Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大友親時

大友 親時(おおとも ちかとき、1248年?~1295年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人

 

 

親時に関する史料(書状類)の紹介 

因幡守在任から辞任まで 

 【史料1】弘安11(1288)年3月20日付「豊後守護大友親時書下」(『志賀文書』)*1の発給者「因幡」 の花押

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花押の一致により、この署判(署名+花押)が大友親時のものであることは後述するが、その初出の史料である。すなわち弘安11年までに親時は因幡守に任ぜられ、大友氏家督としての役割を担っていたことが窺える。

 

 

 【史料2】(年不詳)8月3日付「大友親時書状」(『大悲王院文書』)の「(前)因幡守親時の花押

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この文書には「親時」という実名が記されており、図のように反転させると【史料1】の花押に一致することが分かる。花押は恐らく書状の裏面から据えたのであろう。 

従って、以上2つの史料が「因幡守親時」による発給書状であることが分かる。該当し得る人物は、系図で「因幡守」と注記される大友親時である。

 

 【史料3】正応4(1291)年3月18日付「鎮西奉行召文」(『比志島文書』)*2の「因幡の花押

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花押は【史料1】【史料2】と一致し、これも大友親時による発給書状である。親時が「因幡」名でこの花押を据えた書状は7通ほど残っているが、この【史料3】はその中で最も時期の遡るもの=すなわち因幡守」の初出である。従って、親時は正応4年までに因幡守を辞したことが推測できる。
 

 

親時の生没年と世代推定について 

 【史料4】永仁2(1294)年2月21日付「豊後守護大友親時施行状」(『永弘文書』)*3の「因幡の花押

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紙の状態が悪いのか、文字が見づらくなっているが、花押もこれまでの史料に一致しており、この段階までの親時の生存は確認できる。続いて次の史料をご覧いただきたい。 

 

 【史料5】「大友家過去帳(『志賀文書』)*4:永仁3(1295)年9月23日死去

 前因州太守道徳大禅定門 永仁三年九月廿三日逝

 従五位上因幡守兼行*5左近将監親時

 (大友)親時であることもわざわざ記載しているが、前因州(=前因幡守)の最終官途はこれまでの史料に一致する

数年後の正安年間からは、次代(嫡男)の大友貞親家督としての活動期に入っており、この頃に当主の交代があったことは認められよう。 

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そして、筆者は別稿で大友貞宗を貞親の実弟とし、1290年頃の生まれと推定したが、親時晩年期の息子ということになり、一応矛盾は生じない。

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尚、系図類では享年を60歳とするが、逆算すると1236年生まれとなる*6。 しかしこれが正しいとは思えない。

一つ目には、親との年齢差の問題である。父の頼泰は1222年生まれとされている*7が、すると頼泰15歳の時の子となってしまい、全くあり得ないとは言わないまでも、あまり現実的でないように思う。しかも親時より前に長男の泰能が生まれたとなると尚更である。

二つ目に、国守任官時の年齢の問題である。前述した通り、任官の時期は1287年頃と推定されるが、前述の生年を採用した場合だと52歳となる。しかし、他家と比較してみても30~40代での任官が一般的であり、父・頼泰でさえも46歳であった文永4(1267)年には「前出羽守」であった*8から、任官の年齢としては遅すぎるように感じられる。

 

以上2つの考察により、系図類に記載の没年齢は誤伝であり、因幡守となった1287年頃は30代半ば前後であったのではないかと思う。仮に35歳とすると1253年生まれ、40歳としても1248年生まれとなり、父・頼泰との年齢差を考えればこちらが妥当であろう。

奇しくも1248年は次代・大友貞親の生年とされる年である*9が、これが誤りであることは別稿にて指摘した。恐らく各当主の生年を混同した可能性も考えられるのではないか。

従ってこの1248年を貞親ではなく、親時の生年としておきたい。頼泰27歳の時の子となり、仮に多少の誤差があったとしても1240年代後半の生まれではないかと思う。貞親については別稿で1273年頃の生まれと推定したが、親時26歳の時の子となって問題ない。 

