Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

常葉範貞

北条 範貞(ほうじょう のりさだ、1280年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。北条氏一門・常葉流北条時範の子で、常葉範貞(ときわ ー)とも呼称される。

 

詳しい活動内容・経歴については

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)

を参照のこと。 

以下、本稿では "不詳" とされる生年についての推定・考察を述べたいと思う。

 

 

常葉流歴代当主の世代

生年を推定するにあたって、一つ鍵になるのは父親との年齢差である。

しかしながら、ややこしいことに、父・時範の生年については複数の説がある*1

 

徳治2(1307)年8月

  11日、65歳で没:『武家年代記』嘉元元年条。

 → 1243年生まれ(Ⅰ)

  14日没(於・京都)

 享年49:『尊卑分脈』、『鎌倉年代記』嘉元元年条。

  → 1259年生まれ(Ⅱ)*2

 享年44:『関東開闢皇代并年代記事』

  → 1264年生まれ(Ⅲ)*3

延慶元(1308)年4月18日38歳没:

『鎌倉大日記』延慶元年条、『佐野本北条系図』(異説として14日とも)。

→ 1271年生まれ(Ⅳ)

 

※本稿作成にあたり、『鎌倉年代記』・『武家年代記』・『鎌倉大日記』の3点史料は、『増補 続史料大成 第51巻』(竹内理三氏編・臨川書店を参照した。

※年齢は全て数え年。以下本文においても同様とする。 

 

ここで更に祖父(時範の父)・時茂の生年を確認すると、仁治2(1241)年とするのが有力である*4。従って、現実的な親子の年齢差を考えれば、まずⅠではあり得ない

Ⅱだと(時茂が)19歳、Ⅲだと24歳、Ⅳだと31歳の時に生まれた子ということになるが、時茂が30歳で既に亡くなっているⅣのケースではあり得ない。よって、ⅡかⅢということになる。

 

そして、その息子・範貞

Ⅱの場合 → 1279年頃より後

Ⅲの場合 → 1284年頃より後

の生まれと推定できる。

 

 

常葉流歴代当主の叙爵年齢

生年を考える上でもう一つポイントになるのは、叙爵時の年齢である。

常葉流北条氏歴代当主の叙爵時期(年月日)は『鎌倉年代記』によって確認ができ、次の通りである。 

 

時茂:正嘉元(1257)年2月22日、左近将監・叙爵(17*5

時範:弘安8(1285)年3月11日、左馬助・叙爵(27*6

範貞:嘉元2(1304)年10月2日、左近将監・叙爵*7

 

前節でⅣ説を採れば、時範は15歳、範貞が1291年頃より後に生まれ、14歳以下で叙爵したことになり、この観点から言っても不審である。

よって、範貞の叙爵も父とさほど変わらないタイミングで行われたと思われる。仮に、当時の年齢を同じく27歳とすると、1278年生まれとなる。若干低年齢化していた可能性はあるので、前節Ⅱ説が妥当ではないかと思う。1280年頃の生まれとしておこう。

 

 

北条貞時との烏帽子親子関係

前節での生年を裏付けるものとして、「範貞」という実名に着目したい。 

1284年からは北条得宗および執権職(第9代)を継いでおり、元服は通常10数歳で行われたので、前述のⅡ・Ⅲいずれの説を採っても貞時執権期の元服であること確実である。 

そして「」の名は、父・時範からの継字「範」*8に対し、時の偏諱「貞」を許されたものと判断される。言うまでもなく烏帽子親子関係であろう。範は1290年代前半に時の加冠により元服したと考えられる。 

 

尚、「」の偏諱を下(2文字目)に置くのは、北条氏一門の例だと名越公名越朝塩田重、他の御家人だと足利家斯波宗氏*9千葉胤など庶子や庶流の人物に多く見られる。複数の系統に分かれた重時系(極楽寺流)北条氏の中で、常葉流が、得宗に次ぐ家格を持った嫡流赤橋流に対しての "庶流" に位置付けられていたからであると思われる。実際に、烏帽子親の面で将軍か得宗かという違いがあり、赤橋流に比べて出世も遅かった。範貞の息子・重高(『尊卑分脈』)も同様の名乗り方となっている。 

