Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉頼胤

千葉 頼胤(ちば よりたね、1239年~1275年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。千葉氏第8代当主。

父は千葉時胤。後述の通り異説もあるが、母は北条時房の娘と考えられている*1

 

人物の詳細については本文末の 外部リンク を参照のこと。

以下、本項では名乗りに関する記述に留める。 

 

千葉大系図*2による基本情報は次の通りである。

千葉介 幼名:亀若丸(かめわかまる)

母:臼井九郎尊胤の娘

延応元(1239)年已亥11月20日誕生、仁治2(1241)年3歳相続家督、…(以下略)

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

2種類が収録されている『続群書類従』の「千葉系図」の片方では、父・時胤が仁治2年に亡くなっていること、頼胤についても文永11(1274)年に37歳で逝去(=逆算すると1238年に誕生)した旨の注記があり(下掲【図A】)*3、『千葉大系図』とほぼ一致する。

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▲【図A】『続群書類従』所収「千葉系図」①*4

 

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▲【図B】『続群書類従』所収「千葉系図」②・頼胤の部分

 

尚、もう一種類の「千葉系図」(=【図B】)では没年を翌建治元(1275)年とするが、その享年を67ではなく【図A】での37とすれば、1239年生まれとする『千葉大系図』との整合性がとれる。【図B】の注記冒頭には、「幼少にて父・時胤に離れ(=この場合、死離*5・離別・死別の意か)候に付き」原丹後守・円城寺山城守・湯浅帯刀・粟飯原下野守の4人の家老が「執権」として「頼胤を守り奉った」とあり、これも前述の『千葉大系図』を裏付けるものになろう*6。1230年代末の生まれであることは間違いなく、命日も8月16日と26日では似通っており、編纂時の誤記・誤写などが起きたのではないかと思われる。 

 

以上の情報を整理して、正確な生没年を推定すると次の通りである*7

1239年11月20日生まれ(『千葉大系図』)

1275年(『類従』②)8月(『類従』①・②)死去、享年37(『類従』①)

 

実際の史料でも、建長元(1249)年5月27日付の書状下総中山法華経寺所蔵『日蓮筆双紙要文九裏文書』)では「(平)亀若丸*8と書かれており、当時11歳であった頼胤がまだ元服を遂げていないことが窺える。『吾妻鏡』等によれば、時胤亡き後はその弟(頼胤の叔父)千葉次郎泰胤家督を代行するような形で幕府に奉公していたようである(外部リンク より)。 

実名の初見は『吾妻鏡』建長5(1253)年8月15日条*9。この日の鶴岡八幡宮放生会に、後陣の供奉の一人として参列する中に「千葉介頼胤」の名が見える。当時頼胤は数え15歳。後陣の供奉を千葉氏が務めるのは千葉常胤以来のことであった(外部リンク より)。 

 

すなわち、適齢を迎えたので1249~1253年の間に元服したことが分かる。千葉氏通字の「胤」に対し、当時の執権・北条時偏諱である「」の使用が認められており、時が自ら胤の加冠(烏帽子親)を務めたことが推測できよう*10。父・時胤が同じく北条氏(3代執権北条泰時か?)から通字の「時」を受けた前例に倣ったものと思われ、同名を避ける意図で「頼」字が与えられたのであろう。

この字は元々、時元服の際に4代将軍・九条経から賜ったもの*11で、この頃も頼経の子・頼嗣が5代将軍の座にあったが、後述外部リンクでも述べられている通り、この期間には、六角流佐々木泰綱の息子が時の邸宅で元服を遂げ「綱」と名乗った事例が『吾妻鏡』で確認できる*12ので、時頼が平然と「頼」字を与えることは特に問題視されなかったようである*13。頼胤の元服も六角頼綱と同様に執り行われたと考えられる。

 

外部リンク 

 千葉介頼胤

 千葉頼胤 - Wikipedia

 千葉頼胤(ちば よりたね)とは - コトバンク

 

脚注

*1:岩橋直樹「中条本『桓武平氏諸流系図』所収の両総平氏系図に関する覚書 ー神代本『千葉系図』との記載事項比較を通じてー」(所収:『文学研究論集』48号、明治大学大学院、2018年)P.426~427。

*2:『大日本史料』5-22 P.94。全文は『編年史料』後宇多天皇紀・建治元年6~9月 P.34参照。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.18 でも紹介されている。

*4:『大日本史料』6-14 P.373に掲載の『諸家系図纂』所収「千葉系図」と同内容。原本は「浅羽本 千葉系図」か。

*5:死とは (シとは) [単語記事] - ニコニコ大百科「語彙」より。

*6:注2『編年史料』同箇所を参照。

*7:頼胤の死没については、複数の史料が残されている。詳しくは『編年史料』後宇多天皇紀・建治元年6~9月 P.33~の各史料を参照のこと。

*8:『大日本史料』5-30 P.364 または『鎌倉遺文』第10巻7079号。千葉氏は桓武平氏の支流ゆえ平姓を称していた。

*9:吾妻鏡人名索引』P.412「頼胤 千葉」の項より。

*10:注3紺戸氏論文 P.15・18。

*11:水野智之『名前と権力の中世史  室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.47。典拠は『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条。

*12:注3紺戸氏論文 P.17。今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.47。典拠は『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条。

*13:同じ頃に元服した例としては三浦頼盛がが挙げられる(→ 三浦頼盛 - Henkipedia 参照)。他にも、前注今野氏論文 P.49では六角頼綱と同じく「頼」字が下賜された例として『続群書類従』所収「大友系図」での注記に「北条時頼賜一字」と注記される大友頼泰(初名:泰直)を挙げておられ、また注3紺戸氏論文 P.11~13では足利頼氏(初名:利氏)の例が紹介されている。頼泰・頼氏両者の改名については時期が少し後になると推定され、将軍が宗尊親王に替わっていたので全く問題は無かったと思われるが、10年8ヶ月の執権在任期間を通じて、時頼が積極的に「頼」字を下げ渡していたことが窺えよう。