Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長崎高重

長崎 高重(ながさき たかしげ)は、鎌倉時代末期の武将・得宗被官。通称は次郎。

 

 

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▲『前賢故実(江戸後期~明治時代成立)にある長崎高重の挿絵


 

長崎高重の活動とその系譜

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▲【系図A】『系図纂要』長崎氏系図*1

 

活動としては、『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「長崎二郎高重」、「長崎高重最期合戦事」~「高時並一門以下於東勝寺自害事」にかけて「長崎次郎高重」として登場するのが確認できるのみである。「始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦」(「長崎高重最期合戦事」)を戦い、鎌倉幕府滅亡直前には新田義貞の軍勢に紛れて大将・義貞の首を取ろうとする戦いぶりを演じた後に、得宗北条高時らのいる東勝寺に戻り、その場で腹を切って自害したと伝える。上の【系図A】での注記もこれを根拠にしたものだろう。

 

(参考記事)

takatokihojo.hatenablog.com

 

新田軍の中に紛れていることをやがて義貞の側近である由良新左衛門(=由良具滋)に見破られた時、高重は次のように名乗りを挙げている。

桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代、前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」

(『太平記』巻10「長崎高重最期合戦事」より)

これについては「貞盛より十三代」の部分が(修飾語として)【A】北条高時*2にかかるのか、【B】長崎円喜(えんき*3)にかかるのかで意見が分かれている。というのも、前者【A】であれば主君である北条高時の系譜を語っていることになり、後者【B】であれば高重自身に至るまでの系譜を語っていることになり、長崎氏の平資盛後胤説(『系図纂要』)の裏付けに重要な典拠となり得るからである。

【A】説支持:細川重男(2000年*4)、梶川貴子(2018年*5

【B】説支持:森幸夫(2008年*6

 

結論から言えば、「貞盛より十三代」目の人物=「長崎入道円喜」とする【B】が正確である。『尊卑分脈』に従えば高時は平貞盛から数えて16代目*7であり、900年代を生きた貞盛から高時(1303年生)の間400年ほどであることを考えると、13代では足りないだろう*8。そもそも、素性がバレて堂々と自己紹介をすべき場面において、主君の系譜を語るというのはどうも不可解である*9

一方、高時の内管領であった長崎円喜(『保暦間記』)は、「長崎流」の祖である資盛の子・盛綱に至るまでの系譜(『尊卑分脈』)と、盛綱以降の長崎氏系図(『系図纂要』)を繋げれば、平貞盛から13代目となる*10

 

ところで、元亨2(1322)年5月1日付「得宗公文所下知状」(『筑前宗像神社文書』)*11において、奉者4名の第一位として署判している「左衛門尉平」は、他書状との花押の一致から、長崎高資(たかすけ)と判明している*12。円喜の息子で内管領を継承した人物である(『保暦間記』・『系図纂要』)。同文書では、奉者第二位の諏訪氏が金刺姓(「左衛門尉金判」〔ママ、誤読か〕)で署名しており*13第一位の高資、ひいては円喜を筆頭とする長崎氏一門が平姓を称していたことは認められる元々嫡流は「平左衛門尉」を称していた(盛綱―盛時―頼綱―宗綱)

 

他方、『保暦間記』には「貞時カ内官領〔ママ、管領、平左衛門尉頼綱不知先祖法名果円〔ママ、杲円〕」と記されており、これ故に細川重男は当初、長崎氏の平資盛後胤説を全面的に否定していた*14。しかし、のちに平頼綱政権の再検討において、頼綱の次男・飯沼判官の諱(実名)は「助宗」と表記されることが比較的多かったが、頼綱の甥・長崎円喜の子が「高」と名乗っている(『保暦間記』など)ことから「宗」が正確であったと推定され、「」が平盛に通じることからも、頼綱が家格上昇を目指すために清盛流平氏の後胤説を言い出したのではないかと説かれている*15実際の真偽はともかく、長崎氏自体が平資盛を祖先と仰いでいた(その子孫を"自称"していた)ことを認められたものと解釈して良いだろう。

よって、「…『太平記』の長崎高重の名乗りは、「貞盛より十三代」の「前相模守高時」の「管領」である「長崎入道円喜」の「嫡孫」の「次郎高重」と読み取るべきであろう。……」という事実上当初の細川説を支持する梶川貴子の最新の考察*16は誤りである。 