 

 

"歌人の家系" 常葉流北条氏

尊卑分脈』の範貞の傍注には「続千作者」と書かれており、実際「続千」=『続千載和歌集』には次の和歌が収められている。

月待ちて 猶越え行かむ 夕やみは 道たど(たどたど)し 小夜の中山 *10

 平 範貞 *11

 

同じく『尊卑分脈』では、祖父・時茂に「続古続拾新後作者」続古今和歌集続拾遺和歌集・新後撰和歌集、父・時範にも「新後撰作者」(新後撰和歌集と注記されており、常葉流北条氏は代々、和歌に親しんでいたことが窺える。

 

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▲『尊卑分脈』(国史大系本) より*12

 

 

小串氏について

範貞の家臣の代表格として小串(おぐし)という一族が知られる。

藤原姓河村氏の出だと伝えられ、畿内周辺を拠点に活動し、鎌倉時代末期には六波羅探題北方であった範貞の家臣として六波羅探題の検断頭人や、播磨守護代を務めている*13

具体的には、小串範行(三郎左衛門尉)*14小串範秀*15小串貞(さだひで、新右衛門尉)*16小串貞雄(さだお?/さだかつ?、四郎兵衛尉)*17の実在が確認できる。彼らの系譜は明らかとなっていないが、後者2名(秀・雄)の「貞」は範偏諱とみられる。六波羅探題北方在任期間(1321年~1330年)中に与えたとみられ、故人・貞時からの1字を下げ渡すことは特に問題は無かった。

行・秀の「範」も常葉流北条氏(貞 または その父・時*18)から受けたものであろう*19

 

脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その33-常葉時範 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*2:細川重男氏はこの説を採っておられる。

*3:北条時範 - Wikipedia ではこの説を採用。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その32-常葉時茂 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*5:鎌倉年代記』康元元(1256)年条。注4同職員表も参照のこと。

*6:鎌倉年代記』嘉元元(1303)年条。注1同職員表も参照のこと。

*7:鎌倉年代記』元亨元(1321)年条。本文冒頭前掲・同職員表も参照のこと。

*8:この字の由来は、阿多見聖範と思われる(ちなみに姓氏は居住地であった現在の熱海を苗字としたものである)。初代執権・北条時政以前の系譜については諸説伝わるが、『尊卑分脈』では直接の先祖としており(「平直方―聖範(阿多見四郎禅師)―時直―時家(聖範子云々、北条四郎大夫)―時方―時政」)、(系譜の真偽はさておき)実際も先祖と仰いでいた可能性が高い。時範以前の使用例としては、時政と後室・牧の方との間に生まれた北条政範が挙げられる。

*9:北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照。

*10:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*11:注8に示したが如く、北条氏は桓武平氏の傍流を称し、平姓を名乗っていた。

*12:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.19。

*13:小串氏(おぐしうじ)とは - コトバンク 参照。

*14:詳細は 小串範行 - Wikipedia を参照。

*15:詳細は 小串範秀(おぐし のりひで)とは - コトバンク を参照。

*16:『大日本古文書 家わけ第十九 東大寺文書之二十』1310号1313号1391号1393号同書の紹介記事も参照)や『鎌倉遺文』第37巻29183号、第39巻30241号(その他、第38巻29893号、29934号、第41巻31804号、31836号は『東大寺文書』に同じ)に記載あり。

*17:『鎌倉遺文』第38巻29946号に「小串四郎兵衛尉」、29961号に「貞雄」とあり(いずれも『大和福智院家文書』所収の書状)。奈良県地域史料目録 - 83播磨福泊島修築料升米文書案 (嘉暦2年)8月7日 (差出人)武蔵守(赤橋守時) (宛所)謹上 越後守殿(常葉範貞) も参照のこと。

*18:1303年12月~1307年の死没まで六波羅探題北方として在京。注1同職員表より。

*19:河村氏は藤原秀郷の末裔とされ(→ 武家家伝_河村氏)、範秀・貞秀の「秀」、範行の「行」、貞雄の「雄」は先祖と仰ぐ人物(村雄―秀郷―□―□―文行----(以下略)…)に由来するものと見受けられる。