▲金沢貞顕(北条貞顕)の肖像画(国宝、称名寺蔵、神奈川県立金沢文庫保管)
はじめに
本項で扱う史料は、『金沢文庫古文書』324号として収録の「金沢貞顕書状」というものである(後掲【史料A】参照)。貞顕の書状は膨大に残されており、鎌倉時代後期の歴史研究に不可欠なものとなっているが、ほとんどが何時の物か不明であり、先行研究で時期の推定がされてきたが、324号書状についても、既に次の論文が出されている。
これに拠ると、同書状は、延慶2(1309)年4月10日付のものとされるが、本項でも同様の考証作業を記したいと思う。というのも、残念ながら筆者はこの論文を確認できていないのであるが、あえてその状態で独自の考察を行うことは決して無意味ではないと思ったからである。
結論から言えば、田井氏の言われる延慶2年4月10日で正しいと思う。但し、その理由が田井氏と全く同じなのかは分からない。しかし、田井論文とは独立した本項で、論文後に出された先行研究も踏まえた考察が述べれば、かえってその補強になるかと思う。
書状中の人物の比定
太守禅門・奥州・武州・貞顕・洒掃・別駕・奉行信州・合奉行長入道・同尾金等令出仕候了。相州御不参候也。
昨日長崎左衛門為御使御寄合参勤事被仰下候之間、則令出仕候了。面目之至無申計候。武州同被仰下候之際、出仕候了。徳政以下条々御沙汰候き。御神事以後入見参。諸事可申承候。(以下欠)
太守禅門{得宗貞時}・奥州{大仏宗宣}・武州{北条煕時}・貞顕(金沢貞顕=※筆者本人)・洒掃{長井宗秀}・別駕{安達時顕}・信州{太田時連}・長入道{長崎円喜}・尾金{尾藤時綱}
(1)書状の筆者と寄合衆のメンバー
この書状で貞顕は、昨日(前日)に長崎左衛門尉が得宗・貞時の使者として自身のもとに赴き、寄合に参勤するよう命じられたことを綴っている*4。すなわち、冒頭に挙げられている人名は寄合衆として参加していたメンバーであることが分かる。こういった書状類では、官職による通称名で書くのが通例であるが、その通称を分析すると次の通りである。
●太守禅門=出家後の得宗
●奥州=陸奥守
●武州=武蔵守
●貞顕=金沢貞顕(筆者本人)
●別駕=諸国の介(すけ)の唐名*6。よってこの者の官職(通称)は「~介」である。
●信州=信濃守
●長入道=長崎入道の略。他にも「長禅門」など "長崎" を「長」と略記した書状が確認できる。
●尾金=「金」は左衛門尉の唐名(本来は衛門府のそれ)である「金吾」*7、「尾」は長崎氏と同様で尾藤、各々の略記。すなわち尾藤金吾=尾藤左衛門尉。
●相州=相模守。執権就任者の役職。
この中で唯一「貞顕」だけが実名(諱)で記されているので、これは書状を書いた本人=金沢貞顕であると判断できる。
(2)期間の絞り込み
【史料A】における「太守」は将軍権力代行者=“副将軍”たる得宗にのみ許された称号*8を指すものであり、金沢貞顕(1278年生*9)にとってのそれになり得るのは「貞」の偏諱を与えた*10烏帽子親の貞時*11、またはその嫡男で最後の得宗となった高時のどちらかである*12。
そして「禅門」(=出家後)であることから、この書状は
Ⅰ.貞時の出家(1301.8.23) ~ 貞時死去(1311.10.26)
Ⅱ.高時の出家(1326.3.13) ~ 貞顕出家(1326.3.26)
のいずれかの期間内に限られる。
Ⅱの方は、書状の筆者が自身を「貞顕」と書いているから、いわゆる「嘉暦の騒動」より前になると判断できる(後掲【史料B】等、出家後は法名の「崇顕(すうけん)」で署名している)。
(3)奥州・武州・相州
陸奥守・武蔵守・相模守、この3つの国守は北条氏に大変ゆかりのある役職である。
●陸奥守は2代執権・北条義時が一門では最初に就任し、間を空けて*13息子の北条重時・政村が任官して以降は北条氏一門*14、更に大仏宣時が1289年に任じられて以降はその子孫である大仏(おさらぎ)流北条氏の世襲となった。Ⅰの場合は宗宣、Ⅱの場合は維貞ということになる。
(参考記事)
●武蔵守は義時の弟・時房が最初に任官し、その後第3代執権の泰時が任じられて以降は、時房の子・朝直、第4代執権の経時……と北条氏一門の世襲となり、貞顕もこの役職を経ている(1311~1319年*15)。Ⅰの期間には時村→久時→煕時(凞時とも)が就任、Ⅱの場合は赤橋守時(久時の子)となる。
●相模守は義時が執権就任の数ヶ月前に任官(のち陸奥守に転任)したのが最初で、次いで武蔵守から転任した弟の時房、そして義時の子・重時と連署を務めた人物が任ぜられたが、のち陸奥守に転任した重時から事実上譲られる形での任官となった時頼*16以降は、得宗を含む執権就任者による世襲となった*17。Ⅰの場合は師時となるが、Ⅱは高時が出家により執権職を辞してから、守時が第16代執権として武蔵守から転任するまでの空白期間にあたる。
