Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

武田宗信

武田 宗信(たけだ むねのぶ、生年不詳(1250年代?)~1326年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。父は武田政綱。子に武田貞信。『尊卑分脈』によれば、通称および官途は 石禾三郎、伊豆守。別名(初名か)武田信家(のぶいえ)

 

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父・政綱は生年不詳だが、『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)によれば兄(宗信伯父)の信時が承久2(1220)年に生まれて、寛喜元(1229)年に元服したようで*1、『吾妻鏡』では嘉禎3(1237)年6月23日条に「武田五郎次郎信時」として初めて現れる*2。政綱はその4年後、仁治2(1241)年正月23日条に「武田五郎三郎」として初出する*3ので、信時から見てさほど年の離れていない弟で1220年代に生まれたと推測できよう。

従って、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、信家(宗信)の生年は1240年代以降と推定可能である。

もう一つ、重要な情報がある。

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こちらの記事▲で紹介している、永仁2(1294)年の成立とされる、白河集古苑所蔵「結城系図(結城錦一氏旧蔵)には、小山貞朝の母が「武田三郎入道女(=娘)」であったとの注記が見られ*4、市村高男氏はこの「武田三郎入道」を政綱に比定される*5。文永8(1271)年4月27日、得宗(8代執権)北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意(『紀州三浦文書』)*6も政綱に比定されよう*7

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞朝の生年は1282年と判明しているので、その母親は遅くとも1260年頃、或いは少し遡って1250年代の生まれであったとするのが妥当に思われる。貞朝母の兄或いは弟にあたる信家(宗信)も同世代人だったのではないか

 

既にご指摘の通り、「信」の「宗」は北条時得宗家当主:1263年 / 執権:1268年~ 1284年)*8からの偏諱と推測される*9。1250年代の前半か後半かで、元服当時の得宗時宗であったかどうかの判断は難しいが、「信家」から改名した可能性があることを考えると、「宗信」と名乗ったのは時宗執権期間内と考えて問題ないのではないかと思う。『綱要』や『系図纂要』によると建治3(1277)年に信時の孫が時の加冠により元服して「」と名乗ったようで、これ以後の可能性もある。

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尚、こちら▲の記事において、以下4点史料の人物を宗信に比定した。

 

【史料1】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*10:結番における5番衆の筆頭「武田伊豆守

【史料2】徳治2年7月12日付「鳥ノ餅ノ日記(矢開日記)」(『小笠原礼書』)*11:この矢開に参加した「武田伊豆守

史料3】『北条貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月27日の北条貞時十三年忌法要において銭50貫と馬一疋置鞍、鹿毛を寄進する「武田伊豆入道*12

【史料4】『常楽記』嘉暦元(1326)年7月5日条:「七月五日武田伊豆入道他界*13

 

上記記事では、鎌倉時代後半期の武田氏における伊豆守任官年齢を当初は60代、次第に40~50代に低年齢化することを導き出し、特に【史料1】・【史料2】に書かれるメンバーが明らかに得宗被官、或いは被官化した御家人であることから、宗信と見なした。従って徳治2年当時既に伊豆守在任であったことになるが、これも前述の生年推定の根拠の一つである。

伊豆守以前の通称「石禾三郎(いさわのさぶろう)」については史料上で確認できないものの、『建武記』建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」が登場しており*14、孫の武田政義が同じ通称名を名乗っていたことが分かるので、政綱(石和)流当主代々の仮名であったと推測される。その約30年前の嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎(『鎌倉年代記』裏書)貞信ではないかと思われ、その父である宗信は当時の段階で伊豆守任官を果たしていたのではないかと思われる。

その後【史料3】までに入道(出家)しているが、その具体的な日時や法名は不明である。考えられるとすれば、応長元(1311)年の得宗北条貞時時宗の子)逝去時の可能性があるが、これについては後考を俟ちたい。嘉暦元年の逝去(【史料4】)時には享年60~70代であったと推定される。

 

脚注

*1:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.48 より。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.259「信時 武田」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:前注『吾妻鏡人名索引』P.278「政綱 武田」の項 より。尚、実名の初見は寛元2(1244)年8月15日条武田五郎三郎政綱」である。

*4:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。

*5:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.101。

*6:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館

*7:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家(宗信)のいずれかとするが、政綱の方が当てはまるのではないかと思う。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*9:注1前掲高野氏著書 P.51。

*10:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*11:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収: 井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200・203。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.959。

*12:『神奈川県史』資料編2 古代・中世 2364号(P.709)。

*13:常樂記』より。

*14:『大日本史料』6-2 P.36