長崎高重は、「平貞盛より13代目、長崎円喜の嫡孫」という自身の系譜を、堂々と叫んだのだった。実のところ、高重が平資盛の子孫を自覚していたと推測できるのには、「高重」というその名乗りにポイントがあると思われる。この点について次節で解説する。 

 

 

「高重」の名乗りと実父についての考察

ところで、高重の父については、長崎高貞 または 長崎高資 の2通りの説がある*17。高資と高貞は兄弟で、ともに円喜の子であることは史料で確認できるので、どちらの説を採っても、前述『太平記』の「円喜の孫」であることに矛盾は生じない。

但し、高重は「円喜が嫡孫」、すなわち「 "円喜の嫡男" の嫡男」と言っているのである。 円喜の嫡男が高資、高貞のどちらであるかを検討する必要があるだろう。

 

結論から言うと、円喜の嫡男は高資で、高重はその嫡男円喜―高資―高重とするのが正確と思われる。その理由を以下に述べたい。

 

 

長崎流における通称名 

1つ目にポイントとなるのが、高資・高貞各々の通称名である。その前に長崎氏の元来の本家筋である平氏における通称名について述べたいと思う。

 

【表B】 

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この表で明らかな通り、平左衛門尉盛綱の息子は、「平左衛門次郎」「平左衛門三郎」「平左衛門四郎」と呼ばれた。このうち「左衛門三郎=盛時は、父が「平左衛門尉」と呼ばれる時期に同じく左衛門尉に任官すると、区別されて「平新左衛門尉」と呼ばれるようになっている。 

吾妻鏡』では寛元3(1245)年5月22日条の段階で盛綱が出家していたことが確認され、嫡子・盛時を「平三郎左衛門尉」「平左衛門尉盛時」と記載する記事も見られるようになるが、実際はその後もしばらく「平新左衛門尉」と呼ばれていたとみられる。盛時が確実に「平新左衛門尉」と呼ばれなくなるのは、息子の「平新左衛門三郎」頼綱が左衛門尉に任官してからである。「平新左衛門尉頼綱」の初見は『吾妻鏡』弘長3(1263)年正月1日条、この時までに今度は頼綱が「平新左衛門尉」と呼ばれるようになったのだ。正嘉2(1258)年以降の盛時は、表記ゆれ無く「平三郎左衛門尉」と呼ばれるようになっている。 

盛時が「平新左衛門尉」と呼ばれるようになった期間において、弟の「平左衛門四郎」と同じ「(平)四郎」を名乗る「平四郎兵衛尉」なる者が初出する*18が、これはそれまでの「平左衛門四郎」が兵衛尉に任官した同人と考えられている*19「平左衛門三郎」であった盛時が左衛門尉任官後「三郎」が取れているのに対して、弟・兵衛尉は「四郎」を名乗り続けている

また、盛綱が出家して「平左衛門入道盛阿」と呼ばれるようになると、区別の必要が無い故か、盛時を「平左衛門尉」と記載する記事が見られるようになる(その後も「平新左衛門尉」と呼ばれることはあった)が、その宝治年間の段階で、次兄とみられる人物が依然として「平左衛門次郎」と呼ばれていた*20

先行研究では、この「平左衛門次郎」は、後に日蓮の『聖人御難事』で文永8(1271)年の滝ノ口の法難に登場する「長崎次郎兵衛尉時縄」〔ママ、時綱〕と同一人物とされる*21。弟の「平四郎兵衛尉」と紛らわしくなるというのもあるかもしれないが、こちらの時綱も「次郎」を名乗り続けていたということになる。

 

侍所所司や寄合衆を務めた盛時の活動は、「職務上、盛綱と頼綱の間に位置しており、両者をつなぐ懸け橋の役割を果たしている」*22と言え、盛時は盛綱の嫡男として家督を継承していた。盛綱の息子たちの中でこの盛時だけが「三郎」が取れて「平新左衛門尉」と呼称されていたことから、(○郎が付かず)単に「新左衛門尉」ひいては「左衛門尉」を通称とするのは家督継承者(=嫡男)に限られていたと考えて良いだろう。同様の現象は次代・頼綱でも確認できる。

 