改めて【史料A】を見ると、太守禅門(得宗)・相模守(執権)・陸奥守・武蔵守・貞顕の5名が別々の人物として書かれている。言うまでもないが出家して「相模入道」となった得宗のほかに、執権となった相模守が存在することになり、よって大仏宗宣が陸奥守と11代執権を兼ねていた期間(1311.10.3~1312.5.29)のものではないことも確実となる*18。
また、武蔵守がいることから、【史料A】が貞顕の武蔵守任官中(1311~1319年)のものではないことも裏付けられるが、同時に貞顕は相模守(執権)とも別人ということになる。すると、そもそもⅡはほぼ貞顕の執権在任期間(16日~26日)そのものであるから、これでⅡであることはあり得ず*19、Ⅰの期間内であることが確実となる。貞顕はわずかな執権在任期間で相模守には任官することは無かった。
以上により、【史料A】は
Ⅰ’.貞時の出家(1301.8.23) ~ 陸奥守宗宣の11代執権就任(1311.10.3)
の間のものということが分かり、同時に、
● 太守禅門 = 貞時 (法名崇演・前執権)
● 相州 (相模守・10代執権) = 師時
● 奥州 (陸奥守・執権就任前) = 宗宣
であることも確定する。但し師時が存命でなくてはならないので
Ⅲ.貞時の出家(1301.8.23) ~ 10代執権相模守師時死去(1311.9.22)
と推定できよう。
(4)他人物の比定①
上記の期間推定に従って、他の人物も確定させてみよう。
●洒掃(掃部頭)=長井宗秀(法名:道雄、貞時に追随して出家)
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●別駕=安達時顕(秋田城介)
まず、この2名は婚姻関係等を通じて金沢家と深い関係にあり、他の貞顕書状との照合によって特定が可能である。加えて次の人物も比定し得る。
:1298年任官。1326年の高時の出家に追随後「信濃入道々大」(法名:道大)と呼ばれている*21ので最終官途が信濃守であったと判断でき、この時までの在任であったことも分かる。
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●尾金(尾藤左衛門尉)=尾藤時綱(のち貞時[崇演]の死後に出家して「演心」)
:正安3(1301)年12月24日付「関東御教書」(『島津家文書』)*22に「日向国臼杵郡田貫田尾藤左衛門尉時綱領」とあり*23、Ⅲの期間の「尾藤左衛門尉」や「時綱」がのちの演心に比定される。
以上を踏まえた上で再度人物の整理をすると、
【太守禅門{貞時}・奥州{宗宣}・武州{時村 or 久時 or 煕時 ?}・{貞顕}・洒掃{長井宗秀入道道雄}・別駕{安達時顕}・信州{太田時連}・長入道・尾金{尾藤時綱}/ 相州{師時}】
となる。
(5)他人物の比定② :「長入道」「長崎左衛門」
「長入道」は、前述した通り「長崎入道」の略記である。
例えば、次に掲げる【史料A】とは別の貞顕書状に記載が見られる。
【史料B】(1331年?)正月10日付 金沢貞顕書状
出家後の「崇顕」名で書かれたものだが、ここには長崎氏一門の人名が複数並ぶ。「○郎」と書かれる者に対して単に「長崎入道」とだけ書かれる人物は、一門をまとめる惣領(嫡流の当主)の立場にあったことが窺えよう。「同(長崎)三郎左衛門入道」も同じく出家していた身だったが、出家前の通称が「三郎左衛門尉」であったため、呼称の面で区別されている。
「長崎入道」は同時期の史料を見れば長崎円喜に比定し得る。分かりやすい例を数個紹介すると次の通りである。
●『保暦間記』に「…彼(高時)内官領長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打レシ平左衛門入道カ甥光綱子…」、「…高時官領長崎入道老耄ニ依テ、子息長崎左衛門尉高資ニ、彼官領ヲ申付ク。…」とある。
●『太平記』巻9「足利殿御上洛事」、巻10「長崎高重最期合戦事」・「高時並一門以下於東勝寺自害事」に「長崎入道円喜」とあり、巻2「長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事」文中の「執事長崎入道が子息新左衛門尉高資」は『保暦間記』に一致する。
●『増鏡』「叢(むら)時雨」に「…此の頃、私の後見には、長崎入道円基〔ママ、円喜〕とか言ふ物有り。…」とあり。
