将をつとめる人物として「名越尾張将監高邦」が登場するという*54

高家が国守にまで昇進し、享年が約30歳と推測されることからも、左近衛将監(従六位上相当)の息子がいても決しておかしくはない。通称を信ずれば、尾張前司高家の子で間違いなかろう。しかし、名越流でありながら、当時の将軍・守邦親王偏諱を避けていないのに違和感があり、或いは将軍から一字拝領するとは考え難い*55ので、読みは「たかくに」で良いと思われるが、表記は「高郡」とするのが良いと思われる。

*「浅羽本北条系図」では、伊具時高(改め斎時)を名越時基の子とし、この時高の子を「時郡」と載せる*56。時高が得宗・高時の元服後まもなくその偏諱を避けて斎時と改名するような人物であるから *57、その子が当時の将軍・守邦親王偏諱を避けずに「時邦」と名乗っていたとは考えにくい。高郡と関係があれば尚更、こちらも「時郡」が正確であった可能性は否めない。或いは父と同様に「時邦」を「時郡」に改めたのかもしれない。時郡(時邦)には高時の偏諱を許されたとみられる高有という兄弟がいる。

 

難太平記』より

一、式部大輔入道殿の事〈三郎頼国と号す〉、中先代合戦の時、海道の大将として京都より下向し、遠江国佐夜の中山にて先代の大将名越といふ者討取き。

 建武2(1335)年8月12日、中先代の乱の際の小夜中山合戦において、今川頼国は「名越」という敵の大将を討取っている。『太平記』では「名越式部大輔」と記すのみである*58が、一説によれば、この「名越」は高郡(高邦)であるという。 

 

また別説によれば、頼国に討ち取られた人物を「名越太郎邦時」とする。単なる誤植かと思ったが、どうやら次の『掛川誌稿』の記述に拠ったもののようだ。

駅路南側林中ニアリ、来由傅ラス、按ニ建武二年八月、北條高時ノ餘類、名越太郎邦時、兵ヲ起シテ京ニ攻上ントシテ、小夜ノ中山ニ於テ今川式部大輔頼国ニ討ル、又享徳五年、今川義忠ノ一族、堀越陸奥守貞延、 小夜ノ山口ニ於テ横地勝田ノ為ニ討レ、共ニ戦死スルモノ数輩アリ、サレトモ鎧塚ハ名越太郎カ死骸ヲ埋ミタル所ナラン、今川頼国、名越邦時ヲ討テ、初テ本州ニ於テ大ニ功ヲ立タレハ、塚ヲ築テ其標トセシモノナルヘシ

 (文章は http://www.ochakaido.com/kokon/tabi/6-2.htm より引用。)

 「太郎」という通称名から、元服したばかりの無官であったことが窺えるが、それにしても得宗・高時の嫡男であった相模太郎(幼名:万寿丸)と同じ「邦時」を名乗っていることにはやはり違和感がある。相模太郎邦時が存命時に元服したのであれば尚更で、当時の将軍・守邦親王偏諱を許されたとは到底思えない。よって、これは高邦(高郡)の誤記であろう。

 

元々、今川国氏の次女(基氏の妹)高家に嫁いで婚姻関係にあったようで、頼国が従弟である高郡を討ち取ったものの、その弟・高範を養子に迎えて保護し*59、高範の系統は足利将軍家の奉公衆・那古野氏として存続したとされる。 

 

 

 

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脚注

*1:『正宗寺本北条系図』ほか。

*2:『諸家系図纂』所収「北条系図」『続群書類従』 6上(系図部)  9ページ(桓武平氏系図)、65ページ・78ページ(北條系図)。

*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.49注(20) および 巻末・鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.22「名越高家」の項。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その22-名越高家 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏ブログ記事:前注の改訂版)。根拠となった史料については本文にも掲げた通り。

*5:注3前掲基礎表No.21「名越時家」および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その21-名越時家 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:注3前掲細川氏著書、P.357。

*7:永仁3年記 より。

*8:元々兵庫は「武庫」とも言った(→参考:兵庫(神戸)県名の由来、兵庫の名は、武庫川の武庫に由来する! とは(2013.1.21): 歴史散歩とサイエンスの話題)が、兵庫頭の唐名も「武庫令(ぶこれい)」であった(唐名 - Wikipedia より)。実際に兵庫頭で「武庫」と呼ばれた例としては他に長井貞秀が挙げられる(史料上では武庫、長井兵庫頭貞秀、長井武庫と記される)小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.718 を参照。時期的に貞秀は時家の後継の兵庫頭かもしれない。

*9:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.221。

*10:『肝属氏系図文書』所収。『鎌倉遺文』20159号。

*11:肝付氏第5代当主・肝付兼石(かねいし?、正しくは兼右(かねすけ)?=武家家伝_肝付氏系図より)。肝付氏は、西方・東方弁済使や岸良村弁済使等の諸職を世襲する家柄で、地頭であった名越流北条氏の支配に抗して相論を繰り返した(『世界大百科事典 第2版』「肝付氏」の項、および、中野翠「中世高山城と肝付氏について」(所収:鹿児島県歴史資料センター黎明館『黎明館調査研究報告』補説、1984年)P.83-84)。

*12:この時家が名越時家であることは後述参照。

*13:竹内理三編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)所収。

*14:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29に掲載。

*15:注3前掲細川氏著書、P.368に掲載。

*16:注1に同じ。

*17:左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク より。尚、他の系図では「左近大夫」とのみ記載されるが、「左近大夫将監」の略表記で同じ意味である。

