Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達時長

安達 時長(あだち ときなが、1261年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人

 

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安達氏の祖・安達盛長の次男にも同名の人物(安達時長/大曾彌時長)がいるが、本項では下記【系図A】に安達時盛の子として掲載の四郎左衛門尉 時長について述べる。

 

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▲【系図A】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・時盛については1241年生まれと判明している。従って、現実的な親子の年齢差を考えれば時長の生年は1261年頃より後とすべきである。上の【系図A】では母を二階堂行義(出羽守、1203年~1268年*1の娘と伝えるが、その孫としても妥当だと思う。

また、同系図において「弘安八自害」の記載があるように、安達氏一門の大半が討たれた弘安8(1285)年の霜月騒動連座したことが分かる*2が、最終官途として「左衛門尉」任官の記載があることに加え、同年までに息子の師顕(もろあき)が生まれているはずであるから、亡くなった当時20歳程度には達していたと考えるべきである。

*[参考] 息子・安達師顕については次の史料で「城越後権介師顕」として実在が確認できる*3

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▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*4

 

以上より、時長の生年は1260年代前半と推測され、通例10代前半で行われる元服の年次も1270年代と推定可能である。実名「長」の「時」は北条氏の通字でもあるが、父・時盛から1字を継いだとも解釈し得る一方、「長」も祖先・盛長から取ったものと考えられる。従って「」は父と同じく北条氏からの一字拝領と考えて良いだろう。元服当時の執権・得宗であった北条を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと見受けられる。 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.167「二階堂(出羽)行義」の項 または 二階堂行義 - Wikipedia を参照のこと。

*2:霜月騒動で討たれた者については複数の史料が伝わるが、その一つである熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収の「安達泰盛乱聞書」(『鎌倉遺文』第21巻15736号)に(「葦名四郎左衛門尉(=葦名泰親)」とは別に)「四郎左衛門尉」が含まれている。年代記弘安8年 参照。

*3:注1前掲細川氏著書 巻末基礎表 No.85「安達師顕」の項(→ 同内容を記す細川氏のブログ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№85-安達師顕 | 日本中世史を楽しむ♪ も参照のこと。

*4:注1前掲細川氏著書 P.19 より。