【史料C】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「丹波長周注進状」
多くの史料で「長崎入道」とだけ呼ばれた円喜だが、この【史料C】では「長崎左衛門入道円喜」と呼ばれている。この記載から出家前の通称が「長崎左衛門尉」であったことが分かる*24。
以上の内容を踏まえた上で【史料A】を再確認してみると、「長入道(=長崎入道)」のほかに「長崎左衛門(尉)」なる者の記載があるため、この2人は別々の人物であり、円喜はこの段階で「長崎左衛門入道」と称して出家していたことが分かる。
では「長崎入道円喜」に該当する人物は誰か。
『増訂豆州志稿』巻13には「長崎光綱 太郎左衛門尉 [増] 光盛ノ嫡子、髠シテ円喜入道ト称ス 武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス ……」とある*25が、光綱はⅠ’より前の永仁5(1297)年には既に亡くなっている*26から、前述の『保暦間記』に拠って「長崎入道円喜」は「光綱ノ子」とすべきであろう。「長崎左衛門」は同じく『保暦間記』に従い「子息長崎左衛門尉高資」と判断できる。この『増訂豆州志稿』にある通り、「武家系図」が指すと思われる『系図纂要』によれば、光綱の子、高資の父である高綱の注記に「入道円喜」とある。
ところで、Ⅲの時期(1301~1311年)には「長崎左衛門尉」と書かれた史料が幾つか残されている。既に亡くなった光綱ではあり得ない。光綱が亡くなる前年にはその嫡男と思わしき「長崎新左衛門」なる人物の登場が確認でき、「長崎左衛門(=光綱)父子」と書かれた部分も見られる*27。すなわち光綱がまだ存命の時期に、その嫡男が同じく左衛門尉に任官したので区別されて「新左衛門」と呼ばれたのだが、光綱の死後はその必要性が無くなったため「長崎左衛門尉」と称されるようになったと考えるべきであろう。
光綱の死後直ちに出家していれば「長崎新左衛門入道」と呼ばれてもおかしくはないはず*28だが、その直後の時期においては「長崎入道」なる者は確認できない。そしてその段階で「子息長崎左衛門尉高資」が出てくるという想定も現実的ではなかろう。
よってⅢの時期における「長崎左衛門尉」は出家前の円喜(高綱)であり、【史料A】の段階までに出家したと推測できる。
*【史料A】での「長崎左衛門」を長崎高資としなければ、その父・円喜の出家前ということになるが、その場合「長崎入道(=長崎左衛門入道)」に該当する人物がいなくなってしまう。光綱は出家しないまま既に亡くなっているため、この「長崎入道」(長崎左衛門尉・先代)を円喜、「長崎左衛門」(長崎左衛門尉・当代)を高資とするしかないのである。
近年『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条に「成就御所(成寿、のちの北条高時)」の矢開においてその御剣役を務める人物として「長崎左衛門尉盛宗」とあるのが確認された。Ⅲの時期における「長崎左衛門尉」=出家前の円喜(高綱)は、通称名からこの長崎盛宗と同人とみなして良いだろう*29。
よって【史料A】の時期は
Ⅳ.長崎盛宗 [円喜] 在俗(1307.7.12) ~ 師時死去(1311.9.22)
の間に絞り込める。
(6)貞顕の鎌倉下向時期
ここで書状の筆者本人である金沢貞顕について確認しておきたい。というのも、六波羅探題南方として上洛していた時期がⅢの期間内に相当するからである。冒頭で前述した通り、【史料A】に挙げられているのは鎌倉幕府の寄合衆メンバーであり、そこに貞顕が参加するには、鎌倉に戻っていなければおかしい。
「関東開闢皇代并年代記(かんとうかいびゃくこうだいならびにねんだいき)」によれば、延慶2(1309)年正月17日に鎌倉に下着したとするが、同日付で称名寺長老・釼阿(けんあ)に送った書状により誤りであるという。但し21日には北条高時元服式において御剣役(みつるぎやく)を仰せつかったようなのでこの期間内であることは間違いなかろう。寄合への参加はこれ以後ということになる。
但し、同3(1310)年6月25日には貞顕は六波羅探題北方として再度上洛する運びとなり、寄合への参加は鎌倉に戻り、再び上洛するまでの間であることは確実である*30)。
よって【史料A】の時期はⅣを修正し
Ⅴ.貞顕鎌倉下着後(1309.1.21) ~ 貞顕再上洛(1310.6.25)
の間と更に絞り込める。
(7)他人物の比定③ :「武州」
Ⅲの期間に武蔵守であった人物の在任期間を示すと次の通りである。
武蔵守在任 | |
北条時村*31 |