このような現象は、諏訪氏*23、南条氏*24など他氏でも見られ、平氏より分かれた長崎氏(光綱流)もその例外では無かった。光綱は、兄とされる平頼綱(『保暦間記』)の存命時より「長崎左衛門尉」を通称としていたことは上の【表B】の通りである。その嫡男・円喜(『保暦間記』・『系図纂要』)も「長崎左衛門入道」と呼ばれた*25ことから、出家前の通称が「長崎左衛門尉」であったことは明らかで、近年『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条にある「長崎左衛門尉盛宗(もりむね)」が俗名とする説*26も出されている。

 

円喜の子で「長崎左衛門尉」を名乗ったのが高資であったことは前述した通りである。「長崎新左衛門尉」とも呼ばれていたが、それら全てにおいて「○郎」が付かない。

一方、高貞は「長崎四郎左衛門尉」と呼ばれていたこと確実で、庶子として扱うべきであろう。「長崎三郎左衛門入道思元」「長崎三郎左衛門尉高頼」「長崎孫四郎左衛門尉泰光」など、系図纂要』(【系図A】)において嫡流から分かれた者は必ず「○郎」を付けて呼ばれていた*27。 

長文となってしまったが、以上の考察により、長崎円喜の嫡男は「長崎新左衛門尉」高資であることが再確認できた。よって、「円喜が嫡孫」たる高重は高資の嫡男と判断すべきであろう。

 

 

長崎氏嫡流の名乗りと平資盛後胤説

前節で結論づけた「高資―高重」の父子関係だが、いわゆる一等史料(書状など)では確認できない。また、「現存するほとんど唯一の長崎氏系図たる『系図纂要』」*28(=前掲【系図A】)での「高貞―高重」を否定することになるが、果たしてこの説を別の方法で裏付けることは出来ないだろうか。

 

そこで着目したいのが「高重」という名乗りである。『系図纂要』での円喜の俗名「高綱」、そして高資と「」字が連続して用いられているが、これは北条時の偏諱とされる*29得宗被官であって、当時の得宗偏諱を許されていることからしても間違いはなかろう。「高綱」という名乗りは「得宗偏諱+盛綱以来の通字 "綱"」という、かつての内管領平頼綱―宗綱」父子に倣ったものと言えるし、「高資」の「」が祖先と仰ぐ平盛に通じることは前述した通りである。

すると、「高重」も時の偏諱を受けた一方で、」の字は資盛の父・平盛にあやかったものと考えられないだろうか

すなわち「高―高―高」の名乗りは、「盛―盛―盛」という系譜(『尊卑分脈』)を想定し、次第に遡った先祖に名字(名前の字)を求めたものと言える*30。この推測が正しければ、次のことが裏付けられるだろう。

① 長崎氏が平資盛の末裔を称していたこと(※自称の可能性は否定できない

② 高時の元服後のわずか数ヶ月間、円喜が「盛宗」 改め「高綱」を名乗った可能性があること。

③ 高資が円喜の "嫡男" であったこと。

④ 高資―高重の父子関係。

系図纂要』(=【系図A】)では盛綱を資盛の曾孫とするが、これは『関家筋目』等で関氏が資盛の子・盛国の末裔を称し、長崎氏が分家とされるのをそのまま採用してしまったためで、年代的に誤りであることはこちらの記事▼で述べた。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

盛綱を資盛の子とすれば、繰り返しになるが、高重の「平貞盛から13代目」発言は、盛綱に至るまでの系譜(『尊卑分脈』に同じ)と、盛綱から祖父・円喜までの長崎氏系図(『系図纂要』に同じ)を想定していたことになる。高重も、自身の名乗りが平重盛に通じることをかなり意識していたのではないか。従って、長崎氏は盛国―国房父子を祖先に含めていないことになり、この点で『系図纂要』は長崎氏が想定する系図とは違うものを記載していることになる。長崎氏は平資盛の末裔を称してはいたが、関氏の分家であることは自認していなかったのである。

 

そもそも、長崎円喜=「長崎左衛門尉盛宗」(前述参照)の嫡男として、内管領の職務を継いだ父・高資も、当時の先例・形式主義の風潮を考えれば、かつての内管領平頼綱―宗綱」父子の「得宗偏諱+盛綱以来の通字 "綱"」の構成に倣って「高綱」と名乗っても良さそうに思える*31が、そうしなかったのは何故か既に「高綱」を名乗る人物がいて、同名を避けるためであったとしか考えられない*32