*18:他にも注2前掲の系図類に記載が見られる。

*19:系図類で「四郎大夫・伊豆介」であった北条時家が確認できる。『尊卑分脈』では時政の祖父とする。

*20:この理由として、時家の弟・公貞が得宗・貞時から受けたとみられることが挙げられる。「公」は父・公時からの継字であり、貞時の偏諱を下(2文字目)にしているが、これは庶子故であろう。時家・公貞兄弟は、北条経時・時頼、安達盛宗・宗景、千葉宗胤・胤宗…などと同様のケースと考えられる。

*21:吾妻鏡』正嘉元(1257)年11月23日条。実泰・実時父子は泰時の偏諱を受けており(『吾妻鏡』天福元(1233)年12月29日条によると実時の加冠役も泰時)、時方は同名の先祖(『尊卑分脈』では時政の父)より「方」字を選択したのに対し、「時」は時宗からの一字拝領で上(1文字目)においたと考えられる。時方改め顕時の嫡男・貞顕も貞時の偏諱授与者とみられている(永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館、2003年)P.3)。尚、時宗と時家はともに母方の祖父に重時を持つ、従兄弟関係にある。

*22:弟の頼章が時頼の烏帽子子であることは 名越頼章 - Henkipedia を参照。

*23:注14前掲山口論文、P.15。

*24:注2に同じ。

*25:関靖『金沢文庫の研究』(大日本雄弁会講談社、1951年)P.53。

*26:『正宗寺本北条系図』には宗宣の女子(維貞の妹)に「名越美作守妻」と記載があり、同系図(注1前掲同箇所)より美作守=時家であることが分かる。

*27:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*28:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)P.41。森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.177・185。

*29:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.368)。

*30:川添昭二北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.276の「北条氏略系図」では時家の子を貞家、周時、高家として載せる。

*31:前掲注4に同じ。

*32:『史料綜覧』 または『鎌倉遺文』27402号。

*33:『鎌倉遺文』26117号。

*34:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『吾妻鏡』建永元(1206)年10月24日条。3代将軍・源実朝の加冠により「朝」の偏諱を拝領している。

*35:注11前掲・肝付兼石の子・兼藤(かねふじ、第6代当主)法名とされる(鹿児島県の主要大名#肝付氏 より)。元応2(1320)年の裁定による所領の返還で相論が一旦は収まったかのように見えたが、その後元亨3(1323)年2月4日、兼藤は地頭代盛貞によって殺害されてしまった(肝付氏第6代兼藤の墓(鹿屋市串良町中郷): 鴨着く島 より)。

*36:この盛真と、尊阿と争った名越高家の地頭代・盛貞は、名前が類似している上、「真(眞)」と「貞」の両字も似ている(児玉幸多編『漢字くずし方辞典』P.266・P.401)ので、年代の近さもあって同一人物かもしれない。

*37:注9前掲前田論文、P.223表 および P.228 注(16)。

*38:注3前掲細川氏著書、P.171・P.319。

*39:『大日本史料』6-2 P.701 参照。

*40:太平記 巻第十四 (その一) より。

*41:注3前掲基礎表No.22「名越高家」では(注4前掲の改訂版とは異なり)尾張守であったことが確認できる史料について(恐らくは未発見のため)触れておらず、執筆当時の段階では特に考慮されていなかったと考えて良い。

*42:この場合、1287年頃の生まれとなるが、通常10代で行う元服当時の執権・得宗が貞時となってしまう。勿論、高時の代に入ってから改名したと考えることが出来なくもないが、系図類などの史料で初名を記載するものは確認できない。よって、高時家督初期の元服・叙爵であった可能性は高いと思われる。

*43:注9前掲前田論文、P.197・P.223 表。典拠は『道平公記抄』正慶2(1333)年4月27日条(同P.213 注(67))。

*44:『史料綜覧』元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム(4ページ目)。

*45:神明鏡 2巻. [2] - 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号.36~37。

*46:『諸家系図纂』所収(→該当部分:4ページ目)。

*47:『史料綜覧』

*48:『大日本史料』6-1 P.141

*49:北条顕業 - Enpedia 参照。「顕」字からすると金沢顕時の子孫であろうか。

*50:『大日本史料』6-4 P.485

*51:『大日本史料』6-7 P.223

*52:『大日本史料』6-1 P.659

*53:『史料綜覧』

*54:南北朝についての日記?:名越高家の子・高邦鎌倉幕府の衰亡(5) 六波羅探題の最期 より。

*55:確認できる限り、守邦親王偏諱を許されているのは、当時の16代執権・赤橋守時と、得宗高時の嫡子・北条邦時のみである。

*56:『続群書類従』 6上(系図部)  78ページ目(北條系図)または 『諸家系図纂』所収「北条系図」27ページ目。尚、伊具流北条泰時の弟・有時の系統)の部分(同前『続群書類従』83ページ目 または『諸家系図纂』30ページ目)でも他系図に同じく通時の子に時高を載せてはいるが「一作時基子」とわざわざ注記があり、時邦にも「一作齋時子」と記載して時郡と同人説を掲げる。青山幹哉氏によると同系図は江戸時代に成立のものでありながら、鎌倉期に成立の古系図に近く、原版としていた可能性を説かれている(→こちらを参照)。

*57:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*58:太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」。尚、金勝院本『太平記』ではこの時の大将を「名越尾張五郎時基」とする(→ 真福寺 より)。

*59:頼国も小夜中山合戦よりわずか数日後に戦死し、実際には、代わって家督となった頼国の末弟・範国の庇護下にあったとみられる。「高」が父・高家からの継字であるから、範国が烏帽子親となって「範」の偏諱を与えたのだろう。