1282.8.23 ~ 1304.6.6 |
赤橋久時*32 |
1304.6.6 ~ 1307.2.9 |
北条煕時*33 |
1307.2.9 ~ 1311.10.24 |
前節で【史料A】の時期をⅤの通りに推定できたので、当該期の武蔵守は北条煕時で確定する。
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これにより寄合衆全員の人物比定が完了し、
【太守禅門{貞時}・奥州{宗宣}・武州{煕時[当時貞泰?])}・{貞顕}・洒掃{長井宗秀入道道雄}・別駕{安達時顕}・信州{太田時連}・長入道{長崎盛宗[高綱]入道円喜}・尾金{尾藤時綱}/ 相州{師時}】
という、従来の説と同じ結果となった。
書かれた時期の推定
さて【史料A】の寄合はいつ行われたのであろうか。
『鎌倉年代記』応長元(1311)年条・北条熙時の項にある経歴の記載の中に「延慶二四九為寄合衆」(延慶2年4月9日寄合衆と為(な)る)とあるのが見える。よって、"武州" 熙時が参加しているこの【史料A】がその日の寄合のメンバーを伝えているものと判断できる。以後貞顕の再上洛までの他の日程で寄合が行われた様子は確認できない。
従って、4月9日の寄合を「昨日」と記す【史料A】は、その翌日、延慶2(1309)年4月10日付のものと推定される。ちなみにこの時、貞顕は越後守であった*34。
長崎円喜の出家時期
【史料A】は、高時政権期に事実上の最高権力者として多数の史料に見える「長崎入道円喜」の初出になり得る史料として注目される。
また、『東寺百合文書』 延慶3(1310)年2月7日付「六波羅注進状案」の宛名に「長崎左衛門入道殿」*35と書かれている。六波羅探題(北方:右馬権頭貞顕/南方:越後守時敦)から訴訟事件についての裁決を委ねるために訴陳状・問注記などを添えて幕府に送られた文書である*36が、得宗への窓口の役割を担うこの「長崎左衛門入道」は【史料C】との照合により、貞時の内管領(得宗家執事)であった長崎円喜(『系図纂要』)と同人とみなせる。
同年ではあるが、前越後守であった貞顕が六波羅探題北方として上洛し右馬権頭となったのは6月、翌7月に北条時敦が同探題南方として上洛し、8月に越後守となったとされる*37ので、書状の日付との整合性にはやや疑問があるが、同年の段階での円喜の登場は認められよう*38。
貞顕が鎌倉に居たⅤの期間内に【史料A】の寄合が行われたのは確実であり、その席に奉行の1人として参加する「長入道(長崎入道)」と、この期間内の史料である「六波羅注進状案」の宛名「長崎左衛門入道」はともに長崎円喜で間違いない。
そして【史料A】には「長崎左衛門入道」とは別に、得宗の使者として「長崎左衛門(尉)」が登場する。「○郎」等が付かずに単に「長崎左衛門尉」と称される人物は長崎氏嫡流(光綱―高綱(円喜)―高資:『保暦間記』・『系図纂要』)の者に限られていたから、この人物はそれまでの「長崎左衛門尉」であった「長崎左衛門入道」と同じ左衛門尉に新たに任官した、左衛門入道の嫡男と考えられる。よって前述の通り、円喜・高資父子の組み合わせしかあり得ない。長崎円喜は延慶年間には出家していたこと確実である。
あわせて次の書状を見ておきたい。
彼の事、十月廿九日申せしめ候と雖も、便宜なきにより、いまだ披露せずの由、長全申せし候の間、周章極まりなく候、連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、歎き入り候、歎き入り候、また山門の事により候て、六波羅使者夜前下着し候、去年注進の事、御左右遅々の由にて候、さしたる事は候はねども、□□しく(以下欠)
永井晋氏によると、この文書の紙背が応長元(1311)年8月下旬の奥書を持つ釼阿本の『後七日法道場荘厳儀』と『後七日法雑事』であることから、高時の代まで下ることはあり得ず、貞顕が鎌倉で政務をとっていた期間(=Ⅴ)内で「去年」と年が変わっていることから、延慶3(1310)年初頭のものと推定されている。
*昔は紙が貴重だったため、一度使われた紙の余白や裏面を使って再利用することが行われていた(紙背文書)。釼阿は貞顕から送られた【史料D】の裏面を使って『後七日法道場荘厳儀』および『後七日法雑事』の文面を書いたのであろう。他の例による紙背文書の説明はこちらを参照。
この史料に「長全」と見えるのが長崎円喜と推定されているが、「長禅門」の類の呼び方(或いは略記、漢字の誤記)なのかもしれない。同時期の史料である前述の「六波羅注進状案」で円喜の出家は確かめられるので、それを裏付ける史料となり得よう。