高資以前に「高綱」を名乗り得る人物は、やはりその父・円喜しかいない。名乗るとすれば、延慶2(1309)年1月21日の北条時の元服*33後に、その偏諱」を拝領する形での改名であるが、細川重男氏は同年4月10日付のものとされる金沢貞顕の書状には「長入道」と書かれ出家した様子が確認できる*34として、それまでのわずか3ヶ月の間「高綱」を名乗ったとするのは現実的な想定ではないとして否定されている*35

しかし、高時元服後3ヶ月の間に出家するという予定を、当時の盛宗 (円喜) 自身が果たして決めていただろうか。そもそもこの時期の出家の動機は不明で、実際に出家後も事実上の最高権力者「長崎円喜」として幕府滅亡時まで存命であったから病弱であったとも考えにくく、突発的な理由によるかもしれないのである。既に心に決めていたと考える方こそ現実的な想定とは思えない

高時の元服からわずか3ヶ月の間に出家したというのはあくまで結果論であって、出家を予期せずに「高綱」に改名するという想定は十分可能であると思う。長崎盛宗は出家して円喜と名乗るまでのわずかな期間「」を称し、同名を避ける意図でその嫡男は「」、嫡孫は「」と名乗った。代々時の偏諱を受けた長崎嫡流当主の名乗りは「盛―盛―盛」という祖先の系譜に基づくものだったのである*36

 

 

高重と北条高時の烏帽子親子関係

光綱系長崎氏の嫡流は、代々得宗・北条時の偏諱を受けたが、(円喜、初め盛宗)(初名: 資?*37が各々改名によって一字を拝領したのに対し、重は実際に高時を烏帽子親として元服したものと推測される。

最期を迎える1333年の段階で「次郎」のみを称していることから無官であったとみられる。高資の嫡男で官職を与えられれば「新左衛門尉」を称していたと考えられるからである。【系図A】を見れば明らかな通り、長崎氏一族は必ずといって良いほど「左衛門尉」に任官する傾向にあり、舎弟の新右衛門諸共、その前段階にあったと推測される。当時新右衛門が15歳という元服してから間もない年齢であることからも、高重も20歳に達するかしないか程度の享年であったのだろう。

高時執権期(1316-1326)の元服だったかどうかは判断が難しいが、『太平記』を見る限りでは得宗・高時の近臣の立場にあったと言えるので烏帽子親子関係成立に無理はないだろう。新右衛門も『増訂豆州志稿』では【系図A】での高資の子・(たかなお)に比定されており*38、この名も時から偏諱を認められたもので間違いない。

 

 

 

系譜についての別説(※誤伝) 

『伊豆志稿』に「長崎村長崎氏。平盛綱―光盛―光綱―高綱―高重」とあるらしい*39が、高資の実在は実際の書状等で確認できるので明らかな誤りである。前述の考察に従えば、高綱の後にいきなり平重盛の1字を持った高重が出てくるのはやや不自然に感じる。

『正宗寺本北条系図*40では何故か高重を常葉流北条範貞(常葉範貞)の子としているが、『尊卑分脈』での範貞の子・重高(越後三郎)と混同しているようである。更にその注記を見ると、東勝寺合戦北条高時らに殉じたことを『東鑑』(=『吾妻鏡』)に拠ったとするが、『太平記』の誤りであることは明らかで、この部分の信憑性は低い。

系図では大仏流北条貞宣の子・高貞に「 崎悪四郎左衛門尉」〔ママ〕と注記する*41が、恐らく最初の文字が抜けており、『系図纂要』で高重の父とする長崎四郎左衛門尉高貞と同人としてしまっている可能性がある。その注記には「白〔伯〕耆国有塩谷判官高貞ト云人 太平有之 此高貞ハ別人カ 此同時之人タルベシ」とあるが、同時期に『太平記』に現れる佐々木高貞塩冶高貞*42とも混同しているようだ。 

 

長崎重と北条重(常葉重高)*43、長崎貞・塩冶貞・北条貞は、いずれも北条時の烏帽子子として「」の偏諱を受けた、ほぼ同世代の人物であるということが唯一の共通項であろう。