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親時の烏帽子親

「親時」の名は、「親」が祖父(頼泰の父)親秀の1字であることから、「時」が烏帽子親からの偏諱と推測される。この「時」の字は、執権を務めていた北条氏の通字であり、同氏から一字拝領を受けたのではないかと思われる。次の図で示す通り、大友氏一門では父の頼泰も含め、北条氏得宗から一字を受けたと記す系図が確認できる。

 

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▲【図6】『続群書類従系図部における大友氏一族の得宗からの一字拝領に関する注記*10 

 

前節での推定生年に従うと、北条時頼が出家して執権職を辞した1256(建長8/康元元)年では9歳、時頼が亡くなった1263年の段階では16歳となり、この間に元服を済ませていたと推定できる。10代で元服の場合だと時頼が烏帽子親であったとは直ちに断定できないが、北条時頼得宗期での元服であったことは確実である。

但し、1256~1263年の間は時頼が嫡男の時宗を指名する形で烏帽子親子関係を結ばせていた可能性があり*11、親の烏帽子親は幼少の宗だったのかもしれない*12 。 

 

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第22巻16551号。

*2:『鎌倉遺文』第23巻17575号。

*3:『鎌倉遺文』第24巻18487号。

*4:『編年史料』伏見天皇紀・永仁三年九~十一月 P.15 より。

*5:「行(こう)」とは、位階が官職の本来の官位よりも高い場合に付すもの。この場合、因幡守が従五位下相当であるため、"行"を付記しているのであろう。詳しくは、行 - ウィクショナリー日本語版#接頭辞 も参照のこと。

*6:大友親時(おおとも ちかとき)とは - コトバンク

*7:大友頼泰 - Wikipedia を参照。

*8:同年のものとされる正月17日付「大友頼泰書状」(『壬生家文書』、『鎌倉遺文』第13巻9639号)に「前出羽守頼泰」、3月24日付とされる「某書状」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』29、『鎌倉遺文』第13巻9678号)に「豊後国守護大友出羽殿」とある。

*9:大友貞親(おおとも さだちか)とは - コトバンク大友貞親 - Henkipedia も参照のこと。

*10:貫達人円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21 に掲載の図を基に作成。

*11:吾妻鏡』正嘉元(1257)年11月23日条によると、金沢顕時(初名:時方)元服北条時頼の邸宅で行われたが、その烏帽子親を務めたのはその息子・時宗であったという。これについては、亭主である時頼が嫡男を加冠役に指名したのではないかという解釈がある(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.167~168)。また、村井章介の論考(「執権政治の変質」)によれば、時頼は病気となる以前から執権引退・出家を計画していたといい、その理由は幼少の嫡子・時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現することにあったのだという(高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.154)。この2つの見解を合わせれば、この期間の時頼入道道崇は、ゆくゆくは得宗・執権を継ぐ嫡男の時宗を指名する形で烏帽子親子関係を結ばせていたのではないかと推測される。時頼の出家から僅か3ヶ月後、顕時の元服より約9ヶ月前の2月26日に、僅か7歳であったにもかかわらず時宗元服式が行われた(『吾妻鏡』正嘉元年2月26日条)のもそのためではないかと思われる。この頃、京極宗綱・二階堂行宗など、時宗得宗となる前に「宗」字を拝領した御家人が現れるが、顕時に同じく時頼の邸宅で時宗の加冠を受けた人物とも考えられよう。

*12:この場合「時」の偏諱を下(2文字目)に置いていることになるが、同様の例とされている人物としては足利家が挙げられる(→ 北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照)。また、時頼のケースでも頼の邸宅で元服したと伝わる平賀惟が同様の例に該当する(『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」(『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727)および 前注山野氏論文 P.181)。時自身も九条頼経からの1字を下にしており、鎌倉時代ではこのようなことは珍しくもなかった。但し、時頼の場合は兄の時に対しての庶子(準嫡子)の扱いであったが故の名乗り方で、安達氏や千葉氏にも同様の例が確認できるので、親時の場合も兄・泰能がいたのでそうされた可能性も考えられるが、泰能自身は北条氏の偏諱を受けていないようなので、この点については後考を俟ちたい。