得宗・貞時について「連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、歎き入り候、歎き入り候」と評するこの書状からは、これを諫めるべく内管領の円喜に奏上を頼んだ用件が年を越しても未だに奏上されていないことに貞顕が慌てている様子が窺える。
関連するものとして次の史料も確認しておきたい。
この史料も貞時の行状を諫めた披露状であり、細川氏は宛名の「長崎左衛門尉」を盛宗=円喜に比定されている*39。前述した、のちの「六波羅注進状案」での「長崎左衛門入道殿」に同じく、内管領として得宗・貞時への窓口の役割を担っているので、【史料A】での「長入道」(円喜)とは同人で、「長崎左衛門」(高資)とは別人と判断できよう。
よって、細川氏は徳治3(1308=延慶元)年8月~延慶2(1309)年4月9日の間に円喜が出家したと推定されている。
ところで、筆者は次の記事において、円喜が『系図纂要』に掲載の俗名「高綱」を名乗った可能性があったことを指摘した。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
「高綱」の「高」は北条高時の偏諱であり、 名乗ったとすれば高時が元服した延慶2年1月21日以降で、その後3ヶ月の間に出家したということになる。細川氏はこれを「現実的な想定ではない」として否定されたが、筆者はむしろ、前述した出家の推定時期の最中に高時の元服が行われていることこそがその裏付けになり得ると考える。
また「高綱」の名は「得宗の偏諱+綱」という、かつての内管領、平頼綱・宗綱父子*40に倣った構成であると言え、円喜以後の嫡流が同名を避けて「高資」・「高重」と名乗っている(『系図纂要』)ことからしても、長崎盛宗は出家前「高綱」に改名していたと思う。恐らく高時の元服と同時に行われたのではなかろうか。
その後わずか数ヶ月での出家となったのはあくまで結果論であり、何かしらの理由があって突発的に行ったのであろう。矢開の際に高時の御剣役も務めた盛宗が、高時との関係を更に緊密にするため「高綱」に改名することは十分あり得るのではないか。
よって、円喜の出家時期は、高時の元服後、延慶2(1309)年1月22日~4月9日の間に求めるべきであろう。
脚注
*1:『鎌倉遺文』第31巻23663号。
*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.360。
*3:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.67。
*4:注3前掲永井氏著書、P.66。
*5:洒掃尹(サイソウイン)の意味や使い方 Weblio辞書 より。ちなみに掃部寮の別称は「洒掃署」である(洒掃署(サイソウショ)の意味や使い方 Weblio辞書 参照)。
*6:他の例として千葉介宗胤(千葉宗胤)を「千葉別駕宗胤」と呼称した史料が確認できる(千葉介の歴代 ― 千葉宗胤 より、典拠は『歴代鎮西要略』)。
*7:左衛門尉 の内容・解説 | 教学用語検索|創価学会公式サイト-SOKAnet 参照。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*10:注3前掲永井氏著書、P.3。
*11:金沢流の歴代家督を見ると、初代・実泰は第3代執権の長兄・泰時から1字を受けて「実義」から改名しており、『吾妻鏡』に2代・実時が泰時(天福元年12月29日条)、3代・時方(のちの顕時)が時宗(正嘉元年11月23日条)を各々烏帽子親としたことが見え、金沢流北条氏嫡流は代々得宗家と烏帽子親子関係を結ぶ家系であったことが窺える。山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27) より。
*12:貞時の父・北条時宗の出家および死没は、貞顕がわずか7歳(数え年)であった弘安7(1284)年4月4日である。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*13:この間陸奥守となったのは大江広元と足利義氏のみであり、幕府宿老が補任された国守であった。森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.123 より。
*14:注3永井氏著書 P.86。例外的に1282~1284年は安達泰盛が秋田城介と兼務しているが、外戚ゆえ一門に準ずる人物と言えよう。
*15:注3永井氏著書、P.73・97。