 

 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.422~423 より。

*2:高時は文保元(1317)年より第14代執権として相模守、嘉暦元(1326)年に出家してからの後任は第16代執権・赤橋守時新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪同 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*3:『増鏡』「叢(むら)時雨」の文中に「…此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。…」とあって「円基」と誤記しているが、これも「えんき」と読め、通称名からも円喜を指すことは明らかなので、かえって読み方の裏付けとなる。

*4:注1細川氏著書、P.140~141。

*5:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.118。

*6:森幸夫「得宗被官平氏に関する二、三の考察」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、2008 年)P.438。

*7:前注森氏論文、P.448 注(9)。系譜は、貞盛―維将―維時―直方―聖範―時直―時家―時方―時政―義時―泰時―時氏―時頼―時宗―貞時―高時。

*8:時政から高時までの親子の年齢差を調べると、時政―(25)―義時―(20)―泰時―(20)―時氏―(24)―時頼―(24)―時宗―(21)―貞時―(32)―高時、であり、高時は覚久(長崎光綱養子として僧籍)・菊寿丸(早世)に次ぐ貞時の3男だったようなので年齢差が開いているが、それまでは等しく20数歳で次代をもうけていることが窺えよう。時政~貞時までの平均値は22.3…才で、8代で166年かけていることも分かる。これを参考にすれば、貞盛から高時に至るまでが13代とするのは代数が足りないと判断できよう。16代であれば400近い年数が稼げる。

*9:注4同箇所にて細川氏は「武士は自分の家系や先祖の武勲を叫ぶもの(だが、高重は主君高時の系譜を長々と語り、自分の家系については当時存命の祖父高綱にしか触れていない) 」と説かれているが、まさにこの通りではなかろうか。武士たる高重とてその例外ではなかったはずである。

*10:系譜は、貞盛―維衡―正度―正衡―正盛―忠盛―清盛―重盛―資盛―盛綱―光盛―光綱―高綱(円喜)。途中「…盛綱―盛時―光綱…」が正確とする説もあるが代数に変化は生じない。注6・注7各箇所での森の見解による。

*11:『鎌倉遺文』第36巻28012号。

*12:注1前掲 細川氏著書 P.103・表6、P.192。

*13:前注同箇所。尚、細川氏はこの左衛門尉金刺(=諏訪左衛門尉)を宗経(直性)の嫡子で、三郎盛高の兄と推定されている。盛高が高時からの偏諱を2文字目にしていることからすると、実名は 「高□」(例えば高経、高宗など)であったと思われるが、現時点でそれを確認できる史料は無い。『諏訪氏系図 正編』では弘重(『系図纂要』等、直性にあてる系図あり)の子、盛高の兄として盛時(諏訪次郎左衛門尉)を載せる(コマ番号:89・93)が「時」は北条氏の通字とみられ、また大祝・諏訪頼重の子、時継の弟に高重・高継を載せる(コマ番号:103)が、正しい情報であれば高時の偏諱を受けた者の例となり、1つ参考になるであろう。

*14:注1前掲 細川氏著書、P.140・143。

*15:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』(日本史史料研究会、2007年)P.128。「資」字については今野慶信からの教示によるという。

*16:注5に同じ。

*17:講談社『日本人名大辞典』(長崎高重(ながさき たかしげ)とは - コトバンク) より。『系図纂要』では高貞の子として載せる一方、『前賢故実』では「高資子」と記載(→ 先賢故實 古代人物畫像集成 または 長崎高重 - ArtWiki を参照)し、太田亮 著『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)第2巻「関 セキ」の項 および 同第3巻「長崎 ナガサキ」の項 によれば『関家筋目』等でも高資の長男、『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipediaに掲げた『増訂豆州志稿』巻12でも「高重ハ北條氏ノ内管領、高資ノ子」と記されている。

*18:吾妻鏡』建長5(1253)年正月2日条に「平新左衛門尉盛時 同四郎兵衛尉」とある。

*19:前掲細川氏著書 P.133表15。細川氏はこの四郎を、『系図纂要』(【系図A】)での盛綱―頼綱の間に三郎盛時を挿入した上でその弟(同じく盛綱の子)である光盛に比定されている(同書P.138)。

*20:吾妻鏡』宝治2(1248)年正月1日条。頼綱の例を見れば、もし盛時の子であったなら「平新左衛門次郎」と称するはずなので、これは盛綱の子「平左衛門次郎」で良い。

*21:森幸夫「平・長崎氏の系譜」(所収:安田元久編『吾妻鏡人名総覧 : 注釈と考証』、吉川弘文館、1998年)P.589、および、注1前掲細川氏著書 P.137・139。

*22:注1前掲細川氏著書、P.129。

*23:注1前掲細川氏著書 P.192では、『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」嘉暦2(1327)年9月12日条の「諏方〔訪〕新左衛門」は、注13で紹介した直性の嫡子「左衛門尉金判〔刺〕」に比定する。

*24:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号、2012年》P.390。

*25:『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条。『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia の【史料a】参照。

*26:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。

*27:この者たちの通称名が実際の史料で確認できることは『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia【表3】【表4】を参照。

*28:注1前掲細川氏著書、P.124。

*29:注1前掲細川氏著書 P.183 注(61)、P.184 注(73)。

*30:このような事例は当該期の他氏においても確認ができる。細川重男得宗時―時」の名乗りが平盛、平望に由来するものと推測されており(角田朋彦 「偏諱の話」(所収:『段かづら』三・四合併号、2004年)P.20~21)、また三浦介を継いだ三浦氏盛時流(相模三浦氏)でも頼盛以降の「時―時―高―高」(鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.259)の名乗りは「為―為―義―義」(同前鈴木氏著書、P.16)という系譜を想定し、次第に遡った先祖に名字を求めた形跡が見られ、いずれも同じく桓武平氏を称する家柄として参考になるだろう。他にも小山・結城両氏で「朝」字が復活する(市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.96・97)など、先例・形式主義鎌倉時代後期においては、名乗りの面で祖先にあやかる風潮が広まっていたと言えよう。幕府滅亡後の改名事例(→北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia を参照)の中にも同様の現象が多く確認できる。

*31:特に「綱」の字は、内管領となった円喜の父・光綱も用いており、結果として偶然そうなっただけかもしれないが、事実上内管領に就任した者の"通字"となっていた。頼綱は平禅門の乱で討伐され、宗綱も最終的に流罪となっているが、彼らに対して悪いイメージがあったなら、光綱の段階で「綱」字を避けているはずである。確かに光綱の嫡男は「盛宗」と名付けられたようだが、これは北条時宗による加冠の際に、父である光綱が祖先・盛綱までの通字を使用したい旨の申請がなされた可能性も考えられる。どのみち嫡流の「宗綱」「資宗」と同名になるのを避ける必要はあったはずである。

*32:このことは高資の兄弟が「高貞」と名乗っていることからも推測できよう。【系図A】の通り、高泰・高光(=思元?)が円喜の叔父であれば、円喜より年長で同じく高時元服後に改名したと考えるのが自然だと思うが、明らかに「高綱」の名乗りを避けていると言える。同系図で円喜の弟とされる高頼についても高時からの一字拝領に間違いないと思われるが、やはり同様である。

*33:注2前掲「北条高時」の職員表参照。

*34:この書状の時期比定については当ブログでも考証を行った。詳しくは『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia を参照のこと。

*35:注1前掲細川氏著書、P.183 注(61)。

*36:仮に円喜の「高綱」改名が事実で無かったとしても「盛宗」の名乗りはやはり盛綱を意識しているものと言えるので、この推定自体は成り立つと考える。

*37:注1前掲細川氏著書 P.184 注(73) では、延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書」(『鎌倉遺文』第31巻23932号)における奉者の第一位「資□」(2文字目欠字か) が後の高資と同様の役割を担っているとして、改名前の高資と推測されている。これが正しければ、元服当初から平資盛由来の「資」を使用していたことになる。

*38:これについては『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia を参照。

*39:太田亮 著『姓氏家系大辞典 第3巻』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)「長崎 ナガサキ」の項

*40:正宗寺北条系図』。

*41:正宗寺北条系図』。

*42:太平記』巻21「塩冶判官讒死事」。

*43:一方の「重」字は、高祖父にあたる極楽寺流の祖・北条重時から取ったものに間違いはなく、注30の一例に該当する。