*16:注13前掲同箇所、および、高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.97。
*17:前注高橋氏著書、同箇所。
*18:この期間に相模守となったのは、宗宣の執権就任と同時に連署となった煕時であり(同月24日~:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より)、その後任の武蔵守となったのが貞顕である(注9前掲同職員表「金沢貞顕」参照)。従って宗宣は、煕時に執権職を譲るまで相模守へ転任していなかった。
*19:Ⅱの場合、安達時顕(延明)と太田時連(道大)が高時に追随して出家しているはずなので、特に時顕は「城入道」(注2前掲細川氏著書、P.322。)と呼称されていなければおかしい。
*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。
*21:一例として、北条高時滅亡後の改名現象・補 - Henkipedia の〔史料G〕(『鎌倉年代記』裏書)が挙げられる。他にも『太平記』巻17「隆資卿自八幡被寄事」に「信濃入道々大」、『東寺百合文書』に「信濃前司入道々大〔または道大〕」と書かれた書状が確認できる(ヨ函/98/:観応元年3月日付 東寺雑掌光信陳状(案)、ヨ函/102/:文和4年9月日付 東寺雑掌光信陳状案)。
*22:『鎌倉遺文』第27巻20938号。
*24:細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.962。
*25:『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia 参照。
*26:『鶴岡社務記録』同年8月6日条に「同日長崎金吾光綱他界」とあり(注2前掲細川氏著書、P.183)、出家をせずに亡くなったことが分かる。「金吾」については注7に同じ。
*27:注2前掲細川氏著書、P.167。典拠は『親玄僧正日記』永仁2(1294)年2月16日条、および、同年4月23日条。
*28:この通称で呼ばれた例としては、元応2(1320)年9月25日付「関東下知状写」(『小早川家文書之二』二八五号)にある「長崎新左衛門入道性杲」が挙げられる。梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115によれば、この性杲は正応4(1288)年に平頼綱の弟とみられる「平七郎左衛門尉」とともに東使として上洛しており(典拠は『実躬卿記』同年6月1日条)、同年2月21日付「六波羅施行状案」(『摂津勝尾寺文書』、『鎌倉遺文』第23巻17557号)で存命が確認できる「長崎左衛門入道との」の嫡子ではないかと思われる。この親子は、同年8月20日の追加法(新編追加、同前17664号)にある「長崎左衛門尉光綱」とは別人と考えるべきであろう。
*30:再び鎌倉へ帰還したのは正和3(1314)年11月16日であり、この当時の官職は「武蔵守」であった。注9前掲同職員表「金沢貞顕」参照。
*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その46-北条時村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*33:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*35:『鎌倉遺文』第31巻23884号。イ函/15/2/:六波羅注進状案|文書詳細|東寺百合文書の画像3中央部分を参照。
*36:注進状については、『精選版 日本国語大辞典』「注進状」の項② を参照。
*37:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その50-北条時敦 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*38:注2前掲細川氏著書 P.184 注(73) では、同年3月8日付「得宗家公文所奉書」(『鎌倉遺文』第31巻23932号)における奉者の第一位「資□」(2文字目欠字か) が後の長崎高資と同様の役割を担っているとして、改名前の高資と推測されている。【史料A】で「長入道」の後継者とみられる「長崎左衛門」が登場していることからも、同年の段階で出家を済ませた円喜から後の高資への執事交代が行われた可能性が考えられよう。
*39:注29同箇所。
*40:注28前掲梶川氏論文、P.115~116。